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里山の自然に囲まれた美術館
いわむらかずお〈絵本作家〉
     

「いわむらかずお絵本の丘美術館」の活動と建築

「ここは町一番の場所ですよ」と馬頭町(現、那珂川町)の人たちが案内してくれたのは、日光や那須の山々を見晴らす美しい丘だった。那珂川に向かって岬のように突き出た丘には、雑木林、草はら、桑畑、竹やぶ、植林地などがあり、南と北の谷には小川が流れ、田んぼやため池があった。そして、うれしいことに北隣の丘には牛のいる農場があった。二つの丘に私たちが求めていた里山を構成する要素がほぼ揃っていた。「ここに絵本美術館を建てよう」私たちがそう決心したのは、1995年の春のことだった。
 私たちが計画したのは、建物があるだけではない里山の自然に囲まれた美術館だった。里山をまるごと美術館に。つまり、絵本の世界とその舞台である里山の自然がともに体験できる所をつくろうと考えたのだ。そしてフィールドには、いのちの営みの中心「食」、そのまた中心であ「農」を体験できる農場が欲しいと願った。
 私は絵本作家として仕事を始めて5年目の1975年、東京を離れ栃木県に移り住んだ。私にとっての原風景でもある里山の自然のなかで、家族と暮らしながら絵本を描いていこうと思ったのだ。以来、雑木林に暮す野ねずみ一家を描いた『14ひきのシリーズ』など、身近な自然からたくさんのことを得て絵本を描いてきた。私の絵本と自然は切り離すことが出来ないものになていったのだ。
 しかし、近年、私の大事な読者である子供たちが自然体験からどんどん遠ざかっていくようになった。作者である私が、里山に暮らしどんなに自然を描いても、自然体験の少ない子供たちには充分に伝わらないのではないか。子供の時代に、自然から感じ取ることや多様な生きものたちに出会う体験は、人の成長に欠かせない大切な糧になるに違いない。芸術も科学も哲学や宗教もその出発点で自然から多くを感じ学び取ってきたのではないのか。
 計画の早い段階から建築家に加わってもらうことにした。建築が私たちの活動の意図をしっかり表現して欲しいと思ったからだ。友人で大学の後輩でもある野沢正光さんにお願いすることにした。彼が普段から環境にも強い関心を持ち活動していることや、私の絵本や美術館の計画に理解を示してくれていたことがその理由だった。彼なら、単なる設計者としてだけではなく活動のパートナーとして参加してくれるに違いないと期待した。
 建築プランは、私の絵本の世界のイメージと重なること、地元の木材を使うこと、自然の景観にとけ込むこと、環境に配慮することなどが当初から話し合われた。何回も一緒に現地に出掛け、意見交換し、図面を書き直し、プランは具体化していった。丘の斜面は削らず地形をそ
のまま生かす。全体をいくつかの建物が集合した小さな集落のようなイメージにする。原画の展示室、収蔵庫の外壁は防火上コンクリートにする。OMソーラーシステムを採用する。館内全て車椅子で移動できるようにする。眺望を生かし、生きものたちを観察しやすいように建物の南側にデッキを付ける。
 木材は地元の材木店が町内の山から杉を切り出し製材してくれることになった。切り倒したところを見ますかという材木店からの連絡で、私たちは山に出掛けた。途中で車を降りて薄暗い杉林のなかの坂道を上っていくと、急に明るい場所に出た。太い杉が何本も斜面に横たわっていた。樹齢90年、私の両親が生まれる前に芽を出し、あの戦争の時代を生き抜いてきたこの杉が、いま山を下り私たちの美術館になるのかと思うと愛おしくなって思わず抱きしめた。
