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「2050年」から環境をデザインの最近のブログ記事

団地再生 
住み手が住まいをつくる       野沢正光


ベルリンの壁崩壊後の旧東ドイツの大団地は、人口急減を受けて、適正規模へと容積率を減らすことで再生を図った。このことを知った建築家は、日本における団地再生に関心をもつ。団地再生の主人公は誰か。日本のある団地では、お金、コト、人も住み手が自ら動かしながら、団地の生活を運営する試みが行われていた。


団地再生というテーマに出合う

 団地再生研究会というNPOを始めて四年が経ちました。NPO法人になる前の活動を含めると六、七年になります。 
 きっかけは、ライネフェルデという団地を知ったことです。この旧東ドイツの団地が大変に面白く再生されていることに驚きました。僕がなによりびっくりしたのは、二〇年ほど前のベルリンの壁崩壊に伴って、露呈した東側の社会の弱さです。西側ではふつうのことである減価償却という考え方が社会主義国にはなく、たとえば機械を更新するなどの維持管理の仕組みがまったくなかった。東ヨーロッパには、確か六〇〇〇万戸ぐらいの大型パネル工法によるプレキャストコンクリート住宅があって、そこに二億数千万人が住んでいたと言われますが、その住宅が廃墟になりつつあった。東ヨーロッパの団地は産業とセットですから、工場と住宅団地の両方がくたびれていく、それを建て直し再生する試みを統一ドイツの連邦政府と地方政府がいろいろと行っているのですが。ライネフェルデはそのモデルケースというわけです。旧西ドイツ側の建築家も参加して従来の「東」と異なる考え方でいろいろな手法を試している、それを見に行ったわけです。
 
床を増やさない「減築」という手法

 ライネフェルデでのそれは、ハードの再生としても面白くて、その手法もユニークでした。具体的には、「減築」と僕らは名づけたんですが、最盛期の人口が二万数千人であったものを一万数千人に減らすことを前提に工場を誘致し、インフラを整備しながら、住宅の規模を適正化しています。たいてい五階建てでエレベーターなしだった住宅を、少なくとも四階にするというものです(図1)。
 ここではさまざまな再生が試みられています。たとえば、一五〇?一六〇メートルあった住棟では、ほとんどは中間に階段をもつ「二戸一」と僕らは言いますけれども、その左右に住戸があるというタイプが連続しているわけですが、そのうちの一つおきのユニットを抜いているんですね。つまり、上一層をとって中を一つずつ抜いていきますから、延べ床が約四〇パーセントぐらいになるのでしょう。今までアンチヒューマンな大きな長い壁の連続だったものを、小さな単位のテラスハウスといいますか、小ぶりの住戸に切り替えたものです。あるいは既存の住棟が二つL型に建っている。そのコーナーにエレベーター棟を立てて、左右に廊下を付け足してエレベーターでアプローチできるように切り替えるなどです。さまざまなタイプの住棟実験が実に生き生きとそこでは行われていました。
 
既存躯体の再利用の新技術

 それを見て、日本でもきっとそういうことが必要になってくるという思いを強くしました。新築では起き得ない、再生ならではのさまざまなテクニカルなテーマがここでは発生することにも注目しました。たとえばパネル住宅を切断し、再度耐久性のあるものに組み上げるなどの対応に新築では考えられない、イノベーティブな技術が発生するのです。
 彼らが一生懸命やっているものは、ひと言でいうとオープンビルディングシステムというものではないかと考えます。オランダのハブラーケンが提唱した「オープンビルディング」というのは、要は躯体のシステムと、設備系をきちんとつくっておいて、間仕切りとかそういうものは可変的に考えるシステムです。
 このシステムは、もともと「サポート」と「インフィル」という言い方をしていまして、これを日本では多くの場合「スケルトン」「インフィル」と言いますが、サポート(スケルトン)というのは躯体など主要部のことで、インフィルというのは、造作といいますか、間仕切りとかそういうものに当たるものなんです。実はオープンビルディングシステムは「サポート」「インフィル」の前提として「アーバンティッシュ」というレベルを考えるもののようです。ティッシュというのは、僕らはちり紙のことをティッシュと言いますが、大きな、インフラと言ってもいいのかもしれないけれども、道路や産業基盤など「網目」のことをいうようです。ライネフェルデでは、産業をどうするか、交通網をどうするか、それから住宅を適正にするにはどうしたらいいか、それから緑をどうするか。つまり「就労」と「環境」と「居住」の三つの主張を「アーバンティッシュ」としているようでした。そのうえで、マスタープランを何度も何度も修正しながら計画を進めていました。


