第1部:基調講演
「ロンドンの公共建築から見るまちづくりの方法、そして、東京都立川市の市庁舎計画の提案をめぐって」
野沢正光(建築家・野沢正光建築工房主宰)
(司 会)
それでは、第1部に入りたいと思います。基調講演ということで、野沢さまをお願いいたしております。まず野沢さまのご紹介を申し上げたいと思います。
野沢さまは、1969年、東京芸術大学美術学部建築学科をご卒業され前川國男氏の下で建築を学ばれた大高正人氏の建築設計事務所を経て、1974年に野沢正光建築工房を設立されております。現在、日本建築家協会環境部会部会長をはじめ、各種委員や母校の東京芸術大学建築学科などの講師をなされており、主な作品としては、阿品土谷病院、いわむらかずお絵本の丘美術館などがあります。これらは建築の各賞を受賞されておりまして、自然エネルギーを利用した様々な環境デザイン手法を取り入れて、環境に配慮した建築物を数多く設計されておられます.
今日の第1部の基調講演でございますが、「ロンドンの公共建築からみるまちづくりの方法」と題しまして、ご講演をいただきます。ロンドンの公共建築と、それに関わるまちづくりの事例をご紹介いただくとともに、現在、野沢さまが関わっておられる東京都立川市の市民参画型による市庁舎建設計画についてお話しいただくことにしております。
それでは野沢さま、よろしくお願い申し上げます。
(野 沢)
ただいま、ご紹介いただきました野沢でございます。どうぞよろしくお願いします。
昨日ですね、弘前に初めてお邪魔させていただいて、弘前のたくさんの前川先生の設計された建物を見せていただきました。それで昨日は、主に前川先生の設計された建物を、スタッフであった松隈先生と一緒に見せていただき、今日は、それ以前の疑洋風と我々言いますけれども、大工さんが外国人の宣教師やら建築家に従って建てた教会。あるいはフランク・ロイド・ライトによく似た建物やら、それ以前に建てられたいくつもの新進の、稀少に満ちた建築物も見せていただきました。もちろんその中で、それ以前の長い弘前の歴史が造り出した景観やら建築物も結果としてたくさん見ているということになると思います。前川國男さんの建物が、こんなに一箇所にたくさんあって、そのどれもが非常に高い水準の建築作品であって、使いやすくて、よく考えられた建築物であって、今も元気に皆さんに使われていて、しかも非常に品質良く維持管理されているというのを見ながら、たいへん心持ちのよい時間を過ごしたと思っています。その建物の主人公である、所有者である皆さんの建物に対する自然な愛着、いちいち大したものだと思っていらっしゃらないかと思いますけれども、一つひとつの建物をささやかに大事に使ってらっしゃるという感じがとても印象的でした。
建築家といいますか、設計を仕事にしていますと、やはり最大の楽しみは、人の造った建築を見ることなんですね。音楽家と建築家は、大分、仕事が違いますけれど、多分、音楽家もいい音楽家は、たくさんの曲を聴いていると思います。それから、聴くことが楽しみな作曲家なり音楽家は、いい演奏家だったり、全員がそうかどうかはわかりませんが、いい作曲家だったりする一つの条件かもしれないと思います。つまり、もっと砕けて言えばおいしい料理を作れる料理人は、おいしい料理をたくさん食べている人なんじゃないかなという風にも思います。今回は、前川囲男という料理人が、どのくらいでしょうか、20年間か、30年間、もっと長いでしょうか?初期の「木村産業研究所」からずっと弘前を舞台に造り続けたお料理を、それがどんな味にどんな風に変化してきたのかということを見せて頂いたような気がして、前川建築博物館みたいな、専門家としてはですけれども、そういう楽しみを味わせて頂きました。さっき申し上げましたように、これができたのは、そういう弘前でこういうことが、起きたということはとても稀なことですし、その稀なことには、たぶんその前にチラっと教えて頂いたのですが、外国人の宣教師の方々が、いっぱいこの街にいらしたこと、その方々が、学校の先生をされたりしながら、その外国からの新種の、何て言いますか、いろいろなものをいろいろに取り込む、ここの街の持っていた一種のポテンシャルと言いますか、底力みたいなものが、前川建築博物館のような街に繋がっているんだろうなというところまで教えて頂きました。先程、僕のことを紹介してくださった中に、大高正人さんという名前が出てきました。大高正人さんというのは前川先生の事務所に勤め、「神奈川県立音楽堂」、「岡山県庁舎」や「東京文化会館」などという建築物を主に担当した大変上手な、自分のボスでした人ですから‥・。何て言っていいのかわかりませんが、大変、有能な建築家だった。