月別アーカイブ

カテゴリアーカイブ

『前川國男 現代との対話』の最近のブログ記事


【松隈】今回は、「前川國男と都市」というテーマをかかげました。前川國男は都市をテーマにした建築家ではない、と一般的にはいわれています。しかし、前川は、最終的には、一つの建築の中に都市的なものをいかにしたら織り込めるか、に設計作業を集中させていったのであり、やはり都市は大事なテーマだったのだと思います。「輝く都市」を構想したル・コルビュジエに学んだ前川國男は都市をどう考えたのか。今、都市の問題はいろいろな意味で混乱しており、切実に解決策を見つけなければならない難しい時代です。前川がテーマとした都市とは何か、そして、現代の都市をどうするのか、を考えてみたいのです。
 今日、お招きした野沢正光さんは、大高正人さんに学ばれました。大高さんは、前川の下で、「神奈川県立図書館・音楽堂」や「東京文化会館」を担当し、独立後は「多摩ニュータウン」など、都市をテーマにしてきた建築家です。野沢さんは、大高事務所では、広島の「基町高層アパート」を担当し、世田谷区の宮之坂駅のコンペでは一等を取り、集合住宅や駅という視点から都市のことを考えてこられました。
 もう十年以上も前のことですが、一九九二年に、「神奈川県立図書館・音楽堂」の取り壊し問題が起きました。そのとき、野沢さんは保存運動の中心になって活動された。それは音楽堂が残る大きな力でした。その経緯を、私は後ろからずっと見ていました。
 また、その少し後の一九九七年に、前川が都市居住をテーマに設計した「晴海高層アパート」が、再開発で姿を消しました。情けないことに、跡地は駐車場になっています。そのときも、野沢さんが建物の大切さを訴えていました。そうした前川建築との関係からも、野沢さんに、「都市」をキーワードに話していただきたいと思います。

【野沢】野沢です。松隈さんから、「前川國男と都市」について話してほしいと依頼されたとき、「テーマが重たすぎて、無理だよ」と言ったんです(笑)。そうは言っても、都市は幅も広いし、都市と建築は切っても切れない関係ですから、このテーマを脇に置きながら、前川さんのことを考えてみるのも良い機会かもしれない、と思って出てきました。

■前川國男との出会い
私が忘れがたく覚えている前川さんの姿があります。それは、「国立西洋美術館新館」の緑色タイルの増築ができた直ぐ後、友人と出かけた折、中庭をはさんでル・コルビュジエの本館と向かい合う休憩コーナーがあったのですが、そこに、前川さんがひとり立っておられたのです。びっくりしました。でも、そのとき、前川さんは、自分が設計した建物ができた後に、どのようにそれがひとびとに使われているかをこっそりご自身でで確かめに来るような建築家だと思ったんです。とても印象的な光景でした。

 以前、『GA』というガラスメーカーの質の高い社外報が「前川國男とテクニカル・アプローチ」という特集を組んだことがあります(一九九六年秋号)。このとき、内田祥哉さんにインタビューして、「前川さんをどう見ていましたか」とお聞きしたところ、「戦後の焼野原の時代に本建築を作れる建築家は前川さんだけだった。他の建築家は仮設的な木造建築しかできなかったのに、前川さんだけが鉄筋コンクリートの建物を手がけていて、うらやましかった」と言われた。
 前川國男は、戦後すぐに、期待される建築家として大きな任務が肩にのしかかることになったのだと思います。一九五四年に音楽堂を作ります。このような建物を、まだ誰も作っていない時期に、作ることを前川事務所は期待されたということです。そういう意味で、前川さんは、悲劇の人ではなくて、もっとも恵まれた建築家だったと思います。