ヨーロッパの巨大団地の再構築

 EUとりわけドイツの中でもライネフェルデは一種特化した実験なんだろうと思います。つまり、ライネフェルデでやってみて、今後どうするか。再生のできない住宅団地もいっぱい出てくると思います。ドイツではライネフェルデの他にもいくつか実験がされていますし、団地の再生はヨーロッパ各地で起きているんですね。
 一九六〇年代から七〇年代につくられた団地の再生に一番最初に手をつけたのは、イギリスのサッチャー政権です。サッチャーがいわゆる巨大集合団地??僕らの世代にとっては、大学で習ったとても大事な資料みたいな団地でして、グレーター・ロンドン・カウンシル(GLC)という組織が、これらの団地やニュータウンをつくったわけです。これらの多くは「空中歩廊」に象徴される大型高層の連続する住棟群を一つの特徴としていましたが、それが、「バンダリズム」(一種の暴力的破壊)の根拠とされ、サッチャー時代にアリスコールマンの指摘により「再生」されることになるのです。
 たとえば、長大な住棟を小さな単位に切り替える、長い空中廊下を切断し住棟を分離する。入口にセーフティのための居住者だけが入れるロックをつける。それから均一のオープンスペースだったところを切り取って個人の庭に切り替えたり、小さなパスといいますか道路に切り替えてオープンスペースを多彩な場にするなどが行われたのです(図2)。僕らにとってはGLCのそのころの集合住宅は実はすごく素敵なものなんです。広々としたグリーンの中にタワーがぽんと建っているとか、長い住棟がその中に配置されているというような感じで、いわゆるパブリックなスペースとプライベートな住棟だけのこれらの団地が管理、安全の面から問われることになったのです。それらを管理可能な安全な場所に切り替えていくことをイギリスでは劇的にやったのでしょう。
 もう一つ典型的なのはオランダの事例です。アムステルダムの郊外ですが、ベルマミーア団地では、蜂の巣状に八〇メートルか一〇〇メートルぐらいの住棟が連続しつながっている。そこの間に、八〇メートルの線で六角形を描いた大きなオープンスペースが交互に存在するみたいな団地でしたが、壊すものは壊し、切断するものは切断して再構築していました(図3)。社会的な変化についていけなくなったこととか、老朽化も一部あるのかもしれませんが、むしろ居住する仕組みが変わってしまったことに対して、大胆な対応となっています。
 これらいくつかの事例を数度にわたり見た、それが僕の団地の再生、都市の再生への興味のきっかけでした。これからは日本でもこうした再生が大きなテーマになっていくだろうとも思ったわけです。

