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第16回弘前市都市景観フォーラムの最近のブログ記事

2.対談:野沢正光×松隈洋
 「前川建築を通して弘前のまちづくりを語る」
(野 沢)
去年、春に清家清さんという建築家の展覧会があったんですね。ある意味、清家清さん身長180センチくらいあったと思うんですが、背の大きな建築家で、僕らは東京芸術大学東京工業大学と2つの大学を出た先生だったものですから、多少存じ上げる建築家だったんですけれども、亡くなられたんですね。亡くなられた直後に、タイミング良くと言えば怒られますが、清家先生の展覧会もありました。それから前川さんとレーモンドさんの事務所で籍を、たぶん十緒にしていた吉村順三さん、これはもう全く僕が学校の頃に世話になったんですが、迷惑をかけた先生ですけれども、その吉村順三さんの展覧会も去年の暮れにあったんです。どちらの展覧会も、今回の前川さんの展覧会もそうですけれども、たくさんの市民の方々と言いますか.今まではっきり言いますと建築家の展覧会というのは、なんか面倒くさそうで、あまりそんなにお客が入るものではないという風に言われていたんですが、松隈さんの努力などもあって「ドコモモ」の展覧会辺りから、たくさんの方が来てくださるようになりました。特に吉村さんの展覧会は、「新日曜美術館」というNHKの番組で紹介されたりしたこともあって、押すな、押すなという状況になったりしました。ということは、やっぱり我々が、いつの間にか親しんでいて、いつの間にかどうして、どこが、どうなのかわからないけれど、なんらかの影響というと変ですけれども、そこにそれがあることを知っているものが、実は大事なものとして、少しずつ我々の中に自覚というと変ですけれど、少し「どうなのかな」という風になりつつあるという状況なんじゃないかなという風に勝手に楽しみ、そうであってほしいという風に思いますし、きっとそうなんだろうという風に思っています。つまり建築が、前川先生というのは、たぶん僕が思うぐらいですから、たぶんすごい偉い人という感じがあったんでも大高さんでも僕は偉い人と思っていましたから・‥。偉い人と思ってしまうと、偉い人に対して参加するとか、提案するとかちょっとビクビクしまして、偉い人の方に、うんと責任がいってしまうんですね。だから偉い人はとかく、ものを造る偉い人は、とかく孤独になってしまったりするんではないかと思うんです。徐々にみんなで考えられるような社会になってきた時の前川國男さん、次の前川國男さん。それは少し、もっと楽な前川國男さんになっていくという感じもして、それは、僕はそういうことを期待する、期待したいなと思うんです。それは先程も申し上げたんですけれど、前川さんの建物をどう使い込んでいくかということも、そのこと何だろうと思うんですね。前川さんが「ああ、こう使ってくれているの。びっくりしたな。」というと変ですけど、非常に大事に使って頂きながら、思いのほか、おもしろい展開をしてくださるような、怯えない使い方というと変ですけれど、ということが現代建築というのは、たぶんできるんじゃないかと思うんです。現代建築というのは、先程言ったみたいに、ほとんど、まあ言ってみれば骨と皮しか造っていない、みたいところが、一方ではあるんですね。いくらしっかりと言いますか、造形的に大きな要素を占める壁やら、大きな柱などが仮にあったとしても、それは基本的には無駄のない最小限のものを造ろうとする努力の中でのことですから、僕は弘前での前川さんの建築をみなさんが、先程も申し上げたことの繰り返しですけれど、どう使っていって頂くのか。どう楽しんでいって頂けるのかがすごくおもしろそうだし、今回の巡回する展覧会、弘前に巡回する展覧会は、みなさんのアイディアで可能であればここでしかできない「前川展」になれる、することが可能なんではないか。それができたら、それを見る、第一歩なんじゃないかという風になんとなく思っています。
(松 隈)
