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『住宅建築』の最近のブログ記事

かなり以前から清家さんの初期の住宅のいくつかを見ている。学生のころ、友人と坂道を登りながら清家さんの家を探し探し見つけだして覗き込んだことをそのはじめとして。「森博士の家」「斉藤助教授の家」「宮城音哉邸」「秋山さんの家」それからいうまでもない「私の家」「続私の家」などだ。そしてそれらのいくつかについては、数度にわたって訪れる機会を持っている。特に真鍋弘氏が「建築知識」編集長であったころ数度にわたり取材を兼ねて清家さんにお目にかかり話を聞きながら濃密に訪れた「私の家」を懐かしく思い出す。
何より清家さんの戦後すぐに始まるいくつもの小住宅のほとんどはこの国の住宅に珍しく今日まで現存し健在である。過去、何度か訪れることができ、うまく行けば今日でもまた赴くことが可能なのは何よりそれが今日そこにあることによっている。清家さんの住宅の多くはクライアントの意思で壊されることがない住宅であったのではないか。なぜそうだったのだろうか、一般に規模の小さな戦後すぐの住宅の多くは生活の姿が変わる中でその寿命を終えていった。そのなかで彼の住宅は偶然、まれに、運良く、愛され使い続けられている。もちろんこれに尽きるのだろう。抑えられたヒューマンなプロポーション、モダンなデザイン、これだけでは清家さんの意図を類推しながら手繰り寄せ納得できる説明にしたということにはなるまい。たしかに清家さんが今日生きていたとしても彼は笑いながら「運がいい」としか言わないだろうとも思うのだが。
若き清家さんはこれ等住宅の発表の折にもっと丁寧にそれらについての説明を試みている。以前取材の折、そうした記事を僕なりに読み直したことがある。「架構と舗設」それはその中で見つけた、なるほどと思わせるキーワードであった。清家さんの設計の家はこれらの分離が極めて顕著である。最近残念ながら解体されたと聞くがあの宮城音哉邸では家具、間仕切りなど「設え」のほぼすべてを渡辺力に委ねてさえいる。「架構」を「設え」と意識的に分離する、これにより自在な室内が家族の生活の経過する時間なか、当然起こりうるさまざまな模様替えの要求にこたえることを可能とし、それが住まいの陳腐化をもたらすことなく、長く使われ続ける。これが第一の理由なのではないかと思う。
「架構と舗設」は今の言葉で言えば正確に「サポートとインフィル」こうなるはずである。オープンビルディングシステム、架構と舗設を分離する。私がこれをオランダのハブラーケン等の構想であり、社会住宅設計建設の主要なツールであると知るのは確か学生の後期のころであり、大学同期の才媛、中澤富士子氏の詳細な紹介記事が特集された「都市住宅」00年00月号の中であった。仮にハブラーケン等のこうした思考が戦後すぐのヨーロッパに既にあったと考えても清家さんの思索はいかにも早いと言えるのではないか。

清家さんが海軍機関学校の教官であったころ、たくさんの格納庫を設計したと聞いたことがある。「架構と舗設」はそれをルーツにするのかもしれないと思うことも可能だ。格納庫はサポートだけがある建築だろう。どう考えても格納庫に作り付けの家具や間仕切り、つまり「設え」はありえない。
そして、もうひとつ50年代の清家さんの設計する住宅に設備されるパネルヒーティングについてである。自宅のそれは特によく知られている。彼はそのころから「温熱」のための装備を必須のことと考えているように見える。戦後の最貧の時代、小住宅の室内気候をサポートし快適な室内気候をもたらす床暖房を必須とする建築家はほかにそうは見当たらない。ぼくはそれを彼の住宅が長く使い続けられたもう一つの根拠ではないかと思う。建築が作り出す気候である。これも実は格納庫につながるのかもしれないのだ。格納庫には戦闘機がいつでも飛び立つことができるよう暖房があったとの話も清家さんから聞いたものように記憶する。ただ、清家さんの話はどこか幾分怪しいにおいとニヤッとしたくなるユーモアをはらむものであった。どこまで本当であるか、私に確たる証拠があるわけではないが。
奥村昭雄、この人も私のより近い先達である。奥村さんとは20年を超える昔「ソーラー研」と称しああだこうだと議論をしながらパッシブソーラーシステムを考えた。この人が戦時中、舞鶴の海軍機関学校で清家さんの教えを受けたと知ったときはそのめぐり合わせに驚いた。不思議なつながりである。しかも建築のフィジックス、特に温熱を興味の中心としているところが似てもいる。そう考えると僕はいつの間にかこの二人の思索に親近なものを僕自身がもっていたことに気づく。考え試みるフィールドが重なっている、と気づくことになる。「住宅は骨と皮とマシンからできている」という本はこの辺を頼りに書いたものだと思う。骨と皮とはスケルトンであり架構である。そしてマシンとは気候コントロールのための装置のことである。
時代が思索を開く。この二人は私の周辺にさまざまな形で存在する人々のひとりひとりであり、思索のひとつひとつであった。それは書籍でも映像でもないじかに応答することのできる、等身大の身体であったのだと思う。私はたまたまそれに遭遇した。そしてそれが私の主要な部分を作ったのだろうとおもう。