 床材は那須の唐松を使った。当初、木が暴れて困ったが、しばらくしてすっかり落ち着いた。塗装は柿渋にした。スタッフがまめに塗りつづけたことで、今では渋が木にしみ込んで黒みをおび、深い味わいを出している。
 傾斜地をそのまま生かしたことで、ティールームが玄関ホールや展示室から一段下がって位置している。その段差をつなげ車椅子が楽に行き来できるようにスロープを付けた。限られた予算のなかで館の中心につなぎのために大きなスペースを取るのは痛かったが、開館してみると障害者や高齢者の車椅子、あかちゃんの乳母車などが思ったより多く、スロープは生きた空間になった。車椅子の人たちのためだけでなく、来館者が展示室からティールームヘと向かう気分転換の空間であったり、帰路につくときは、余韻を楽しむように出口ヘと向かう空間にもなった。体の不自由な人たちにとって快適な空間は、健常者にとっても心地よいのだ。
 ティールームのテーブルとベンチは、木曽の家具工房に依頼した。打ち合わせに木曽に出掛け、工房の人の案内で資材置き場に行き木を見せてもらった。ミズナラ、クリ、サクラ、トチ、クルミ、みんな日本の山の木だ。どの木も個性的で表情がありとても魅力的だった。どれ
を選ぶか決めかね、思い切って「五種類全部!」と言ってみた。すると「いいですよ」という返事。というわけで、五種類の木のテーブルとベンチが並んだティールームは、さながら木の展示室になった。五種類の木を言い当てられる人はほとんどいないが、来館者はお茶を飲みながら木肌の感触を楽しんでいる。
 2003年、展示室の隣にアトリエ棟が完成した。小さな集落のような建物群にもう一棟加わったわけだ。集落が少しずつ大きくなる、野沢さんの当初からのイメージがひとつ実現した。仕事場の他に寝泊まりできる居住空間も備えた。この丘からもっと絵本を生み出すために、ここに滞在する時間を増やそうと考えたのだ。真夜中や早朝のえほんの丘も知りたいと思った。美術館と同じように広い窓とデッキを付け、生きものが現われたらすぐ観察できるようにした。実際、この建物が出来たことで、生きものたちに出会う機会がずっと増えた。夕暮れのアトリエの前でイノシシの大群に出会ったり、垣根をくぐって野ウサギが庭に入ってきたり、合併浄化槽の排水の小さな池に、いろいろな鳥たちがきて水浴びしたりしている。
 絵本、自然、子供をキーワードに、さまざまな活動を続けてきたが、この4月、美術館は開館10周年を迎えた。子供たちの自然体験の重要性はますます多くの人たちが指摘するようになった。特にこの国の「食」と「農」は環境、食料自給、後継者などさまざまな問題を含みな
がら深刻な状況に追い込まれつつあり、一人ひとりが自らの対応を迫られている。今、農場の使われなくなった母屋を改修して農場イベントに活用し、えほんの丘の活動を盛り上げようと、NPO法人立ち上げの準備が友人たちを中心に進められている。もちろん、野沢さんもその重要な一員として参加し、母屋改修プランなどを練っている。建築家が設計だけではなく、活動そのものに深く関わり続けてくれているのは心強い。
 交通の便が悪いにも関わらず、遠くから訪ねてくる人が多く、来館者の滞在時間は長い。展示を見て、草はらでお弁当を広げ、農場まで歩いて、また館内に戻ってと、半日ここで過ごす子供連れの家族に出会うと、なんだか私も幸せな気分になる。建築が絵本や里山の自然と一体となって居心地のいい空間を作り出し、私たちの美術館活動を支えてくれている。    
いわむらかずお〈絵本作家〉     