 展覧会の宣伝になってしまうんですが、東京で一つだけやれたことがあります。東京駅のすぐ目の前、皇居の堀端に「東京海上ビルディング」という前川國男が建てた超高層ビルがあるんですね。東京駅でやることが決まった時に「東京海上」が見える場所に「東京海上」を展示しようと考えました。普段は窓を閉じて壁になっているんです。東京ステーションギャラリーは、この展示が終わると一回閉めて、国の重要文化財になり、戦争前の竣工時の状態に復元させる工事が始まるものですから、ギャラリーを閉鎖するんですね。そこで、最後の展覧会なので、また窓を開けようということになり、「東京海上」が見えるところに「東京海上」が何だったのか、という展示をしたんです。これは、僕もちゃんと知らなかったんですけれど、「東京海上」のタイルの色が赤い色をしているんです。いろんな色を試したようですが、最終的には東京駅の赤煉瓦に対して、建物としてつながりを持とうと、赤にしたそうです。元々は、丸の内地区に三菱地所が造った「一丁ロンドン」と呼ばれた煉瓦の建物が、たくさん並んだきれいな通りがあったわけです。それが全部なくなってしまって、東京駅だけが乱立していた中に、超高層ではありますが、東京駅とちゃんと呼応したビルを造ろうよということで、あの色を選んで造った。そのことも知ったので、余計そうしたくなって展示してみました。ただ残念なことに、目の前に建つ「新
丸ビル」という建物が、展覧会が終わるまでは、穴を掘っているから、たぶん見えるだろうと思っていたら、ことのほか、今の建築って造るのが早くて、鉄骨がどんどん上がって、肝心な窓から「東京海上」があんまり見えなくなっちゃったんです。やっぱり難しいなと思ったんです。本当に東京でやれることって、それくらいのことしかなくて・・・。だから弘前での「前川國男展」は、「本当の前川さんのことを知るためには、弘前の巡回展を見ないといけないよ」という展覧会にしたらいいなと思います。そのための協力は何でもします。それこそ人的にも、みなさん協力してくださいます。先ほども申し上げましたが、野沢さんも今回、前川建築が見られるということで、はじめて弘前に来て頂いただいたんです。知り合いの建築家の方々が、みんな弘前に来たいという風に言っていて、こっそり来るのはやめてくれと言っているんです(笑)。いくらでも応援団を作りますので、良い形で展覧会やっていただけたらと本当に思うんです。野沢さんが話された「ロイヤルフェスティバルホール」の使い方というか、「レスポンス」という言い方、「レスポンシビリティ」の話をされていましたけれど、前川さんは、実は、そこまで見据えていたんだろうと思います。例えば、「東京文化会館」の大ホールのロビーの外側に大きなテラスがあるんですけれども、それは前川さんが、実はオペラとか、コンサートがある時に休憩の時間に、人々がそのテラスに出てゆったりと音楽を楽しんだり、先程の野沢さんは「フェスティバルホール」で美しい女性の写真を見せて頂きましたけれど、ああいう情景が、そういう楽しみ方が、そういう文化の楽しみ方が、あそこで実現できるという風にすごく期待して造ったんですね。ところが、残念なことに、野沢さんの悪口じゃないですけれど、東京芸大の学生さんが、開館した当時、あそこのテラスの前にある、お堀の水を乗り越えて不法侵入をしてテラスに入り込んでしまったことがあった。これも伝聞ですから正確なところはわからないんですけれど、それで管理の方が、もうテラスに一切出さないということになりました。前川さんがご存命中には、結局、テラスに人が出るシステムを作れなかったんですね。亡くなった後に東京都の方が「文化会館をもっと開こう」ということで、テラスの開放もようやく実現して、なおかつ、今は、「国立西洋美術館」との間にある広場から直接入れるようになりました。ちょっと無粋な鉄骨の階段もつきまして、本当にあのテラスがピアガーデンみたいな感じですかね。何かこう夏場の居心地の良い場所になっていて、ああ前川さんが望んだことが、やっとできたんだ、という印象が、僕にはありました。そして、前川國男は、建築を造る時に、そこまで良い目で建築を見てたんじゃないかなと思いました。

〈野 沢〉
 あのたぶんそうですよね。戦後50年、60年と時間が経って、どこも日本の都市というのは、もちろん散漫なところがあったり、いろいろこれから造らなきゃならないこともいっぱいあるんですけれど、公共施設やら、何やら相当、充実してきちんとできてきている。これからそれをどうやって使うのかな、というところでの知恵の出しどころと言いますか。それは僕もそこから先は、やっと地域ごとの独自の匂いっていうのが、現れてくることになってくるんだと思いますね。あの何て言うのかな、もう一歩素敵にするということが先程の観光、人がどう見てくれているかということを、相手に対してどのくらいの、まあ言ってみれば、サービスがきちんとできているかなという感じが、とても大事みたいな気が、僕はちょっとしているんですね。