ここで私自身の自宅を見よう。まずは「架構」=サポートを。高さのない、がらんどうの架構である。鉄骨である。コンクリートブロックの壁がある。ハブマイヤートラスがある、床下に太陽熱を空気で送るシステムがある、既製品がまれにしか存在しない。さまざまな思索のモンタージュをここに見ることが可能だ。清家さんがいる。奥村もいる。吉村、イームズ、上遠野徹さんがいるのだ。「設え」=インフィルを見よう。それらは「架構」と明確に分離され手いる。設計に伴って計画された間仕切り家具などの多く、外部の庇などにいたるまでどれも取り外し可能である。ちなみに集められた椅子は奥村さんの手になるもののほか多くは清家さんの家にもあるモーエンセン、ウエグナーなどデンマークのものだ。

清家さんに教えられながら思う。「架構」を構想し「気候」をデザインする、この二つを解くこと、「使い続ける住宅」に求められる課題は突き詰めるとこういうことになるのではないか。住宅の中に改めて「架構」を構想することは「設え」をそれから意図的に分離することになる。それは「設え」の短期での変更、改変を可能とし「架構」の100年を超える存在を可能とするのではないか。そして「架構」の中に作り出すべき「室内気候」は人々の快適な生存のための環境として必須となるのではないか。
そしてそれは最小の資源使用量によって、住まいが慎重に作られ、飽きられることなく長く生活を快適に包み、結果として改修されながら長期維持されること、「サステイナブルデザイン」につながるのではないか、と考えるのである。
清家さんの家は見事にそれに対応するものと思う。この二つが明確に意図されることのない建築がその対極にある。
「気候」、過去、伝統建築はわれわれの住む日本が比較的温暖であると考えること、無意識の「我慢」によって「気候」に対峙することの無い建築であることを特徴とするものであったのかもしれない。「気候」は建築によって作られるのではなくコタツ、火鉢または衣服により局所的に作られるものであった。もちろんその時代、今日の「快適」はイメージとしても存しない。
「設え」、伝統木造住宅において軸組みが「設え」そのものとまったく重なっている事に気づく。伝統木造住宅は間仕切りつまり設えが直接大地に露出し、屋根がかけられたもの、と捉えることができるのではないか。横架材までの厳密さに比べ小屋組みが自在でどうにでもなるいいかげんなものであるのもそのせいかもしれない。住宅寿命が今日に至るまで「設え」の変更のスケジュールに似たものであることも必定であったと考えることもできるのではないか。我慢が普通であった長い間、人々はそうしたささやかな「すまい=設え」を維持し生活を営んできたのだろう。初期のコンクリート造公団住宅の中にはまさに木造住宅が正確に設えられていたことを思い出す。
家とは、人々にとり、それは生まれる以前からすでにあるものである。家を構想するときすでにあるそれが大きな起点となることはごく当たり前のことだ。我慢ができなくなる中、露出する「設え」を暖房するのである。このことがいかに無益で非効率でとんでもない非効率な営為であることかが気づきにくい。「サポート」「架構」とは熱的性能をも含むシェルターのことである。そしてそれなしに今日的意味での建築が存在しにくいことを意図的に理解し確認しないまま長きにわたり「設え」にさまざまに意匠が凝らし、それを建築的営為と考える、室内気候をまったく射程にしないものであったと考えることができるのではないか。

説得力ある過去の根拠、論理を鑑賞しその上に冷静な思考をめぐらせる、独創とは実はそうしたものなのではないか、と強引であることを多少覚悟で思うのだ。建築は技術であり、気候であり、科学である。そしてそれは最小の資源により快適を求めるさまざまな科学、工学と同衾するもののはずである。建築は構築(バウエン)であってほしい。グロピウスが清家さんに見たものはまさにそれであり、それによる共感であったと思う。またバウハウスの思索は吉村に清家にそして奥村に通底するものであったと考えて不思議は無い。あの時代の建築が比較的ささやかであること、そして大きい開口部と低い天井を持つことが、ヒーティングのため、ダイレクトゲインのためであったと考えることをたのしみとすべきであり、それが結果新しいプロポーション、新しい「美」を生んだのだと理解すべきなのであろう。そこからは新しくそれから連続し成果を挙げる思索が生まれることになったはずである。彼等を師と仰ぎ結果としての造形に無思考に憧れ、絶対の「美」にそれを押し上げる、いわば伝統の芸の宗家と弟子のような固定からは新しい思索は生まれるべくも無い。清家さんに学ぶ楽しさを思いながら、考えることの充実を思う。