歩いてわかった団地の価値

 団地再生研究会は身近な活動として「団地を逍遙する」という企画をずっとやっています。歩いてみると、住宅団地の周辺の環境が劇的に変化しているのに改めて気づきます。四〇年前、森や畑の中にぽつんと建っていた団地が、いつの間にか建て売り住宅に取り囲まれ、団地の敷地が逆にオアシスのような濃い緑地になっているのです。とても面白いことがいっぱいあります。たとえば、当時公団が住宅団地として開発するときに、公団が守るルールがあるのです。敷地からいっさい土を外に出さない、買収した土地と周辺の高低にはいっさい触らない、などです。このルールでやっているものですから、初期の団地は地表の起伏がとても上手に使われている。公団の団地の計画手法も当事者によりさまざまに異なっています。
 それがなかなか面白い。しかし、それとは逆の例もあります。たとえば、草加松原は畑の中につくったので、真っ平らな、言ってみれば単調な団地です。計画学の教科書的には優れていたみたいですね。住棟間の日照のための距離だとか、そういうのが優れているらしいんです。だけど行ってみますと、一列に全部並んでいますから、住棟は羊かんのように切れていても、一列に並んでいるのを反対側の窓から見ますと、壁のようにしか見えないんですね。切れ目が見えない。だから前を見ても後ろを見ても、自分の住戸からは連続した壁が見えるという、非常にアンチヒューマンであまりに評価できないものもあるのです。
 他方、公団旧東京支社の人は、「自慢じゃないけど」という感じで言うわけですが、住棟配置と敷地の勾配をすごく考えている。一例を挙げましょう。百草・高幡という団地は、すごいです。当時、公団にいた津端修一さんもかかわっています。当時、彼らは三〇歳そこそこぐらいでこの団地のマスタープランをつくっていますので、現在まだ八〇歳になっていない。彼らと一緒に団地を逍遙しながら、いろんなことを教えてもらう。そうした中で改めて、当時の団地というのは十分考えられつくられているもので、今でも十分鑑賞に堪えることを僕らは教わった感じがするんです。
 当時の団地は、住戸の設計はすべて標準設計ですから、それ以外の住棟設計はあり得ません。それを少なくとも「二戸一」で設計しなきゃならないのです。彼らはイギリスのGLCの研究や成果ももちろん知っています。どうやったら日本でも彼らの思想を取り入れた計画が可能か、またコミュニティがつくれるだろうかと、住棟を少し囲い込んだり、いろいろ工夫したいわけですね(図4)。それをこの地形の中でなんとかやってみようとします。住棟を囲い込んだ配置としてその中に車道を入れて、車と歩行者の動線を分けるなど原理的な試みをいっぱいやっているんです。
 戸単位の標準設計をベースにしながら、階段のつくり方に工夫を加える。百草は、階段の図面だけ山のようにありました。たとえば、標準設計の住戸を勾配に合わせて半階分ずらしながら、角度を付けて置く。ですから階段のパターンだけすごくたくさんあるわけです。敷地勾配に合わせて、半階ずつずらしながら等高線に合わせてずっと上っていくなどの試みをやっています(図5)。
 隣接する高幡は百草以上に大変なところで、北斜面なんです。ゆっくりした北斜面に大きくラウンドした標準設計の建物によって大きいカーブをつくり、斜面を南に上がっていくところに別の住棟が建っているという構成です(図6)。そこも無理していて、敷地の中に限られた棟数しか入らないものですから、巨大な住棟を一つぽんと建ててこなしていますが、緑に囲われて人が入りにくい側の今日の緑の量は、ものすごいものです。今は発生した空き家に若い方が入居しているようです。、つまりお子さんを育てるのにすごくいいようで、若い方がかなり住んでいる感じに見えました。
 こういう流れで、昭和四〇年代ぐらいまで団地がつくられていく。改めて団地を見ながらみなさんに知ってもらいたいと思うのは、四〇?五〇年ぐらい前の公団住宅団地はかなりきちんとした計画がされていたということです。今、こうしてつくられた団地が建て替えられようとしていますが、ここでの設計、計画は四〇年前のそれに比べとてもひどいと言わざるを得ないものが多いのではないかと思うのです。公団は幾多の変遷を経て現在、UR都市機構となっていますが、ひばりが丘をはじめいろいろなところで建替えをやっています。新たな住戸の提案ができないというルールになっていますので、既存のプランをそのまま踏襲したプランで、建替え事業というかたちでつくり直しているわけです。それで住棟を高層化集中させ、残った土地を民間に売ることもあるわけです。売ったところは民間ディベロッパーによる開発で、緑もなにもない計画になるという事態が起きます。
 公団が賃貸の建替えをやって住棟を高くして緑を残しても、公団の別部隊がその横に、敷地内で三階建てぐらいの立体駐車場をつくります。これが存外大きい面積を占めるのです。だからいくら住棟の面積を集約しても、もう一つの大きな工作物の出現で、公園のような緑の公共のスペースはなくなってしまう。私の見るところ、そういう事例が今行われている建替えのようです。僕らは公団の敷地というのは誰のものなんだろう、公団がなんでここでまた事業をしないといけないのと思わざるを得ません。
 批判として言うのではありません。ライネフェルデに見るように、継続してきた智恵、それを生かして、新しい智恵を生み出すことの楽しみは関係する多くの人々で共有すべきではないかと思うのです。
 ぜひみなさんには逍遥に参加していただき、昭和四〇年代の団地づくりにかかわった人たちが夢をもって絵を描いたこと、その作意をぜひ記憶にとどめておいていただきたいと思っています。