 レーネルという建築家というか、都市計画家がいまして、すごい貧しいブラジル、すごい貧しいなんて言ったら怒られますけれど、ブラジルのクリティーバという街の市長さんだったんですけれど、今は、国際建築家連合の会長さんなんです。彼が出した本が、日本語になって出ていて、とってもおもしろいんです。彼が、まちづくりで大事だと言っているのは「一生懸命働く、ニューヨークの韓国人の人」とか、「24時間働いて、街を明るくしてくれている人」とか「日本の飲み屋のカウンター」か、あるいは「街の中にある大学」だとかですね。そういうソフトな話をいっぱいしているんですね。やっぱりものが豊か、大きな箱が出来たから良い建築、良い街になるんじゃなくて、それをどんな風におもしろそうに使っている人々がいて、その吸引カが次の人々を寄せて来て、その次の人々がもっとおもしろく、その施設を使い続けていくみたいな人が、人を連続して生んでいくみたいな、能力を生んでいくみたいな仕組みというのが、これから「街の個性」ということになるんじゃないかなと思うんです。時々思い出すんですけれども、僕はニューヨークに一回しか行ったことがないんですけれど、「セントラルパーク」にですね。みなさんご存じかどうか知りませんけれど、しょんぼりした池がありまして、井の頭公園、みなさんに井の頭公園と言ってもあれなんですけれど、要は小さな、色の悪い池です。そこにボートが浮かんでいるような、ボートが浮かびますから、そこに木のテラスがあって、ボートが繋留できるようになっているんですね。夕方、そこを通りかかりましたら、昼間は、子供のボート乗り場のテラスが、とても素敵な白いクロスのかかったテーブルが、ちゃんと並んでいまして、ろうそくが、一本ずつちゃんと立っています。ちょっとお洒落しないといけないような格好で、アウトドアのレストランになっているんですね。こんなところでこんな設えをするか、という感じを僕はちょっとしたんです。それは僕のスタンダードだと、そういう場所はサントリーと背中に書いたプラスチックのイスをバラバラと並べて、サントリーじゃなくてもいいんですけれど、ちょうちんをもらってきて、ぱあ一っとぶら下げて、こんなもんだよと言って、乾いたおつまみなんかを、ぱんと出して、ビールでも売るというぐらいアイディアは出るんですけれど。あんなにきちんとした場所、つまりお客は、このぐらいを望むかもしれないみたいな、お互いの競争ですね。サービスする側とされる側の何ていうのかな、このぐらいやれば満足するだろうみたいな、そういうサービスというものが、つまり、みんなでそれをつくっていくということが、ひょっとするとよその人を呼んでくる可能性もあるし、自分たちが「それじゃあ、あそこで当事者になってサービス側にまわってやろう」ということになるかもしれない、という段階なのかなという風に思うんですね。そうすると、建物を「こう直そうよ」ということについても、あるいは、「こうした方がもっと便利になる」とか、今まで空き家みたいになっていた、どっか公共施設も、食堂なりレストランが、何かそういう場所が、とても賑やかな人を呼ぶ場所になるとか、それを場合によっては、自らそれを市民が担う。そういう社会、そういうことが、その時に建築家は、そのためにどうそれを、例えが建築物の一部を直すとか、先程の「ロイヤルフェスティバルホール」もそうなんですけれど、また1、2年休んで大改修をやるわけですね。そういうことも、「なるほど、それじゃあやろう」という風に決断が、語彙をしゃべるみたいなことが起きてくるのかなという風に思うんですね.そんな風に思います。


(松 隈)
 実は僕が、たまたま京都にいるものですから前川國男の「ドコモモ」の建物の100選に選ばれた「京都会館」という1960年に出来た音楽ホールと、劇場がある建物が、平安神宮のすぐ近くにありまして、去年45周年になったんですね。50周年を迎える2010年に向けて、改修をしていこうという動きがありまして、その改修の検討委員会に入ってくれ、というようなことで、今それに参加しているんです。一方で京都というのはちょっとプライドがあって生意気な街なんですが(笑)、せっかくその「京都会館」が良い場所にあるものですから、ある文化人の方なんですけれど、「もう京都会館は、そろそろくたびれたし、もういいんじゃないかと。ぶっ壊して3,000人のホールを造ったら、素晴らしいホールができるし、世界からまた人が来てくれる」というようなことを、バブル時期ならまだしもやっぱり言われる方がいらっしゃるんです。何かそういうのがすごくシャクで、僕は実は「京都会館」を見慣れていたものですから、前川國男のところに行きたいと思った人間だったので、もうこれはなんか楽しむしかないなと思って。そしたら、その「京都会館」の館の職員の方々が、そういうことを、すごくやっぱり建物自体を、建物の主として、ずっと親しみを持ってくださって、45周年、何かイベントをやりましょうよということになったんです。