■技術を通して建築を考える
 ところで、私は大学卒業後、大高事務所に入ったのですが、当然ながら、設計の実務を担当する中で、自分で考えなければならないことがたくさん出てくるわけです。そのとき参考にしたのが、建築の雑誌と実物の建物だった。そうした中で、当時出版されていた、『建築』という正統派建築雑誌に、前川事務所の田中誠さんの、「建築素材論?テクニカルアプローチとデザインの接点を求めて」という連載がありました(一九六一年八月号〜六二年六月号)。そこには、プレキャスト・コンクリート、窯業製品、スティール・サッシュなど、いわば前川建築を成り立たせている三大ツールとでもいうべきものが具体的に紹介されていて、建築をどのように考えて、どのように作ったかが、きちんと報告されていました。
 私は、もともと技術的な工夫が際立っている建築が好きな方だったので、田中誠さんの記述のていねいさと、建築へのアプローチの姿勢に感激したのです。そして、こういうことを考えることが建築を作っていくことなのだ、と教えられました。建築の形は、突然に表われるようなものではなくて、一つ一つ、たとえば工法とか、生産合理性とか、そのようなものの積み重ねからできている、テクニカル・アプローチというのは、おそらくそのことを意味していたのでしょう。それが、僕にとってとてもなじみの良いものだったのだろうと思います。
 その後、前川さんの仕事に、書き手として触れる機会がありました。「原点としての設計スピリッツ」を特集した『建築知識』の三〇〇号記念号(一九八三年七月号)です。一九五〇年代の建物をとりあげて、みんなで書き分けたのですが、私が担当したのは、前川さんの「日本相互銀行亀戸支店」でした。ほとんど誰も知らない建物です。私は子供の頃祖母の家に行く折に、プレキャスト・コンクリートの南京下見板の外壁をもつ、この建物の横を通っていました。戦後の街中に、白い建物がぽつんと立っていた。私の近代建築初体験のひとつが、この「日本相互銀行亀戸支店」なのです。もう一つは、修学旅行で鎌倉に行ったときに見た、「神奈川県立近代美術館」です。建物に光が反射して真っ白に輝いて見えました。

■都市を経験する
 「神奈川県立図書館・音楽堂」は坂倉さんの「神奈川県立近代美術館」同様当事の知事、内山岩太郎の発案で戦後いち早く作られた前川さんの初期の傑作です。しかし、さきほど紹介がありましたが、その建物がバブル期の再開発計画によって取り壊される、という不穏な噂が伝わりました。それで、「それは困るよ」と、保存を訴える声を建築家や音楽家が上げ、私もその動きに加わったのです。そのとき、なぜこの建物が壊されると困るのか、を考えざるを得なかった。そこに建てられた経緯や都市の中の建築のありようを、建物が壊されるかもしれないという切迫した状況の中で、新たに知り、確認することがたくさんありました。そのときから、私は、「都市」を経験することになった、ともいえます。
 その保存運動の最中に、「音楽堂が危ない」と、担当者だった大高さんに伝えに行ったところ、大高さんは、設計したころのことを懐かしそうに話してくれました。現在は、江戸東京たてもの園に移築された「前川國男自邸」で音楽堂の図面を描いたそうです。ご存知のように、前川事務所は戦争で事務所を焼失し、戦後の活動は前川さんの自宅でスタートしたんですね。それで、板の間の居間に製図台を並べていた。夏はあまりに暑いので、上半身裸で描いていると、前川さんが帰ってくる。帰ってくると裸では怒られるので、慌ててシャツを着たそうです(笑)。そんな状況で音楽堂は設計されていた。
 「そのとき、設計の参考にしたのが、ロンドンのテムズ川の河畔に建つ「ロイヤル・フェスティバル・ホール」の報告書だった。そこには、こうすれば、経験的ではなく、きちんと科学的に音響がデザインできる方法が詳細に書かれていた。」、と彼は話しました。もちろん、当時は、前川事務所も、音楽ホールを設計した経験などありませんから、必死になってその報告書を読んで設計したのです。「あれがなかったらできなかった」と言っていました。
 そうなると、私も、ロンドンに行った際は、フェスティバル・ホールに行かないわけにはいかなくなってしまう(笑)。でも、毎回そこへ立ち寄るようになって、都市と建築についていろんなことを学ぶことができたと思っています。それは、音楽堂や日本の公共建築と、フェスティバル・ホールが置かれている状況の違いです。