リノベーションで躯体の寿命は一四〇年超

 これは今、大変注目されている事例ですからご存じだと思いますが、学生寮「求道学舎」を建築家の近角真一さんがリノベーションされました(図7)。求道学舎は築八〇年。東京で一番古いRC造建築の一つと聞いていますが、武田五一という関西の有名な建築家がつくったものです。ここは近角さんの祖父、近角常観がつくった仏教のいわば「教会」と学生寮です。常観は檀家のいない仏教指導者で、ヨーロッパへ行って教会を見て、日本でもああいうところで説教するという仕組みで仏教の布教もやれるのではないかと、つくったものが求道会館で、背後に立つ求道学舎は、若き仏教学生の寮でした。これが、放置されていた。
 ここを宗教法人がもち続けるために、リノベーションすることになり、コンサルタントの田村誠邦さんがコーポラティブ住宅のシステムをここにもち込むことを提案、近角さんと田村さんが知恵を絞ってこの求道学舎のリノベーションを実現させました。
 土地については、六〇年の定期借地を設定し、それ以降の二年間は経過措置として賃借権があり、つまり六二年後にはもとの宗教法人に土地が戻るというルールです。そのときに、コーポラティブの所有者は、建物の所有部分の価値を売ることになります。これは、土地を売ることなしに再生プロジェクトが、お金も含めて成立したという、日本では珍しい例だと思います。
 求道学舎の躯体は構造耐力を調査し耐震性を検証、躯体以外は解体撤去され一部の構造壁は新しく設けられました。そのうえで、新しく住戸がしつらえられたのです。廊下の幅が非常に広かったので、その廊下の部分も住宅に切り替えています。もともとあった階段を使って、上下でメゾネットに切り替えた部屋もあります。
 二つの寮室を合わせて一住戸に変えたり、広い廊下と合わせ、らせん階段を設置してメゾネットに切り替えるなど全館を住宅に切り替えたのです。「再生」の特徴で周囲の大きな樹木などの環境が守られ、一新した建物と見事に調和しています(図8)。
 八〇年前の躯体といえども見事に再生できることを実感していただける、わが国でのかなり希有な事例ですね。わざわざライネフェルデまで行かなくても、この事例で再生の可能性、有用性は十分わかるはずです。
 
躯体を使い続けることがCO2削減の近道

 求道学舎の再生は、を五〇パーセント削減するという課題に対して建築のフィールドで何ができるかのすごく大きなヒントだと思います。
 公団は求道学舎の半分のたった四〇年しか経っていないのに壊す。仮に、四〇年ごとに建て替えるとすると、求道学舎が再生によって保証された八〇プラス六二年つまり一四二年の間に四回建て替えることになります。建築における排出量は躯体だけで、全体のたぶん八割五分ぐらいを占めます。単純にいうと四回建て替えるとが四倍増える。そのうえ解体による三回分の排出量が加わる。
 建築では、使い続けること、特に躯体を使い続けることが排出量の削減にもっとも貢献することになるのです。僕たち建築家、また一般の人にもぜひ、直す方法や再生する方法、そしてそれによってその快適度はいくらでも上げることができることをぜひ知ってもらいたいと思います。また、建築家も、直す、使い続けるための、メニューや使い続けながら建物のクオリティを上げるための技術開発に取り組んでいく必要があると思います。

コンバージョンでよみがえった中学校

 東京・足立区に、「3年B組金八先生」のストーリーのモデルになった中学校があります。この築三〇年の学校を足立区は民間にプロポーザルで払い下げたのです。いろいろなプロポーザルの提案があったと聞きました。結果、東京未来大学という、福祉系の単科大学に切り替える案が選ばれました。
 これが堀端に立つ既存の建物ですね(図9)。この学校法人は、圓山彬雄さんという北海道の建築家に計画を依頼して、これを大学に直すというプロジェクトに取り組み、ついこの間竣工させました(図10)。
 耐震性を上げるために、L型の校舎の二つの面に耐震壁がつくられました。ここでの再生は、躯体にとどまりません。何と床は、昔の建物で使われていたナラのパーケットのフローリング、それをもう一度ポリッシュしまして、だめなところだけ取り替えて、すごいきれいな、時間のかかった床がちゃんとできているわけですね。
 プールがあったところは、改修で大教室となりました。通例として解体されることの多い、三〇年そこそこの学校が、こういうかたちでもう一つの用途に切り替えられて生きていく。
 新たに、足りなかった構造壁が取り付けられ、便所は全部やり替えています。エレベーターを付けたり、もちろん図書館、本部、研究室、食堂ホールなどの建物を旧校庭に新築するなど、いくつかのそういう作業をして、機能を満足させて、文部科学省の基準にも合う単科大学として生まれ変わりました。
 こうしてみると、そろそろ日本でも建物を再生しながら使っていくことがメニューに入ってきているという気がします。紹介したのは、一つは住宅で一つは学校でした。しつらえはボロになっていたり、表面がボロになっていたり、場合によっては性能が悪い、サッシュが悪いとか、断熱が足りない、機能が変わったなどがあっても、躯体はボロになっていないのです。補修・補強でなんとかなるはずの躯体と考える力さえあれば、改修のやり方はいくらでもあるのです。 