それで、去年の10月10日に、見学会とシンポジウムをやりました.学生たちが全部手伝ってくれて、今日、本当は持ってくればよかったんですが、『京都会館見どころマップ』というのを作って、建物の、この場所が見てほしい場所ですよ、というのを作成して、普段上がれない舞台とか、楽屋とか、実は「京都会館」で、今一番素晴らしいと思っているのが屋上なんです。屋上からは、東山の景観は全部、清水寺とかみんな見えて、ものすごく京都に建っている風景がよく見えるんですが、その屋上にも上げてもらって、見学会をやったんです。危機感もあったので、人が来ないとえらいことになると思っていたら、蓋を開けたら500人くらいの人が来てくれました。「京都会館」の屋上に500人近くの人が乗っている状態、というのは、なかなか壮観で、建物を楽しむというか、そんな感じでしたね。それはもちろん、そういう風に会館に対して愛着を持っている方が、中にいらっしゃるということが、すごく大事だったと思うんです。ー方で検討委員会やっているんだから、市の職員が、そういうことをやるのはいかがなものか、といって、館の方がちょっと引いてしまったりしたこともありました。でも、そういう形で協賛金を募ってくださったりして、何かやれることをみんながやってくださって、良い形で会ができたんですね。だから、例えば、集客率が落ちているから新しい建物を造ればいいという発想を、短絡的にされる方がいるんですけれども、じゃあ賑わいを取り戻すために、そういう仕掛けを、毎年、例えば屋上に上がると京都の送り火が、全部五山のうち、4つくらい見えるんですね。じゃあ、「五山の送り火を京都会館の屋上で見る会」を来年はやろうとか、そういう風に、常に、何か建築を使っていく楽しさみたいなものを、いろんなレベルで仕掛けて、例えば、中庭で何か映画鑑賞会やってもいいし、そういう風に考えた時に建物が変わって見えてくるんですね。たぶん、そういうことを前川國男は、どっか上の方で見ていて、僕たちが試されている感じがします。建物を見ている側が試されている感じが、すごくしていて、前川國男の建築だけじゃないと思うんですけれど、これからの建築なり、街を考える時には、そういうようなことが少しずつ楽しみ方として出てきて、みんながそれぞれ気がついてくれるような、そのことが今大事になってきているんだろうと僕は思うんです。野沢さんに、またオランダの話をお願いしてもいいですか。

 〈野 沢〉
 あの、そうですよね。要は一方で参加型、市民参加の社会とか、いわゆるパートナーシップとか、要は行政と市民が、先程、僕は極端に申し上げましたけれど、よく考えると行政と市民の協働というよりも、市というのは、市民のモノなわけですよね。行政のみなさんというのは、良い建築家を選んで、良い建物を造ってもらう時の建築家にあたる人って、その市民の、皆さんに日々のサービスを提供する人ですから、いろいろな専門家として、なるべく有能で上質のサービスを提供する係という感じなんだと思いますね。そうすると、市民の皆さんは、主人として、何ていうのかな、こういう風に、例えば、今のルールをこういう風に変えたいとか、こういう風に、今までこういう使い方はできない。例えば、5時になるとダメですとか、そういうことに対して、主人としてそうじゃないんじゃないか、ということを少しずつやっていけるチャンスと言いますか。協働社会というのは、たぶんそこから何か扉が開いていく。そうすると行政の方も、むしろ責任が全部、行政に押しつけられないという安心感みたいなものが出てくると、どうぞ皆さんの責任で、皆さんの使いたいように、ロビーの下でビール飲んでください、という風に、たぶん、なるんだろうなという風にぼんやり思うんですね。そういうことは、もうすでに、あちこちで実は始まっていて、その感じが何か、僕はすごく期待できるなというと変ですけれど、僕らにとっても気持ちがいいなという風に思っているんですね。今のオランダの話というのは、「アルヴァ・アアルト」というフィンランドの超有名建築家という感じでいまして、彼がドイツに造った建物を見に行ったんです。そうしたら、有名な40年ぐらい前の建物なんですけれど、いろんなところに看板が立っているんですねそれで小さな写真が付いていて、プランが、平面図なんかが付いていて、この部屋は何だって書いてあるんです。もう建物は日々使っている、こういう建物なんですけれど、こういう建物の入り口のところなんかに、こういう看板が立っていて、要は展示物扱いみたいな。