だった、と言えば怒られますが、まだ元気です。大高さんからいろんなことを教わりましたし、大高さんは、前川さんからいろんなことを教わったんでしょうし、前川さんは、コルピュジエや、レーモンドさんという建築家からいろんなことを教わったんだと思います。そういう「教わる」ということは、一つは手を取って教えてもらうということがありますけれど、もう一つは見て覚える、あるいは真似をして覚えるということもあると思います。特に前川さんの建物というのは、僕らが学生で、上野の芸大だったものですから、上野の文化会館の横を通って、西洋美術館との間を抜けて学校まで通っていました。18歳、19歳の時には、もうすでにそこに、あの大きな文化会館がありました。それを横目に見ながら、ずっと建築の勉強をしてきたという経緯もありますので、前川さんのことというのはとても僕にとっても懐かしいです。大高さんの事務所にいったというのも、一つは前川さんのところは入社試験が難しそうで
したから、弟子のところにしてみようとかと思ったような気もしないでもありません。そのぐらい時代に前川國男さんの仕事というのは大きな影響を与えたんだと思います。僕の芸大の時の先生も、大学卒業の時に、前川事務所に行こうと思っていたと言っていた方が、いらっしゃいました。そういう意味で日本の建築に、戦前から戦後にかけて、特に戦後の建築にものすごく大きな足跡を残された前川さん。その前川さんの建築について、建築家、あるいは建築に関わっていらっしゃる方には、もう重々その辺は釈迦に説法ですけれども、市民の皆さんにも少しでも、どこがおもしろいのか、どこが素敵なのか、あるいは今の建築というのはどんな風に考えたら、あるいはどこが考えられている、というところを探しておもしろいと思うことが、前川國男さんの建築なり、我々が造っている建築なりをおもしろいと思って頂くことに繋がるのかという辺りですね、できるだけ機会をつくりながら、つまりどこのどういう食べ方をしたら、この料理はおいしいのかということになるかと思うんですけれども、なるべくわかって頂くような努力を今後も続けていきたいという風に思っているのです。
先程、立川のことがちょっと、このタイトルにも書いてありますが、私は東京都立川市の市庁舎のコンペというのに、ついこの間コンペの最終審査に選ばれました。その資料が『新建築』の1月号に書いた記事が、このコピーの中にありますので、今じゃなくていいのですが、見て頂ければと思います。立川のコンペというのは、立川市が、新しい市庁舎を造らなければならなくなったところで公開の設計競技を行いまして、その設計競技の中
で、建築家を一人選んだということなんですけれども、このプロセスが、今までのプロセスとは違っていたんですね。市民の方が、100人委員会という委員会を2、3年前に作りまして、どういう形の市庁舎を造ったらいいかという設計条件みたいなものを、行政の方が作るのではなくて、市民の方が作ったんですね。その設計条件を前提にコンペが行われ、コンペの第一次審査というので、3人が選ばれた後に、市民の方々のグループが対象になるワークショップを、3人の建築家が、各々に開いて、ワークショップによって出た市民の方の意向を反映するかたちで、第二次案を作るみたいな、非常に手間の掛かったコンペだったわけです。そのコンペを経験しながら、先程の話に繋げますと、今まで前川先生の時代の公共建築なり、建築の造り方というのはどちらかというと、当然ながら、市民である我々の問題でもあったと思うんです。それ程市民が、立川のようには参加するという状況ではなかったと思うんですね。今になってくると市民の方々がいろんな形で一つひとつの公共建築を造るところ、場合によっては維持していくところ、そういうところに登場してきて、積極的に自分が当事者として、自分が主役として責任を持って話をしていく、あるいは関わっていくみたいなことが、始まっているんだなという感じが、立川のコンペの中でしていました。
コンペそのものは、これから実際の計画の段階に入りますものですから、今後どうなるか、いろいろな難しい問題やら、ややこしい問題やら、あるいは楽しい問題やらをはらんでいるままで、まだ入り口に辿り着いたばかりですから、何とも言えないんですけれども…。立川はそんな具合に動いています。ということを一つの事例にしながら、建築なり、今回のこのフォーラムのテーマである環境、あるいは景観なりは、誰によってどうやって維持されているのかということが、とても大事になってくる。これからはますますそれが、当事者である市なり、自治体の一番の当事者である、市民の皆さんの双肩にかかっていると言いますか、皆さんの参加と言いますか、皆さんの当事者としての力量に、かかってくるんではないかな、という気がとてもします。そこはとても実はおもしろいところなんじゃないかなという気が僕はしています。