団地再生に不可欠な制度と仕組み

 求道学舎のプロジェクトが、なぜ成立したかというと、所有者を一人に絞ることができたからです。ただし、頭が痛いのは、金銭面でした。銀行は区分所有という仕組みには金を貸すのですが、この仕組みは、維持、管理、建替えではとても不便です。
 僕がよく知っている多摩ニュータウンでは、いくつものNPOがあって、そのNPOが自発的に団地の経営をしていこうとがんばっています。非常に有能な金融マンだとか非常に有能な各種の専門家や建築家もいます。
 たとえば、例のペイオフでの上限一〇〇〇万円までの預金保証の話のときも、各団地の管理組合は非常に困った。大規模修繕積立金が、場合によっては何億円あるという団地は多数あるわけです。もしも一億円もっていたら、リスクを回避するために、一〇口に分けなきゃならない。一〇口に分けた金を管理することは、それだけで大変なことです。多摩ニュータウンに住む外資系企業に勤める人が、信託化を提案するということがあったと聞きます。このように、知恵は団地の中に、たくさんあるわけです。そういう人たちが、団地を自らのフィールドにして金も動いて、人も快適に住んで、運営自体を自分のものにしていくことを積極的に考え始めているようです。
 釈迦に説法ですが、たとえば一団地認定という仕組みは、つくるときは都合が良くても、建替えを含めて団地再生を考える際にはネックになる。新築ばかりを考えたときに都合の良かった制度、仕組みが再生の時代の足かせになっていることは本当に残念です。新しい仕組み、制度、考え方の創出こそ急務です。
 極端ですが、団地から人がいなくなったら公園に戻すようなことがあってもいい。つまり、共有の場所として、四〇年人を住まわせながらこんなに大きな緑にしたのだから、ここは市民の共有の緑地だという格好で、団地が緑の公園に変わっていく、所有はずっと市民だったということにできる、こうした制度とか仕組みの創出があり得ないだろうかと思います。
 これについては、一八五〇年ぐらいにできたナショナルトラストというイギリスの制度が参考になります。オクタヴィア・ヒル、ロバート・ハンター、キャノン・ラウンズレイの三人によって設立された。貴族たちが農村にもっていた広大な敷地などを共有財産(コモン)として次世代へと引き継ぐ仕組み制度を古くからある入会権を根拠として考えたわけです。コモン、共同で使用している権利のほうが、所有する権利の上にあることを理屈づけるんですね。一方で破壊が起きると、その一方でそういうカウンターの動きが起き、理屈をきちんとつけて、なるほどと思わせ社会化するというようなことがあった。日本でどうしたらそうした発想を実現できるだろうか、そう思うのです。