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自宅ができ15年ほど経つ。ここで娘が育ち猫が高齢になった。庭のせんだんが巨木になり竣工の後に植えた夏みかん、こぶし、果林などの樹木―果林だけはどうしてか枯れてしまったが−は元気に繁茂している。夏みかんは毎年実を付け昨年は大量のマーマレードを作った。当時まだ少しだがあった周辺の雑木林が姿を消し、味気が無くなって、我が家のみどりはますます特別なものになりつつある。
意識していたわけではないが,阿品土谷病院を奥村昭雄と考える中で、設計という作業の中の戦略とでも言うべきものは今予測できる最善の根拠の集合によらなくてはならないとの考えが実感となったのかもしれない。いつの間にか鉄骨造としていたし、地下室を考えていた。少ない資源による架構、自然エネルギーによる環境制御、特に後者は奥村と数年にわたり取り組んでいたものそのものでもあった。
架構は小島孝さんにお願いした。中量鉄骨での設計を提案してくれたのは彼である。これによって重過ぎない、軽すぎないとてもいい架構が実現した。サブビームにハブマイヤートラスが現れたのははたぶん私の頭のどこからかであろう。後は皮(スキン)である。開口部は自由に決めることができる。ここはアメリカのアルミを表面にクラッドした木製建具である。それから断熱材の充填された壁、コンクリートブロック積みの壁によった。当時ペアガラスは高価でありアメリカ製木製サッシの選択は最適なものと考えた。確かガラスの値段でサッシが付いてきた。ただサイズは既成が条件であった。実は逆転しているのだが既成サッシの寸法が梁下の高さを規定している。ハブマイヤートラスは結果としてきわめて低い梁下寸法を片付ける策として思いついたものであり、はじめから考えていたものではない。ブロックは主に妻壁の室内側に積んだ.蓄熱部位を増やしたいと考えてのことだ。外部は断熱しコルゲート鉄板で覆ってある。
庇などのグレーチングの多用も何とか理屈で作ろう、との結果であろう。シェルター、エンベロップがありそれの付属物という序列。部材のデザインは面白かった。オープンな部材で作るその面白さと既製品、出来合いの不自由。ただ結果、庇なしの建物の難しさも学んだ。この春の改修は主にそれのよっている。いわむらかずお絵本の丘美術館以降の2,7mを越える庇はこの結果によっているのかもしれない。今年竣工した別荘では南面を1,8mの庇とし北面を壁まで金属板で包み庇なしとすることを試みた。中途半端が面白くない。清家さんに学ぶのはこのことである。スケルトンインフィルの徹底の面白さ、どんな「設え」であれ豊かに受け入れる懐の深いサステイナブルな「架構」=スケルトンを考える面白さ。細やかな技や芸による住宅設計を超える面白さがそこにあることではないかと思う。