立川は、僕の半分、地元みたいな高校時代を過ごしたところですので、僕にとっての地域社会みたいなところでもあるんです。地域社会で、その地域社会のことを一番良く知っていらっしゃる方々が、例えば、外からの地域社会の見方などを鏡のように使いながら、そこの地域が持っている底力なり、宝なりを再発見する。あるいは、それがあることをおもしろいと非常に客観的にもう一度思う。みたいなところから景観なり、環境なり、あるいは、それの一つの要素である建築なりは、少しずつ良くなっていくんじゃないかと。人がどう見るか、ということを怯えながらではなくて、人にどう見えているか、ということをちょっと自分の髪の毛を直すように考えてみること。それが少しずつ街なり、建築なり、そこに建っている他人の建築に対して興味を持つこと、そういうことが、とても大事になってくるのではないかということを、立川の流れの中でも思っています。僕自身は、建築の設計を始めて、数十年経つわけですが、数十年経ちながら、やっぱり、ある時期の自分で設計した建築に、いくつもの出来の悪いところ、先程の料理で言えば、味の悪いところを後で発見したりします。それはいつでも誰でも、だいたいそうなんじゃないかと半分居直り気分で思うんですけれども、30年前に常識だったことが、30年後には、とてもそれは問題の多いことだよという風に思ってしまう。あるいは、そういうことになってしまうというのは、たくさんあるかと思います。建築も今、供給されている建築というのと、30年前に建築に課せられた要求というのは、違いがたくさんあったと思うんですね。その中で、市民の皆さんが、それは建築家を含めてですけれども、自分のこととして、あるいは自分の興味のあるおもしろい対象として街のこと、景観のこと、それから建築のことに関わって頂くこと、造ることばかりではなくて、〈立川の場合、今造る段階ですけれど)、造る段階から、運営する段階にも踏み込んで頂くことというのが、実際にとても大事になっているんだろうなと思いますし、このことはとてもおもしろいことなのかもしれないという風に思っているんです。先程申し上げましたように、話が散漫ですが、僕は建築を見ることが、下手すると造ることよりも好きという感じがしないでもありません。これは、人の造った建築物が、先程申し上げたように、どんな風なつもりでどんな風に、その時代、何を考えたのか、誰がどんな風に関わったのか、いろんなことが、そこからわかると言いますか、想像されるということがあるからです。先程、お話にあった、タイトルにあります「ロンドン」というのは、たった一つの建築についての話なんですけれども、つくづく感心しながら、僕たちもきっと近々こうなるだろう、こういう社会、ロンドンの全部が良いわけじゃないので、良いところを見ている、隣の花は美しいみたいな話ですから、それだけのことではあるんですけれども、ちょっと絵を見ながら、お話をこの後は続けたいと思います。ちょっとお願いします。
これは、前川國男さんの「神奈川県立音楽堂(写真1)」という建築物です。1954年だったと思うんですけれども、戦後すぐ、東京、横浜という一番ひどい戦災を受けたエリアの話ですから、焼け野原の戦後、まだ5、6年というところで、内山さんという神奈川県の知事が、疲弊した状況の中で、文化的な施設こそ大事だという風に考えられて、鎌倉の「近代美術館」これは坂倉準三さんという建築家ですけれども、それと「神奈川県立図書館と音楽堂」という建物を建てることを決意されます。周りは想像すると、たぶんバラックが建っているだけという非常になんと言いますか、それこそ文化も何も、おいしいカレーの話も何もない時だと思います。その時に、この建物が建てられるわけです。この建物は、そういう意味では、前川さんのごく初期の代表的な音楽堂であって、その建物が、弘前の「市民会館」にも繋がって、ここでのたくさんの勉強と言いますか経験が、あの素敵な弘前の本当に良い建物、弘前の「市民会館」に繋がっていると思います。上野の文化会館にも当然、繋がっている建物です。
十数年前、十年ちょっと前ですかね、バブルの後半に、この建物はあまりにもみすぼらしいから壊そうという話が出まして、少しこの建物に愛着のある方々の運動やら、あるいは経済的にバブルが弾けて、新しい大きな投資が難しいということもあって、現在も健全に使われていますけれど、そういう意味では50年以上経って、しっかりと今も使われている建物です。前川さんの傑作の一つだという風に僕は思っています.