建築を見に行った人は、建築を、つまりガイドがいるようにそれを読みながら、その建築が説明付きで見ることができる、みたいなことがあるんですね。もしも、ああいうことが、今度の展覧会を機会に弘前の8つの建物に用意されるようなことがあったり、あるいは、展覧会の会期中ホールが使われていない時には、ホールがちゃんと見に来た外来者、あるいは、市民の方に説明付きで覗くことが可能なような状況がつくれたら、それは主人である、所有者である市民の皆さんにとっても再確認することになるし、それからよそから来た、例えば展覧会を契機に、ここの建物を見に来た外来の人々に対しても、大変丁寧なサービスになるという風に思うんですね。そういうことが少しずつ、何か次の思いつきを探すというか、次の思いつきのヒントを与えてくれるみたいな格好になってくるんじゃないかなという風に思います。あるいは今の、例えば前川さんが設計した建物でも、どこかに、例えば運営上問題があるとか、あるいは性能上問題があることは、当然あると思うんですね。それは古い建物、特に古ければ古いほど、その当時、片づけられる宿題が小さかったわけですから、それについてももっとしょうがないな、しょうがないな、とずっと言い続けて、そのままにしておくよりは、やっぱりそれは今の技術で、先程、松隈さんがおっしゃられましたけれど、今の技術でどう解決できるのか。そうだったら大きな建物を一つ新たに造るよりは、それを「快適なものに少し直していこうよ」みたいな行為を「ロイヤルフェスティバルホール」ほどではなくても、手を入れていく、変えていく、それもなるべく公開で。それからたくさんの知恵を使って。そういうことができれば、どんどん、どんどん今のストックが、もっと活き活きしてくる環境というのは、特にこの街では、何かすごく想像できるというか。そういう気がして、基本的にはすごくうらやましいと思いながら、東京の郊外のスクロール地帯に住んでいる者としては、本当にうらやましいと思いながら今いるわけです。

〈松 限〉
 先ほど「京都会館」のお話をしたんですけれど、京都というのは、結局、神社と仏閣さえ残れば、あとの建物はなくなってもいい、みたいなところが、ちょっと観光都市としてあるんですよ。ですから、町家が、どんどん無くなっている現象に歯止めを、行政としてかけられていない。ようやく、最近気がついて、特別な法律を作って、木造の建築が生き残れるシステムを作って、考え始めたみたいです。条例でもっと厳しく規制を戻そうという気が、ようやく出てきているんですね。ですから、例えば、戦前の建物、洋式的な建築物は、あきらかに今の時代と違う価値を持っているという風に、みんながわかりやすいものですから、守ろうという動きが出てきているんです。でも、「京都会館」みたいに、戦後の建物が、そういう対象として見ることからは、まだ距離がありまして、先ほどの暴論が出てくるような状況なんですね。もしかすると、それはなんかうれしかったんですけれど「京都会館」の館長さんが、「いや京都こそ、京都会館をそういう神社、仏閣と繋げる文化財として発信できるじゃないか。そういう風にして見られるような形で丁寧に直していったらいいんじゃないか」ということを、館長さん自身が、館長さんがたまたま、その前に二条城にいたというせいもあるのかもしれないけれど、でもやっぱりそれを、館長さんにそう思わせるものが、もしかして、前川國男の名前なんか、館長さん知らなかったと思うんですが、前川國男の建築の中に入っている。それは弘前が、前川國男を育てたように、京都の街が、前川にとってみれば、空襲を受けなかった、千年を越える伝統を持っている街に対して、コンクリートとか、鉄とか、ガラスという実は、非常に何ていうんですかね。時間に対しては、そんなにうまく対応できないかもしれないという脆弱な部分を持っている建築の造り方で、伝統や街や自然を破壊しないような建築を、どうしたら造れるんだろうと、ある意味途方に暮れた・‥.その中で、「京都会館」が出てきて、そこではじめて外壁にタイルを使い出すんです。何か、そういう前川國男がもっている建築のタイムスパンの長さと、あともう一つ、前川國男のことで『住宅建築』にも書いたんですけれど、うれしかったことがあって、展覧会の準備をする前の話なんですが、京都の「国際日本文化研究センター」というところで、モダニズムの研究会で、たまたま僕が前川國男のことを話す機会があったんです。前川國男のことをしゃべるということを聞きつけて、コロンビア大学のご高齢の先生が聴きに来てくださった。後で声をかけてこられて、彼が昔、日本で研究するために滞在していたのが、麻布の「国際文化会館」で、調べものに通っていたのが「国立国会図書館」、音楽を聞きに行っていたのが「東京文化会館」だったそうです。