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浦邸に行く         
浦邸の訪問が叶った。住宅を見せていただくことの難しさはよく知っている。ただ浦さんの家は見せていただける可能性があった。不思議な因縁だが私のカミサンと浦さんの娘さんが学生時代からの知己であったのである。しかもできたら訪ねたい住宅である。そんなわけで浦さん宅への訪問は30年近く以前からの我が家の話題、懸案であった。ただそうは言っても娘さんの不在のご実家にのこのこ押しかける次第も付けにくい。今回のお誘いはありがたかった。案の定カミさんも「行く」という。夫婦そろっての不思議な建築見学となった。
思い出せば震災の折にも当然「あまねの実家は大丈夫かしら」と話題にした。その結果が倒れ掛かった調度の被害はあったものの建物は全く無事であったことにもわがことのように驚き喜んだ。そして今回の訪問であった。駅からの道すがらの風景が新しく道幅も広い。これが震災のもうひとつの結果であった。震災の結果沙汰闇になっていた計画道路が施工されたのだ。その結果半世紀の時間の中で浦邸の姿を隠していた樹林が切り払われ浦邸は道に面して建つ事となった。11メートルの幅の森が道路として消滅したと言う。「森の奥に家があったのですか」と驚く近隣の人がいたと聞く。願いが叶って浦邸の前にいるのに贅沢にも以前の鬱蒼とした木立の中にあった浦邸の姿が見たかったと思う。歩道の脇に「くの字」の形をした例の柱が建っている。見上げると凹凸のあるレンガ壁、少し上るコンクリート土間はピロティの下である。写真で知っている例の様々な文字、パターン、化学記号、それから地震により、また道路拡幅によって土間が改修された日時の記載がある。よく見ると様々な文様もそれらをつなぎ描き継がれている。見上げる梁は「くの字」の柱から延び幾分中央で高さを減じ合理的構造設計を主張している。二つのピロティが連続する真ん中に池、ここに雨水が落ちる。しばらく地表をうろつく。建物の奥と前面には時間の経った樹木が茂る。道路開通以前の景観を偲ぶ。
一つ目のピロティをくぐる先に階段がある。玄関は半階ほどそれを上ったところにある。ドアを開ける。広い幅の階段、二階のフロアが目の高さに近く広がる。二つの棟をつなぐここは屋根のスラブが低い。結果として天井も抑えられそのせいか思いのほか広く感じる。その中に「くの字」の柱が鮮やかな色ガラスの逆光に影となってある。八本のうち唯一室内に取り込まれた特別の「くの字」柱だ。この柱の右手が寝室、子供部屋など私室の領域であり左手が公室、つまりダイニングとリビングである。公私が画然と分けられたプラン。振り向くとエントランスのドアのある背後の開口部も色ガラスによっている。モジュロールに拠る分割、この家の特によく知られているところだ。その横下階からの階段沿いの壁に建築家吉阪の手形、そして浦さん家族の手形が押された二枚のプレートがはめ込まれている。あまねの手がとても小さい。当時5歳という。ペイントの塗り替えなど各所に手入れの行き届いていることに驚く。浦さんご自身の手によっているところも多くあると聞く。建築の姿ばかりかそのメンテナンスを自身でなされる、まるでヨーロッパの住宅のようだ。
居間に招じ入れられる。室内を見せていただく。比較的高い天井そして開口部が少ないかと思わせる印象である。ただし開口部の一部に木製のブラインド雨戸が降りていることと、カーテンが下げられていることに拠るのだろう。それらが開け放たれたときに受ける印象とは大分異なるのではないか。しかしこれはこれでとても好もしい。震災により多くの什器調度を失ったとはいえ半世紀を経た室内は浦さんの過去と今が充実して存する。家具のほかに写真、絵画、書、書籍やレコードが主人の人格を投影する濃密な室内。そしてその中に原色に塗られたスイッチパネル、ドアの黄色い木製のラッチ、作り付けの家具など50年前の吉阪さんと浦さんの応答の結果があちこちに存在している。ピロティの上の空間はこの家の生活を確実に包み護ってきたのであろう。
1956年に竣工のこの家はもちろん吉阪隆正の処女作といっていい住宅である。計画は自邸の計画とほぼ同時に進行している。浦さんと吉阪さんは戦後のフランス給費留学生としてパリで同じ時間を過ごす。薩摩会館と呼ばれる日本建築が日本人留学生の宿舎であったという。その眼前にコルビュジエのスイス学生館があった。古風な寮から見えるモダンな建築。日本橋生まれのちゃきちゃきのあたらし物好きの数学者とコルビュジエに憧れパリ行き、そのコルのアトリエに通い、ユニテダビダシオンの監理に明け暮れ時折パリに戻る吉阪、二人は親密な付き合いをし、刺激的なコルビュジエの建築について話をする。浦邸はまさにこの邂逅が作り出した建築である。設計時の様々なやり取りは今も残される資料により検証可能であり、それは既に斉藤祐子によりきわめて詳細に検討され著されているからそれに譲るが、クライアントの要求は三項目、1、ピロティを設けること2、室内は土足であること。3、公私を分離すること、というものであったという。時代を思うとこれは恐るべきというべきものであろう。そして吉阪は細部にいたるまで丁寧に浦の希望に対応している。よきクライアントとの応答は共同の作業としてこの家に結実する。

