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思い出す人たち



当時(一九六〇年頃)、大高建築設計事務所は代々木の山手通りに面するガード沿いにあり、毎週末に大澤三郎さん(昭和十一年卒)が来てわれわれの図面を見てくれる、ということがあった。大高正人が前川囲男事務所の時代の大番頭である先輩を、われわれ稚拙で見ていられないスタッフの後見役として依頼した結果であったのだろう。そのわれわれがこの好機を上手に利用したかはとてもおぼつかないのだが…。ただ私は得をした。土曜は大澤さんが来てくれる日であり、そして時折掃除の人の来る日でもあった。それが重なると仕事場を追い出される、そんな折、私は芸大先輩のお守りをする役目をおおせつかることになる。芸大出はたしか私一人であった。喫茶店でいろいろな話を開いた。薀蓄話がなにより面白かった。むかしコーキングは鉛であったこと、映画『ノートルダムのせむし男』で教会の守りをするせむし男が溶けた鉛を追手に浴びせるシーンの信憑性の話など、ナルホドと思いながら聞いた。埼玉県立博物館の打ち込みタイルがきれいにでき、富士窯業の松嶋さん(この人も伝説の人だが)と大沢さんが喜んだのだが、前川御大が「綺麗過ぎる」と不満であったことなど。大澤さんは幾つかしか年の違わないボスを尊重し彼との応答を楽しそうに話していた。後年、大澤さんにゆっくり話を聞こうと、ある編集者と一緒に企画をして申し入れたが「息子の設計による自宅の改築がすんだらその自宅でやりましょう」と言う。その日を楽しみに待った。大渾さんは引越しのあわただしい作業の中、亡くなられた。ご存知であろうが念のため、大澤さんは美術学校教授大津三之助さんの三男であり、確か大澤家は福沢諭吉との血縁であったはず。お悔やみに奥様輝子さんを訪ねた折に、棚上に論書が洋行の土産としたブリキの汽車があったと記憶する。著名な画家である次男の昌助さんの話を楽しげにされ、僕にも毎回個展の案内を下さった。昌助さんの絵はすばらしかった。大渾さんは昌助さんと同様に長寿であるはず、と信じていたことを悔やんだ。もっとたくさんの話を開きたかった。
牧野清さん(昭和一五年卒)は吉村事務所の番頭格であったはずである。うろ覚えであるが国際文化会館の木造住宅は彼の担当ではなかったか。残念ながら以前の改修時に取り壊されてしまったから実物を見てはいないが、僕の好きな吉村作品である。二〇〇五年に開催された「書村順三建築展」にも模型が展示されていた。彼は私の父と府立七中で同期であった。七中の同期には南方で戦病死した小林忠雄(昭和一六年卒)もいて、美術学枚建築科の人気がしのばれる。牧野は長年勤めた吉村事務所を辞し自分の事務所を開設してから数年を経ずに病没している。実は彼の同期には私の父だけでなく叔父もいる。私の母が叔父の妹である。父は同級生の妹と結婚したということになる。その兄弟に粟冠(難しいがサッカと読む)康勝(昭和二三年卒)がいる。おそらく彼が美校を受験したことと牧野清の存在は関係がある。粟冠康勝は卒業後、吉村順三先生の最初のひとりだけのスタッフになる。このことは『新建築別冊日本現代建築家シリーズ7吉村順三』(新建築社/一九八三年)の中で吉村さんが話してもいる。僕には残念ながら叔父についての記憶がない。子供の頃の写真に、叔父が作ってくれたこいのぼりを持っているものがあるだけだ。古い『新建築』誌に掲載されている彼の卒業設計は「放送局」であった。吉村さんが結核(肋膜かもしれない)を患い佐倉のサナトリウムに入院した折に見舞ったことがある、と聞いたがこれも記憶があると記すべきだろう。彼が描いたどくだみの絵が祖母の家にあった。彼自身も昭和二五年結核を患い没している。幼かった私は東大病院の病室の窓の向こう、不忍池の先に上野動物園の緑を見た記憶を持つ。私の芸大受験もこの環境によっていることになる。合格を喜んでくれた牧野さんのことを思い出す。わが祖母は叔父の没後も、時折吉村宅を訪れることがあったと聞く。
粟冠の同期には森康二(昭和二三年卒)がいて、今もお元気なのではないか。わが国の動画界の先駆者である。建築が作りにくい戦後、勢いのある映画に目を向ける人も少なくなかったようだ。
以下、思い出すままに記す。大澤さん同様、長期にわたり著名な建築家のアソシエーツとして仕事をされた美術学枚・芸大の先輩たちがおられるが、それらの方々のひとりに原田順さん(昭和二五年卒)がおられる。村野藤吾事務所に長年勤められ、村野さんの例のスケッチ〜ナプキンに書いたりホテルの便箋、新聞の余白に描いたりしたあれだ〜の解読ができる数少ないスタッフだったと開いたことを思い出す。退職後、息子さんとともに新宿の「トップス」というコーヒショップとバーの入った建物をご自身に案内していただいたことがある。歯のない口を大きく開け、笑いながら快活に楽しげに村野事務所時代の話をされていた。
吉村さんと同様にレーモンド事務所に参加された方々もいらっしやる。よく知られる通り、レーモンド事務所には、前川さんがコルビュジエの元から帰国した後すぐに勤めている。当時、最も優れた仕事のできる場所であったのであろう。ここには天野正治さん(昭和七年卒)、石川恒雄さん(昭和八年卒)がおられる。もちろん私はこれらの方々との面識をもたない。レーモンド事務所が一九三八年に出版したデイテール集『Antonin Raymond Architectural Details』の扉にお名前を見る。
坂倉準三さんの事務所には多くの芸大卒の人々がいる。長大作さん(昭和二〇年卒)はその中で特に私の知る人である。坂倉時代から椅子のデザインは長さんにゆだねられていたのであろう。ビエンナーレの出品に端を発する数々のデザインは今も少しずつ更新されながら多くの人々に愛されている。八〇歳代半ばの今も現役である。

2001年1月 1日 01:01 | ケンチクカ | コメント(0) | トラックバック(0)

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