これがどこかの建物と似ているという気がしますが、入り口の下のモダンな建物、我々の現代の建物の典型ですけれども、余計なものがなく、ホールの下のスペースが、そのままの形でロビーになっているという空間を見せているところの写真(写真2)です。こういう形で最小限の材料で最大限の品質と言いますか、クオリティを造っていこうというのがモダニズムの考え方、近代建築の考え方なんです。よく考えると、今の少ない資源で最大の品質を得ようとする持続可能な社会みたいな言い方がございますけれども、それもここら辺のところに、一つの考え方の根拠みたいなものが、あるんじゃないかなと僕は思っているんです。たくさんの余計なものをくっつけていくということは、やっぱり資源の無駄遣いだったり、あるいは環境への悪い働きかけだったりするかもしれないわけです。モダニズムは、だからそういう意味では、非常に清貧と言いますか、潔い建築であったのかもしれません.それが、ある問題をこの当時は、まだはらんでいるというのは、なくはないわけです。
ここからロンドンなんですが、大高正人さん、さっき名前が出た僕の師匠にあたる人ですが、大高正人さんが、神奈川の音楽堂の仕事に関わってらっしゃいます。大高正人さんは、初めてやる音楽堂をどうやってやろうかという風に悩んだ時に、実は印刷物として公開されていた、ロンドンの「ロイヤルフェスティバルホール」の音響の計算の方法とか、「ロイヤルフェスティバルホール」について報告された、たくさんの公開された情報、資料ですね。それを製図板の横に置きながら、それを一生懸命読みながら造ったんだよ、と言っていました.その「ロイヤルフェスティバルホール」という建物がこれ(写真3)です。ロンドンの川の横にこうやって建っています。これは、僕自身が撮ったスライドです。「ロイヤルフェスティバルホール」というのは、実は個人の建築家が設計した、建築家の名前はわかっているんですが、僕自身が忘れているんです。実はロンドンの、いわゆる市の営繕が設計した建物と考えていいと思います。たくさんの建築家なり、技術者、エンジニアがそのチームに参加しています。たぶん臨時に、そのチームのために人を集めて、建築家を集めて、エンジニアを集めて、チームを作って、造ったんだと思います。この建物は、そういう経緯を含めて、構造のこととか、音響のこととか、計画のこととか、当時、建物の進行と同時に情報になって出ていきました。つまり、公開的に造られ公開的に情報が提供されたわけです。出来た建物がこれです。この建物が、今行って見ますと次のような状況になっています。
これ(写真4)は、先程の「神奈川県立音楽堂」の縁の下にあたるところと同じようなところです。つまり、これは「ホワイエ」って言ったりしているんだと思うんですが、入場券を買って入る場所ではありません。無料の場所です。無料の場所と言いますか、縁の下ですから、通常でいったら、誰も居ないガランとしたところです。しかし、ここではこんな具合に毎晩なっています。上で音楽会をやっている時は、たぶんやっていないと思うんですが、ちゃんと何回も通ったわけではないので、半分くらいはあてにならない情報ですけれども、週末とか、夕方に行くと人がいっぱい集まって、暖かいです。バーがあり、バーと言っても、売店があります。売店でビールや、何やら売っています。横にはCDショップがあったり、本屋があったりします。そこに何時間居ても、無料なんですね。要は音楽堂が、ファンがこの建物についてもらうために、無料のコンサートを、ずっとやり続けているんです。ジャズコンサートが、主だと思うんですけれど、要は私が、ここでやってみたいという人に、オーディションのようなことをやりながら、左の端にチラっと見えていますけれども、ずっと長時間にわたって、音楽をやり続けてくれています。電気が点いて暖かいです。別にバーのビールを買って飲まなくても、暇であればここに座ったまま、ずっと半日でも、半日かどうかわかりませんが、長時間居ても全く自由だと。そういう運営をしています。そういう場所っていうのは考えてみると、人が寄り集まって快適に自分の都合で、つまり喫茶店なら、必ずお茶を買わなくてはいけないわけですが、そうではなくて、何時まで居たって構いませんという場所を公共空間の中に持っているわけです。これはたぶん、これから僕たちが、欲しい場所だと僕は思うんですね。無料の場所。無料でずっと居られる場所。