住まいは住む人がつくる

 住宅団地は誰のものでしょうか。住宅生産振興財団の『家とまちなみ』という冊子の記事を読んで僕はこれじゃないかと思った。そこでは、埼玉県狭山市の新狭山ハイツが紹介されていました。このレポートはすごく面白い。この記事を書かれた毛塚宏さんという人がすごいと思いました。僕と同い年で、一九四四年生まれ、東京農業大学出身のこの人がこの団地での充実した活動のコアなんだと思います。
 ここは、三〇年ぐらいの前の民間分譲団地で、五・六ヘクタールの敷地に、五階建三十二棟の建物が建ち、七七〇世帯(一、八三〇名)が住んでいます(図11)。できて一〇年間ぐらいは、やはりただのふつうの団地だったらしい。ところが、ここに住んでいる毛塚さんたちが中心となり、シイタケ園、多目的広場、わくわく自然園、まち角広場だとか花壇広場を次々に整備し、商店街までつくりました。団地開発のときの遊水池で市の用地になっているオープンスペースを使って、毛塚さん自身農業が得意だということがたぶんすごく大きいんだと思うのですが、いろいろなことをしているのです。
 共有財産を保全する管理組合とコミュニティを運営する自治会があり、その下に、「子育て」「福祉」「文化」「環境」の各部門に分かれ、たとえば「生ゴミリサイクルを考える会」だとか「楽農クラブ」は環境部門に入っています。これをつないでいるのが農業なのですね。
 事業内容として、緑化の管理運営だとか、ビオトープの管理運営、生ゴミのリサイクル??これは団地の生産物のあるところ、生ゴミですね。それから肥料づくりだとか、共同農場の運営などの事業を基本的にはグループをつくり非常にフレキシブルに行っている。
 僕の事務所のスタッフに、最近の状況を撮ってきてもらったのが、この写真です(図12)。長年の緑化推進本部による取組みで、緑豊かな今の団地の状況ですね。これは、団地の入口の防火水槽の上に木製デッキを敷いて花壇広場にしているところです。
 生ゴミ処理の機械を持ち込んで、コンポストをここでは年間三トンつくっている。
 「わくわく自然園」は、調整池。六〇〇〇枚のコンクリート平板をはがして自力でつくったビオトープです。楽農クラブは共同農場をもっています。やっぱり住まいは住む人間がつくるものなのですね。
 この人たちが三〇年を超える生活を通して、団地の環境をつくってきたわけです。居住だけの、切り取られた場所じゃなくて、ここでは土日もここにいてたぶん面白いし、いろんなポジティブな生産が行われています。うちの事務所のスタッフは、スナップエンドウをもらって帰ってきましたが、すごくうまかったと言っていました。
 「ふれあい広場」は、もともとテニスコートだったところをつくり変えたものです。毎年、夏祭りが行われています。
 こんな感じで、ここでは、お金も動いて、コトも動いて、人も動いて、団地の生活が運営されています。最近の学生は、コミュニティだ、コミュニティだと卒業設計の課題で言いますけれども、コミュニティとは、こういう個性のことなのかもしれないなと思わせる面白いことが、実際起きている。そうすると、最初は、ただの羊かんが並んでいるように見えた団地も、非常に個性のあるものになっていく。
 
住民自らが団地を経営する

 先ほど申しましたように、多摩ニュータウンなどでは、団地を経営する場所として、金も動き、金も生まれ、人も動き、モノも動くという場所として、自発的に経営していく動きがたくさん起きています。特に多摩と高蔵寺と千里、あるいはつくばのように大きい団地は、団地の中で、当事者同士の話し合いやお互いに元気づける試みも実際に起きています。
 市民参加型というよりも、市民そのものが主人公であり、責任をもち、場合によっては手柄を自分たちのものとし、失敗を恐れなければ、社会も大きく変わりそうです。それと同じことが団地の中でも当然起きてくるでしょう。団地には考えることのできる人たち、あるいは社会的経験を積んだ人たちがたくさんいますので、その人たちが団地を経営するというか、そこをマネージしたり、自分の能力を生かして何かする人たちが出てくれば、いろいろな個性ある団地が生まれてくることになるでしょう。

変化のダイナミズムと団地再生

 朝日新聞の日曜版の付録の「be」に「あっと!@データ」という小さなコラムがあって、一〇〇年ぐらい前の日本で人口が一番多かった県はどこか、というのがありました。いったい、どこだと思いますか。
 新潟県なのです。つまり、農業がいかに優位な産業で、いかに豊かな暮らしをつくり出し、経済的な力があったか、いかに労働集約型であったか、ということを物語っています。
 今では、新潟が日本で一番人口が多かったことを想像できない。僕がびっくりしたのは、そのぐらい世の中はダイナミックに変わったということです。今後もまた非常にドラスティックに変わる可能性がある。だから、都市とかまちが、これから変わっていくことについて歯止めをかけることができるかどうかもわからない。
 団地が消えていくかもしれないとも思います。大きく、別の変わり方をここから先、相当なスピードでする可能性がありますから。そのときに、生活の場所をどうつくるのかということが、すでにある団地をどう再生するかということにつながっていくのかも知れません。僕たちがつくり変えることを非常にクリエーティブにできたら、大変面白いことになる可能性があると思います。

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