そして1956年浦邸は竣工する。現われた建築はきわめて合理的なものであってわれわれがその後の吉阪の印象とし持つ彫塑的なものはレリーフなどを除きここにはほぼ存在しないといっていいだろう。架構はよく検討された「くの字」の柱と梁によっている。特徴的な柱は壁柱としての機能を持ち正確に四角形を形成するよう配されている。スラブはそこにダイアゴナルにかけられる。ピロティ下を見上げると梁は「くの字」柱を四角く繋ぎさらにそれと平行に井桁の梁が組まれている。その井桁の梁はその先に三角のスラブを載せていることになる。特徴的なファサード、「くの字」柱がスラブを中央でバランスして支えているように見える姿は平面図を45度傾けて見れば四隅に「L字」柱を持つ極めて強固な架構にも見えるのである。二つの棟は間隔を置き中央の一本の梁の上と下に反転して置かれている。この架構が未曾有の震災の強烈な加速度に対してもびくともせず奇跡のように耐えたのであろう。
そして貫かれた思想は真っ正直にドミノシステムである。コンクリートの二枚のスラブは自由な平面を作ることに貢献している。大地は開放される。自由なファサードは二重積みの特徴的なレンガ壁と木製のこれも特徴的な開口部枠によっている。この開口部は特に面白いし興味深い。大きめの断面のフレームの中に可動のガラス障子小さなガイドレールそれを走るブラインドのための板戸、通風のための細長い開口などが様々にセットされている。すべて木製である。特に居間の大きな開口に設けられた雨戸のための張り出したフレームには微笑む。遠くに行ってしまった雨戸には引き寄せるための長いハンドルがついている。フレームをモジュロールにより分割し開口部の様々な機能をそこに付与する、コルビジュェ直伝、ユニテダビダシオンの開口部に極めて近い。大き目の庇の役目を果たす屋根スラブのおかげときめ細かに行われているメンテナンスによってこの開口部は今日も健全に保たれている。架構を要素ごとに分節し目的にあわせモジュロールを手がかりに適宜配する。それが建築の姿となる。この開口部には吉阪の二年間のコルビジュジエ体験が素のままに若々しく現われているともいえるのだろう。

大分以前20年ほども前のことだが50年代の住宅について考えいくつかの住宅を見て回ったことがある。「建築知識」誌が50年代建築の特集を先駆けて企画していたころだ。いつの間にかそのときの経験が私の血肉となっているとも思う。自邸で清家さんご自身から話を聞いたのはそうした折であった。清家自邸が竣工したのは1954年、浦邸竣工の二年前である。ちなみに清家さんは1918年生まれ、吉阪さんはそれより一年早い1917年に生を受けている。二人はまさに同世代の建築家である。かたや地にぴったりとつき床暖房を敷設し地下室を持つ広大な庭に連続する小さな一室空間としての清家邸、そして一方地表から離れ家族一人一人を個人として扱い公私を峻別する浦邸。清家邸の規模はたかだか50平米これに地下部分を加えても70平米に過ぎず、浦邸は130平米、清家邸の2、5倍ほどもありしかもほぼそれと同面積のピロティを持つ。この二つの住まいは対比的ではあるが共通して時代と場所をはるかに飛びこえているように思う。習慣を超えた最新の生活が突然そこに現われたごとくである。二つの住宅はいかにも新しい時代のまだここに無い生活を目指すものであったのであろう。そして二つの住宅がともにコンクリートによる堅固な躯体を持つこと、レンガによる二重壁を作ることを試みていること、開口部をユニットとして解いていることなどに時代のなかで共通する宿題を共通する思考で解くことをともに試みていることも興味深いことと思う。

あたかも出来上がったものとして、様々な複合され機能化された「建材」がカタログにあり、設計することをそれらのアセンブルとしてしか意図することができない、それが今日であるとすれば50年代はすべてのものをデザインする、意図する、自らの手で考え描き創る時代であった。浦邸はクライアントと建築家がその作業を担いともに行うことによって現われた奇跡であろう。その「意図」のひとつがプライバシーの尊重と個の責任を家族ひとりひとりのなかにも求めたことにある。それがここにしかない室内から施錠できるドアの木製のラッチの「開発」に至る。ヒントは日本家屋の雨戸の錠であろう。黄色くまたは黒く塗られた錠は50年を経て今も機能を果たす。家は生活の器である。ここには50年前、吉阪と浦が共通して抱いた新しい生活に対する真摯なイマージュがある。だから生活をサポートする一つ一つのものはここにしかないものとしてここにあるのだろう。そしてここにはそれが今も存している。
私たちはそれに不自由の時代の自由な豊かさを見ながら今日に豊かなの時代の不自由と貧しさを思う。そして「モダニズムとは用が終了するとともに消滅を覚悟している建築である」と唐突に言った評論家を思い出す。妄言である。建築は決してそのようなものであることは決して無い。維持しながら使い続けることの豊かさと充実、そして記憶、このことをこの住宅ほど雄弁に物語るものは無い。

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