■ロイヤル・フェスティバル・ホールの教え
 フェスティバル・ホールのホールの下、ホワイエは、いつ行っても公開され、音楽会が行われています。無料です。人があふれ、ビールを飲んで楽しんでいる。本屋もCDショップも開いている。バーもあって、スナックスタンドもあります。時間をつぶしながら快適でタダでいられる場所が、維持、管理、運営されているのです。街の公共施設はこうやっていつも市民に向け開いているものなんだ、ということを教わりました。
二〇〇一年に、フェスティバル・ホールは、開館五〇周年を迎えましたが、ロビーには、『五〇年目の大改修』というパンフレットが置いてありました。内容は、今後一〇〇年使うための増強案の詳細な説明と、そのための募金の呼びかけでした。「みなさん当事者でしょ、楽しくここで遊んでいるのだから、少しは出してよね」という調子です(笑)。いくつかの仕掛けが、サービスと対価の緩やかな要求として、盛り込まれているんですね。横には今度使う椅子の実物まで置いてある。大改修が終わるのは二年くらい先ですよ。でも、すでに椅子は決まっていて、「今度、君たちこれに座れるんだぜ」という感じなのです。
そのパンフレットを見ると、担当する建築家だけでなく、それを支える技術コンサルタントまで、十チーム以上の名前が記されていたと思います。オーブ・アラップのような有名な構造コンサルタントの他にも、防火は誰がやる、積算は誰、などと書かれています。パンフレットを見て、寄付しようという気にさせるような、楽しげな仕掛けになっている。大高さんは、「音楽堂は、フェスティバル・ホールを参考にした」と懐かしそうに言いました。私は実際のロイヤルフェスティバルホールを見て、都市の公共施設は本来こういうものなんだと思ったのです。日本に帰って、神奈川県立音楽堂に行くと、コンサートのない時は、扉がぴったり閉まっていて、暗黒の空間といいますか、ホワイエも寒々しい。私たちの街は、ロンドンがもっている都市のサービスを欠いていることに改めて愕然としたわけです。

■近代建築をわかりやすく語ること
 さて、音楽堂を壊そうとする不穏な動きがあったとき、私たちは、単純に「困るじゃないか」という思いで保存運動をはじめました。しかし、実際に動き出してみると、「保存を訴えるには音楽堂でシンポジウムをやるしかない。でも難しい」と、みんな弱気になっていた。その打合せに、私がたまたま遅れて行って、「できる、できる!」と言ったのでやることになったと、後で聞きました。(笑)こうして、音楽家と市民、神奈川県立音楽堂を利用しているたくさんの人たちが熱心に動いてくれて、シンポジウムが見事にできたのです。
 その中に、「浜の会」という名前だったと思いますが、横浜市内をボランティアで案内するグループの人たちもいました。彼らに、「街をガイドする際に、例えば、港の見える丘公園に建っている古い洋館は説明できるけれど、音楽堂のような近代建築は説明の対象から外れている」と言われたのです。それを聞いて、これは私たち建築の世界にいるものの怠慢だと思いました。私たちは、音楽堂は、近代建築として問答無用に良いのだと思い込んでいたわけです。でも、今まで普通の人にわかりやすい言葉で説明することを怠ってきたのではないか。「近代建築の良さを説明してください」と言われて、私たちは、急遽、近代建築の説明をするトレーニングをさせられた。それは、私にとってもうひとつの大切な経験でした。
 やはり、街は、専門家がこうしたらどうだろう、こうしたらわかってもらえる、こんな手間のかかったサービスなら良い反応を示してくれるだろう、といった仕掛けがあって、はじめて楽しむことのできる場所になるのだろうと思います。ロイヤル・フェスティバル・ホールのスタッフたちが日々画策しているようなことですね。私たちがいかに市民に説明できるのか。それは、建築がポピュラーになってつまらなくなったり、反対に高尚なものになっていくのとは違う。建築の楽しみ方をきちんと説明できること、偉い人がやっているので黙っていなさい、ということではなくて、建物を作るときもできたときも、きちっと市民と応答することが、楽しい街を作っていくことにつながるのではないかと考えるのです。