20世紀の終わりから21世紀にかけての私たちの時代、それを特徴付けるものが「産業革命」から今日まで、たった200年ほどの間の急速な技術開発と資源の浪費、それによって大きな問題となって現れた地球環境についての深刻な問題にあることはいうまでもありません。

1972年には早くも「ローマクラブ」*1が地球のエネルギー使用の急成長に警告を鳴らすレポート「成長の限界」を発表していますし、1973年には中東戦争によって石油の供給が止まり生活用品が枯渇し各地で品不足に拠るパニック、いわゆる「石油ショック」*2を経験しています。1992年、ブラジルのリオデジャネイロに様々な人々が集い地球環境について話しあう「地球サミット」*3が主催者も驚くほどの規模で開かれ、NGOなど草の根の人々の参加も極めて大規模で、この問題について広範なひとびとの危惧の共有が示されました。それを受け翌1993年、UIA(国際建築家連合),AIA(アメリカ建築家協会)共催の世界規模の建築家会議も開かれています。そして1997年12月、京都で地球温暖化会議,正式な名前は「国連気候変動枠組条約第3回締約国会議COP3」*4が開かれ温暖化ガスの削減がいかに差し迫った課題であるかが話しあわれました。激しい議論の末に一部の国を除き各国がCO2削減目標の設定をし2005年二月になり参加各国の批准によりやっと発効しました。ちなみにこのとき、わが国は1990年を基準として2010年までに6パーセントの削減の約束を正式にしたことになります。しかしながらわが国においては1997年から今日までの10年ほどの間に約8パーセントのCO2発生の増加を見ているといわれています。今日に至ってはなんと先の6パーセントとあわせ約14パーセントの削減が必要という事態となっているのです。これは週に一日まったく一切の活動を止める、一切CO2発生が無いという状況を作り出すことが求められているということになると考えるべきことなのでしょう。
私たちの時代は地球規模の環境にかかわる諸問題が避けて通れないテーマとして目の前に現れた時代と考えることが出来るでしょう。少しずつであっても私たちはさまざまな分野でこのことのついて工夫と努力をすることを求められているのです。
私たち建築家が直接かかわる建築生産と建築の運営分野のCO2発生がこの国のCO2発生量の00パーセントを占めることから私たち日本建築家協会の建築家も省資源省エネルギー建築を積極的につくって行こうとしています。そして実務のほかに事例集の出版、建築家に向けてのメッセージの発信し*5、また環境につき優れた取り組みをしている建築を「環境建築賞」*6として顕彰する制度を作るなど、さまざまな取り組みを通しこれからの建築家の任務と仕事の姿を模索してきました。

このことについてはもちろん建築にかかわるすべての人々つまり社会の大きな合意があることがとても大切でしょう。建築家自身の取り組みももちろん重要ですが、彼に仕事を発注するクライアントがそうした合意を共有する、そんな社会をまず作る必要があるのです。
様々な分野の人々つまりすべてのひとびとが環境を考えることをポジティブに日常のものとすることがこの問題の前提ということになると思うのです。
今日まで各国で様々な提案がされ、様々な取り組みがされてもいます。特にヨーロッパ諸国はこの問題に敏感であり社会的合意の構築のための試みも活発のように見えます。ヴッパタール研究所はドイツのこうした問題を仕事のひとつとするシンクタンクとして著名ですがそのヴッパタール研究所*7が1985年に発表した「ファクター4」というレポートに私たちは注目しました。そこでは様々な活動に伴う資源使用量とそれに拠る快適さの関係についての興味深い提言をしていたのです。資源使用量が大きければ快適がもたらされるわけではないこと、資源量とそれによってもたらされる快適さの間の関数を物差しにしたらいい、というのがこの提言だったのです。資源使用量とはそれにより発生するCO2量と考えることが出来るでしょう。より少ないエネルギー量により作られる「軽い建築」、断熱気密など建築の性能を向上させその上自然エネルギーを上手に使うなどする「エコ建築」、そうした建築は今日までの建築が考えてきた道の上にありそうに思えます。少なくとも20世紀の建築は「軽い建築」を目指していたのですからこれまでの思考の先に答えがあると考えていいということかもしれないと思うのです。片付けるべきは運用にエネルギーのいらない、しかも快適な建築です。これについてもさまざまな手立てが現れています。