これが本当は公共空間なんじゃないかなという風に思いました。こうやってここに座っている人を見ますと、ちょっと高齢の夫婦が、ただずっと1杯のビールを飲みながら、世間話をゆっくりするともなく、しながら二人で座っているとか、もうそろそろ、こんなことを言うと怒られますけれど、結婚したらいいのにと思うような女の方が、ずっと側のサンドウィッチのようなものを買って食べながら、快適にビールを飲みながら読書していたり、そういう人たちを見た記憶があります。こういう場所を、実は運営しているのは、この「ロイヤルフェスティバルホール」を運営しているアソシエーションなんです。要は直接の行政ではないんですね。市民が作った、ここを運営する一種の、もちろん儲けているわけですが、つまり給料もとっているわけですし、スタッフでもいるわけですけれども、みんなで作った一種の「ロイヤルフエスティバルホール」を運営するアソシエーション。協会、組織みたいなものが、これも公開的に、たぶん経理等を、情報を公開しながら運営されているんだと思うんです。つまり、株主に配当しているわけでもないし、全く税金を投入してやっているわけでもない.もう一つの公共の在り方みたいな、公開された公共の在り方みたいなものが、ここにはあるんじゃないかなと思います。つまり、一生懸命市民にサービスすることによって、その組織が、経済的にもある程度儲かる、というような仕組みができているのかなという風に思います。
これは、奥でジャズを吹いているのがわかります。先程の「神奈川県立音楽堂」と同じように、天井の上が段になっているのは、上がホールだからですね。ここにいる、こんなに大勢いますけれど、これはレストランでも何でもなくて、要はみんな無料でいるという、そういう場所だということ。こういう場所がいくつかあるんだということを、いいなと思ったわけです。
今の「ロイヤルフェスティバルホール」というのは、先程、申し上げましたように「神奈川県立音楽堂」が出来る、1952年の2年くらい前に竣工したんだと思います。つまり、情報が出て、すぐにその情報を大高さんやら、前川さんは必死で読み解きながら音楽堂を造ったということになるわけです。これは、とある本からとったコピーですけれども、「ロイヤルフェスティバルホール」も戦後5年ぐらいに竣工していますから、出来た途端の写真は、今と違うんですね。これはどうも、ちゃんと読んでいないんですけれど、お金がないので、このファサードは一種のプレートのようなもので、とりあえず第一次、1950年の姿はこんな格好だったようです。つまり、建てた時から、出来上がった建物として造ってないんじゃないかという気がします。つまり、造らなきゃならないところは造るけど、お金のないところは、一応仮に造っておこうね、みたいな建物っていうのは、いつ完成するのかな、いつ竣工するのかな、という話にもっていきたい話として、コピーをとったんです。出来た時は、こんな顔でした。これは、裏側なんですけれど、川の側じゃない反対側なんです。
これが川の側です。竣工した時の、西側の川に面したフアサード。こちらも、こんな格好で出来上がっています。
これは同じ本からとった最近の写真です。前にデッキがついたり、いろいろな格好で、この建物を巡る、周りの環境も変わっています。それにあわせて建物は大きく、1960年ぐらいに20年経たずに、大改修がされています。つまり、50年代に竣工した建物を、そのまま使っているとも言えるんですけれども、大事なところはそのまま使いながらお金がなくて出来なかったところを直し、それから、その後で気がついたことを大きく変更しています。
これはその本に載っていた、ちょっと素敵な女の人がお茶を飲んでいる写真で、本当はもっといい写真なんです。要は当時から、この建物はたぶんクライアント、クライアントと言いますか、ここで楽しむ人たちに対して、非常に丁寧な設計をしているんだろうなという風に思いました。十分な要求される楽しみをここで十分、ここを使う方々に味わってもらおうというその雰囲気は、この照明器具(写真)一つからいろいろ出ている。お洒落をしてきている女の人にも出ている、と思ったものですから入れたんです。ちょっとはっきり写っていないので、本当はやめておいたほうが良かったかもしれません。
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