■一九五〇年代の近代建築とレプリカ
 そういう意味では、前川さんの日本相互銀行本店や神奈川県立図書館・音楽堂、坂倉さんの神奈川県立近代美術館など、一九五〇年代の建物は、私たちにとって大切な文化財のはずです。これら全部を残したとしてもたいした数ではないでしょう。今の私たちを取り巻く変化の中では、こうしたものは明日なくなってもおかしくない状況です。その一方で、コンドルの設計した「三菱一号館」が突然、レプリカとして戻ってくる。「それは本物といえるのか」という感じもあって、建物の保存とは何か、そして、都市の風景をどう継承していくのか、が大きく問われています。このことは、私たちの後の世代にとっても大問題です。わたしは街に空虚感を作ってしまう、街自体が捏造された一種の書き割りになってしまう危険性を感じるのです。

■前川建築をたどる
ここで、私の前川建築体験について少しだけ紹介します。私は、もちろん前川さんの建物を全部は見ていません。でも、あまり期待しないで行って、本気でびっくりし、感激したのは、「岡山県庁舎」です。これはすごいと思いました。このカーテン・ウォールにはあきれました。本当にへなへなのサッシュ・バー。サッシュ・バーは、鉄を押し出して作る小さなL型や十型をしたものです。そのサッシュ・バーにパテでガラスを止めるスティール・サッシが当時ありました。それをカーテン・ウォールに全面的に使って、腰パネルは、ベコベコを防ぐために亀甲型にプレスして、立体的な形にしたスティール板で組み立てられている。このファサードに陽が当たって、不思議な光り方、金色に光る。たいへん驚きました。この建築はその後も数次にわたり前川事務所によって丁寧な増築改修が行われていて前川建築の変遷を知ることもでき、サステイナブルな建築使用の好例でもあると思います。『前川國男作品集』(美術出版社,一九九〇年)の中でも扱いは大きくないですが、一九五〇年代の傑作です。
次に、一九六一年にできた「東京文化会館」です。神奈川県立図書館・音楽堂とは十年も時間的な隔たりはないのです。そこには、この建物にかけられたエネルギーと、自在にデザインできるようになった能力、そして、もう一つ、十年ほどしか経たないうちにできたという、当時の日本の経済的成長をも表しているのでは、との気がします。
 私が東京芸術大学に通っている頃には、すでに「東京文化会館」は建っていまして、毎日のようにこの前を通り、中に入って二階の精養軒でチャプスイを食べたりしました。芸大の音楽学校のつてで、建物の裏から入ってタダで音楽会を聞くこともしました(笑)。そういう意味で親しみのある建物です。
 もうひとつ、「東京海上火災本社ビル」です。この建物のように、前川さんの建築には、公開された広場が必ずどこかにありますね。前川さんのウルバニズム(都市計画)では、都市の中に建築を作る、建築の中に都市を作るという方法が試みられていくわけです。
 今は、この建物も、丸の内に無数にある超高層ビルの一つになって埋もれたようになっています。しかし、建設された当時は、皇居のそばに高い建物を建てるのはまかりならぬ、という美観論争が起き、前川さんは、広場を作り出すために一人孤軍奮闘しなければならなかった。そういう意味では、都市というのは厄介なものです。