「サステイナブルSUSTEINABLE」、という言葉も、主にヨーロッパの人々の議論の中で使われ始めた言葉のようです。ブルントラント、デンマークの首相であった彼女が委員長を勤める「環境と開発に関する世界委員会」が1987年発表した「地球の未来のために」で始めて使用した言葉ということですが、いつの間にか世界中で使われる言葉となりました。私たちが環境建築集を出版したときにもタイトルを「サステイナブルデザインガイド」としたのです。その時、日本語にすると「持続可能な」という意味のこの言葉の選択が一般に言う「丈夫で長持ちさせる」という意味と幾分違うことを知ることがとても意味のあることを知りました。丈夫で壊れないものを作ろうとすると実は資源使用が増える、CO2発生が増える、傾向にあることは想像がつくでしょう。これを「デューラブルDURABLE」というのだそうです。「サステイナブル」とはその反対で、いわば丈夫でなく壊れやすいもの、つまり資源使用量の少ない「軽い」(しかし快適さを損なわない)建築を運用や管理、エネルギー考えながらを上手に維持し使うことということのようなのです。
今日の社会公共サービスが無駄を排除しサービスの当事者を市民にゆだね私たち市民自身により提案され運営される姿があちこちに見られますが、まさにそうした社会を「サステイナブルソサエティ」の姿というのでしょう。

建物を作るときの資源使用はとても大きいものです。木造住宅は比較的「軽い」のですが今日の木造住宅は立派なコンクリートの基礎の上に建てられるためその重量は50tを軽く超えるのです。建築を長く使い続けることが大切なのはこの事によります。二度三度と建てなおすことは二倍三倍の資源使用と二倍三倍のゴミを発生させます。そうではなく、改築をしながら使い続ける、サステイナブルな建築とはこのことだと考えるのです。
旧東ドイツのライネフェルデという町で、40年程たった団地が見事に再生されているのを見た時、本当に面白いものを観た、と感じました。ソビエト時代の建物はこれからの時代のマスタープランに合わせ最上階を取り払ったり一部の棟を撤去したり様々な手法をとりながら、窓を替え断熱を強化しまったく新しい建物に生まれ変わり町の姿も一新していました。新築でない,改築であるからこそ可能な様々なサステイナブルデザインがそこにあったのです。市長さんの嬉しそうで楽しそうな表情がこのプロジェクトがこれにかかわった多くの人々にたくさんの満足をもたらしたことを示していました。
新築だけが建築であるかのようなこの国にでも80年前のコンクリート建築を見事に甦らせた求道学舎*9の改修のような成果が少しずつ現れ始めています。こうした試みの面白さを建築家にも社会にも知らせ、たくさんの事例が現れ、建築をより快適なものに改修しつつ使い続けることを社会が共有するサステイナブルな社会を目指す、そのために私たちがするべきことがたくさんあると考えています。


*1 1970年3月、スイスの法人として設立された民間組織。財界人、経済学者、科者などで構成される国際的な研究、提言グループ。人類の生存にかかわる問題を研究。
*2
*3 1992年6月ブラジル、リオデジャネイロに110カ国の首脳を中心にほとんどの国の政府代表、110カ国を超えるNGO代表が集まる。「リオ宣言」それに基づく行動計画「アジェンダ21」を採択。
*4
*5 1995年JIA環境行動指針を発表、また2000年に日本建築家協会、日本建築学会、建設業協会など5団体が連名で地球環境.建築憲章を発表している。1995年から1998年にわたり「サステイナブルデザインガイドⅠ、Ⅱ、Ⅲ」を発刊した。
*6 2000年より環境建築賞を制定。最優秀賞00点、環境建築賞00点入選00点を顕彰している(2006年現在)
*7 ドイツ連邦共和国、ノルトラインヴェストファーレン州が設立、正式には「ヴッパタール気候環境エネルギー研究所」初代所長はエルンスト.U.フォンワイツゼッカー
*8 1995年 E,U、ワイツゼッカー、エモリーロビンス等によって刊行。
*9 2006年近角真一近角00により再生された19mm年竣工武田五一設計の寮がコーポラティブハウスに再生された。70年の定期借地を加算するとこの建築は少なくとも150年の寿命となる

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