■ウルバ二ズムへの距離感
 ところで、一九五五年、「国立西洋美術館」の設計を依頼されたル・コルビュジエが、はじめて日本にやってきます。その頃の日本は、まだ、焦土の風景を色濃く残していたのだと思います。僕にはおぼろげな記憶しかないのですが、今から考えますと夜になると真っ暗になるような都市でした。そのとき、コルビュジエは、自分の下で学んだ日本の三人の建築家、前川國男、坂倉準三、吉阪隆正に向かって、「君たちは、これからウルバニズムを担うことを覚悟しなさい。この状況で街を考えなくてどうするのだ。今なら、まだ白紙ではないか」と言ったそうです。コルビュジエは建築と同じように都市への提案を描いた人ですから、よくわかる話です。また、彼が言うことに説得力のある状況が日本にはあったのだと思います。
 しかし、前川さんは、都市全体の計画ではなく、一つの建築を作ることと格闘しなければならないという役割を引き受けようとしたのだと思います。一つ一つ建築材料を選んだり、サッシュや打込みタイル、プレキャスト・コンクリートを開発する。当時の日本は、そこから始めないと近代建築ができない、という状況にあったからです。近代建築をスタートラインにつけるという宿命を引き受けようとしたに違いない。そうなると、ウルバニズムまでとても手が出せないというのが、前川さんの本音だったと思います。
 これは、東京文化会館の模型です。当時、東京都が用意した「国立西洋美術館」の敷地と「東京文化会館」の敷地を、画然と分けている敷地主義みたいなものがありました。そのままでは、建売住宅のように、決められた敷地にぽつんぽつんと建ってしまう。これでは、アーバン・デザインとはいえないと、前川さんも担当の大高さんも考えて、上野公園と東京文化会館と国立西洋美術館の敷地境界を無視して、原理的に計画を立てようとしたわけです。建物の大きさは変わらないから、どこに空地ができてどこに建物を建つかの関係が変わるだけですから、役所の所有権を一度バラせば、公園と建物があいまって、良いかたちのオープン・スペースができるのでは、と提案したときの模型です。
 しかし、役所は、当然ながら、「余計なことはしなくてもいい、敷地の中に建てろ」と言ってくるわけです。そうしたやり取りを何度か粘り強く繰り返したものの、最後は、役所の仕組みを突き破ることができなくなってしまう。それでも、そういうことをきちんと議論して、より良い街、より良い都市環境をどうしたら作れるか、をまじめに提案している。ともかく原理的に考えている。場合によってはゼロから考えることを可能な限りやってみる。前川さんとスタッフは、当時、そこまでやろうとしていた。すごいなと思います。
 状況は変わって、今では、前川さんの展覧会も開かれますし、吉村順三さんの展覧会も開催される。レーモンドの展覧会も予定されているそうです。私たちの先輩の建築家たちが、何をバトンタッチしながら現在に至っているか、を考えるのに、今年、二〇〇五年はとても良い年です。それを考えることは、自分たちが建築家としてやっていく上で大きな励ましにもなる。建築を考えること、そして、建築を手がかりにして都市や市民や社会に視野を広げることは、逆に建築を考えることに戻ってきます。そう考えると、あの時代に、前川さんが果たしたことは孤高であり、エリートの仕事だったと思います。

■市民と応答する建築へ
 少し乱暴な言い方ではありますが、前川さんの時代には、提案する市民、当事者としての市民は存在しなかったので、建築家は役所との奮闘になった、と言えるのではないでしょうか。これからはその辺が変わってくる。市民との応答で建築を作っていくときに、建築家が自分のサービスできる建築の「品質」を自覚的に考えていくことは、ますます大事になってくると思います。その一方で、建築に対する社会の期待が大きくなってきて、建築の存在感が社会の中で増してくると、建築がフローになって経済に巻き込まれてしまう危険もある。オーソドックスで、きちんとした建築を作ることが、私たちにできるのか。テクノロジーは本当に人々を幸せにできるのか。求められる社会環境に対して、建築は何が用意できるのか。それらの問いに答えようとする作業を、前川さんは、一人でやっていたという感じがします。頼るものは自分の中にだけある。そういう意味では、自分の立場に責任をもって、孤高に見えるほど頑張った建築家です。私たちは、周りに豊富な情報がある分だけ、自らの頭で考えることをしないでいるのではないでしょうか。 

■建築を使う知恵が作る都市の楽しさ
最近、私は、木造の建物を設計することが多いのですが、地方には有能な大工が今もいます。彼らと仕事をしていると、応答の快感のようなものを感じることがあります。私たちが描いた図面を彼らが読んだときに、満面の笑みを浮かべて、「お前の考えたことはとても新しい、しかし、俺の考えていることの延長線上にちゃんとあるよ」という顔をしてくれる。それは、嬉しい瞬間です。このような一種挑発し合うような関係は、テクノロジーの世界には本来必ずあるはずと思います。今、そうした関係が連続的にあればよいのですが、必ずしもすべてにあるわけではなくて、出来合いのもので「これを使ってください」という世の中になっている。そうすると、ものとの応答関係が欠落した建築が、都市の表層を競うようにならざるを得ない。
 「ドイツポスト」という、超高層ビルなのに外気取り入れの開閉窓をもつ建物を見学したことがあります。その実現をサポートした環境系と構造系のエンジニアにゾーベックとシュラーという卓越したエンジニアがいます。彼らは建築家と同等の提案力をもっている。あるいは、それを作りだすことを支援する社会的仕組みが存在する。そういうことが、実は、責任ある都市や建築を作っていく大きな底力なのだと思います。私の経験でいえば、日本には、今言ったような有能な大工がいます。でも、東京でそういう大工を探そうしても、ほとんど無理ですね。建築がポピュラーになって、一般の人々にも面白がられる状況が大きくなる一方で、建築を支える技術をサポートする人びとが疲れてくると、建築はピエロのようになってしまう。
 建築は、一人でできるわけではありません。建築を作り、使っていく多様な知恵が、市民社会の中に、存在するのが都市と言えるのだろう。そうなると、都市は、生き生きしたクオリティの高いサービスを、クオリティの高い人びとが支えながら、その人たちが信頼され、応答がきちんとある、ということになる。それは、建築に限らず、レストランのコックにも、美術館の学芸員にも、図書館の司書にも、あらゆる職業の人に連関するのでしょう。そういう都市を私たちが目指すことが、一番ニコニコしていられる生活環境を作ることにつながるのだと思います。

【松隈】ありがとうございました。都市の豊かさや楽しみ方という意味で考えたときに、どうもこの国はそのことを果たしていない、都市の楽しみ方を知らない。それに対して建築が十分使われていないことをお話されました。前川さんも同じようなことを考えていたのだろうと思います。野沢さんが、神奈川県立図書館・音楽堂の保存運動のころから、このようなことを考えておられたのかということがわかり、大変面白かったです。

■京都の町と京都会館
 それに関連して一つ報告したいことがあります。つい先日、多くの方々の協力を得て、前川が設計した「京都会館」の見学会とシンポジウムを催しました。京都会館は、一九六〇年の開館ですから、今年で四十五周年になります。京都市では、五十周年の二〇一〇年に向けて、建物を直していこうという計画があります。そうした動きの中で、この際、全部壊して建て直したほうが良いのではないか、という強硬意見をもつ人がいることを知りました。そこで、京都会館が、京都の町の中でどのような存在で、どんな可能性を持っているのかを、見学会とシンポジウムを通してもう一度確認したかったのです。
 京都会館は、都市の中に居心地の良い空間を作り出しているという点で、貴重な建物です。前川さんの建築には、中庭的というか、建物の中に人々が寄り集えるような場所を都市に開かれた状態のまま内包していく方法が、ずっと流れていると思います。

■デビュー作に込められたこと
 それから、今度の前川國男建築展で、みなさんに実感として味わってもらえたらいいな、と思っていることがあります。それは、前川國男の一九三五年のデビュー作「森永キャンデーストア銀座売店」の空間です。この建物は、銀座通りに面して、「三愛ドリームセンター」の少しに西側に建っていました。残念ながら、戦災で焼失して今はありません。コンクリート・ブロック造のバラックを改造したささやかな仕事ですが、この建物には、街への提案が試みられています。ショップ・フロントをくの字に引っ込めて、人々がちょっとたたずんだり、雨宿りができるような場所が作られているのです。
 現在の「紀伊国屋ビルディング」にもつながるような、街に対して手を広げている建物です。目下、学生が模型を作っている最中ですが、学生本人が模型を作ることによって、私以上にこの建物の良さを感じています。今、建っていても素敵だと思えるたたずまいです。ブロック造の正面外壁を取り払って、鉄骨で補強して全面ガラスとし、中の間仕切りも全部取り払い、吹抜けを二ヶ所作って階段を配置し、奥の方まで視線が抜ける空間構成になっている。鰻の寝床のような敷地ですが、裏の通りから入っても気持ちいいし、中からも通りの様子が感じられる。そういう建物を、前川さんは一番初めに作っていた。  

■都市で育まれたもの
 これは、私の印象ですが、前川さんは、東京の本郷で育ち、銀座のレーモンド事務所に勤め、独立後もそのすぐ近くに事務所を構えていましたから、都市の楽しさを戦前の銀座でずいぶん享受していたのではないでしょうか。レーモンド事務所から一緒に独立し、前川邸を担当した崎谷小三郎さんのお話では、坂倉準三と仲が良くて、しょっちゅう銀座で飲み歩いていたそうです。前川さんの都市への眼差しを育んだのは、銀座のよき時代の街の風景だったのではないか。おそらく、前川さんの中には、そういう都市へのセンスがあったからこそ、一九六〇年代の丹下さんの東京計画や、メタポリズムの都市への提案とは違う、人々の心のよりどころとなる小さな空間を提案しようとしたのだと思います。

【野沢】日本で戦前の都市文化は、東京や大阪だけに特権的な形であったのでしょうね。近代都市の成熟があってこそ、大正デモクラシーや民主主義が芽生えたのだし、都市の品格みたいなもの、映画を見たり、音楽を聴いたり、食事を楽しんだり、という文化は、ある時期に東京でワッと花開いたのでしょう。その背景として建築が大切であることを、前川さんは、戦前のヨーロッパに行って、確認しているわけですからね。人一倍そういうことに関しては敏感だったはずです。ダンディでおしゃれで、車も好きだったし。
 日本の悲しさは、そうした都市文化が一旦壊れることですよ。その後に空白が来るわけですから、私たちには想像しにくいですが、そういう茫然自失の厳しい時代の中に、私たちの先輩たちはいた。さらに言えば、戦争が大きな負荷になって、戦後、長い時間をかけなければ何一つ片がつかない。「いっそのこと壊してしまおう」という発想も、それと関係があるのかもしれない。「もう少し知恵がないのか」とみんなで言いながらも、その知恵を社会的コンセンサスにできないことが、私たちの時代の大きな問題だと思います。

【松隈】前川さんは、関東大震災と第二次世界大戦による、二度の都市の壊滅的な被害を目撃した建築家です。そこから、建築には何ができて、建築家は何をしなければいけないのか、という問いを受け止めようとした。さらに、「プレモス」によって新しい共同体がどのようにしたらできるのかを一生懸命考えていた。大高さんも、そのバトンを受け継いで、「多摩ニュータウン」に取り組んだ。そう考えると、技術や制度が貧しくて整備できていない時代の方が、建築家は、遠いところに問いを投げてヴィジョンを描けていた。
 むしろ、技術が成熟してそういうことが可能になったときに、遠くへ球を投げる力や努力が失われてくる。林昌二さんが面白いことを言っていて、「一九七〇年代に入るまでは建築家は一生懸命建築を作っていたが、それ以降、建築家は歴史を持っていない」と。「これから本当の近代建築や街づくりができる時代になったはずなのに、なぜそれがうまくできないのか」と話されていたのが印象的でした。人間ってなかなか難しいものですね。

【野沢】前川さんには、「私がやらなくては」という覚悟があったのだと思う。今は、その覚悟を持つこと自体が難しい。つまり、たくさんの人が同じようなことをやっている中で、自分が担わなくてはいけない、と一人で聳え立っているのはヘンなやつになりますからね(笑)。だけど、現代においても、私たちの時代なりのクオリティをきちんと議論しながら作っていく方法があるはずだと思います。それは、前川さんのような、数少ない味方たちとの応答によって、選良としてものを作っていくのとは違う形です。前川さんの生きた戦後は、けっして恵まれた時代ではなかった。だからこそ、選ばれた人間が使命感をもって引き受けようとしたのだと思う。しかし、本来なら、たくさんの応答が可能な現代のような状況の中で、クオリティの高いものができていく方が良いのかもしれない。むずかしいことですが、それが求められていると思いますね。

■東京海上ビルの意味
【松隈】今日は、都市がテーマですが、会場には、奥平耕造さんが来ておられます。奥平さんは「東京海上火災本社ビル」の設計を担当されました。現在、東京駅周辺の再開発が進み、東京海上ビルが急速に小さく見えるようになりつつあります。そうした状況の変化もあって、たかだか数十年前のことなのに、この建物で問われたことの意味が伝わらなくなっている印象も強い。そこで、ぜひ、東京海上ビルについてお聞きしたいのです。

【奥平】じつは、「東京海上火災本社ビル」が、日本で最初の超高層ビルになるはずでした。ところが、結果としては、東京海上の次に始まった「霞ヶ関ビル」の方が、そのままの形で先にできるのです。霞ヶ関ビルの皇居側に行ってごらんなさい。皇居を見下ろすのがけしからん、ということで、窓は全部塞いでありますよ。東京海上ビルからの皇居に対する視線と霞ヶ関ビルからの視線とを比べると、霞ヶ関ビルの方が急なんです。しかし、確認申請を出したら、東京都が許可してくれない。なぜかというと、私に言わせれば、国家権力の理不尽な暴力です。当時、東京都首都圏整備局長に山田正夫さんという土木出身の官僚がいた。この人がいけない。美観論争なるものを仕掛けるわけです。正規の手続きを踏んで建築審査会で審査してもらい、東京海上の建設計画は良いとのお墨付きを得たにもかかわらず、当時の総理大臣の佐藤栄作が出てきて、皇居を見下ろすようなビルはけしからん、と言いはじめた。それで、東京海上は塩漬けになるわけです。都市整備局長と総理大臣が結託すると、何でもできてしまう、あれは完全な暴力だったと私は思います。
 それで、ようやく建物は二十階の高さで頭を切られて完成したのですが、そのことを、宮内嘉久さんは、「賊軍の将」と書いた。私に言わせると、野沢さんと同じ意見で、前川さんは近代建築のオーソドックスをやっている。賊軍なんかではない。前川さんが「賊軍の将」だとすると、私は「賊軍の兵」になる(笑)。私は「賊軍の兵」として生きてきたのではありません。近代建築の闘将の下で有能な兵でありたいと思い続けてきました。

■モダニズムの遺産
【野沢】建築というのはずっと残っていますので、音楽堂などを見に行きますと、その時代の持っていた力が、そのままそこに在る。もちろん修繕されていても、どういう継続的な応答をしながら直されているかを見れば、積み重なった時間が豊かさを教えてくれることがあると思うのです。
建築家は、建築の設計の努力をするのはもちろんですが、建築を見ること、建築を考えることで、大きく力をつけられるはずだと思います。過去の建築なり、新しいものも含めて、きちんと造られたものをきちんと見て、考えていくことが自分の仕事に役に立つ。一方で、慌ただしい時代の建築家は、自分の仕事以外にあまり見る時間や考える時間が無い。そうした状況が、過去の日本の戦後にはあった。そのことによって作られた不幸な建築はたくさんあるのだろうと思います。そういう建築が残らないことも、ある意味では仕方ないことかもしれません。その傾向が、残すべき建物さえも無造作に壊してしまうことにもつながっている。そこが、私たちの社会の抱えるややこしさです。
だからこそ、きちんと鑑賞して、きちんと味わって、面白いと思う、なるほどと思うことを続けていくことが大切ではないか。それは、今、私たちの考える「サスティナブルデザイン」=持続可能なデザインにもどこかでつながっていると思います。戦後すぐの近代建築は、資源使用量が極めて少ないですね。今の贅沢な建物に比べると、「神奈川県立図書館・音楽堂」などは非常に少ない資源によって、最大の効果をあげようとして設計をしている。モダニズムは、どこかでそのようなもの、合理主義をもっていると思います。今言われている、最小のエネルギー投入量で最大のクオリティを、というモダニズムの努力は、今の環境共生型の建築の一つのルーツと考えてよい、大切な遺産だと思います。
そういう意味で、前川さんの努力、テクニカル・アプローチの考え方も、今の建築の考えと太くつながるものを持っていると思います。戦前も含めて、日本の戦後の近代建築を、そういう風に説明してみたいし、みんなで面白いと思いたいですね。それが、建築が、もう一度、都市の中で日々使われ、人々によってもう一度愛着を獲得して、豊かな市民サービスの場になっていくことにもつながる。その可能性は、僕らの知恵によって、十分実現可能なのだと思います。

【松隈】タイルの一枚、サッシュのディテール一つが、都市の豊かさを作るためにある。だからこそ、そのことを追求して、最小限のものが最大限の空間を生む努力していた。そこに、前川さんが、都市を見ていた視線の原点があるのではないか。そして、そのことを、僕らがどう受け継いで、都市の現実に何を働きかけていくのか、という地点に、今、立っているのだと思いました。今日は、都市を通して広がりのあるお話をしていただきました。ありがとうございました。

TOPへ