前川國男の名前を知らなかったけれど、自分が日本で滞在して、心地よい経験をした場所が全部、前川國男の建築だと知って、ものすごく感銘を受けて、前川國男のことが聴けるということで来たんだ、と声をかけてくださったんですね。それから、一昨年になってしまいましたけれど、「ドコモモ」の世界大会が、ニューヨークのコロンビア大学でありまして、前川國男のことをしゃべった時に、アメリカの古い建築雑誌で『PA(プログレッシプ・アーキテクチャー)』という雑誌があったんですが、その編集者が近寄って来て、1965年、ニューヨークの世界博という博覧会があって、そこで「日本館」を、前川國男が造ったんですけれども、「あの建物は、日本の石垣のデザインと鉄骨の吊り構造という最新の技術を組み合わせたデザインが素晴らしい建物だった。一部がどうも移築されたと聞いたんだけれど、おまえ知っているか」と言って話しかけて来たんです。だから、前川國男の建築が持っているポテンシャルというか、それが国を超えていろんな人が、どこかで経験している。実は、東京ステーションギャラリーで展覧会を始める時に、ステーションギャラリーの館長さんは、東京駅の駅長さんなんですね。内覧会の前に、駅長さんにちょっとだけ説明してくれっていって、お話して会場をご案内したんですけれど、前川國男も知らないだろうなと思って話していたら、前川國男の後期の作品ですけれど、「埼玉会館」という建物があるんですが、そこに来た時に「埼玉会館が前川さんなんだ」と言って、「僕はこの近くに住んでいて、よく見ていて知っているよ」と、そこで急に話がつながりました。幸せなことに、前川さんの建築というのは、やっぱり公共建築が多いですし、どこかでみんなが目にしている。どこかで気になっている。そういう建築が多いですね。そうやって一つひとつ、みんなどこかで気になっている建築が、これほど50年にわたって、時代時代のものが全部揃っているのは、弘前だけですし、弘前のずっと長い歴史の中で、前川國男が一つの、また一つの、この弘前自身から発信できるすごく良い」誇りのものだっていう印象が、来る
度に、僕の確信に近くなってきているんです。

(野 沢〉
 たぶん、東京展が終わってホっとしている実行委員長ですけども…。たぶん何でも弘前展の準備もまた、かってでると思いますので、皆さんで知恵をつけて差し上げて、酷使して頂くのがいいんじゃないかと。上手な展覧会ができた頃に、また私は、桜を見ながら、もう一度現れたいという風に思っています。本当に実物をツアーしながら、徒歩圏で見て、それについて模型なり、図面なりで、もう一度確認ができるというすごく立体的な建築展というのは、建築の展覧会としては、本当に理想的だと思うんですね。たぶん日本でそれができるとしたら、初めてのことになると思いますし、この展覧会の企画と運営そのものが、大変な手柄になるという気が…。「何かしなさい」と言っているみたいで申し訳ないですけれども。本当にそうなると思いますし、ひょっとすると、年末に朝日新聞社の今年の美術展ベスト3というアンケートで、堂々第1位にノミネートされる可能性だってなくはないと思うんですね。そんな気がします。前川展」のプレイペントみたいな感じになってしまって、景観フォーラムでなくなりそうですけれども。是非そんな展覧会になることを期待しています。松隈さん、頑張ってください。


(松 隈)
 景観フォーラムと離れた、というお話があったんですけれど、そうではないと思っていて、最後に少しそのお話をして、おしまいにします。前川さんの建築って、人に手を差し出している建築だと思うんです。今の建築って、ありがちな建築というのは、建物を閉じてしまって、用のない人が来られなかったり、そこの中に来た人だけが、利益を享受するような建築が多いんですが、前川さんの最終的に求めたことは、都市の中に用もないのに佇んだり、そこで何かをしてもいいよ、という場所を丁寧に造り込んでいく。その時にどういう素材と、どういう佇まいと、どういうスケールで建ち、開いたらいいかということを、一生懸命考えた建築家だと思うんです。だから、それは写真になかなか写りにくい。撮り下ろしをして下さった写真家の吉村行雄さんが、すごく苦労されていたんですけれども、たぶんそこに行って、佇んで、使って、初めてしみじみと良さがわかってくような建築だし、もしかすると、前川國男の建築を見ることによって、都市とか、景観という言葉が違った響きで見えて来たり、みんなが、前川國男の目を持つことによって、あるいは、前川國男が造ろうとしたことに眼差しを重ねることによって、まちづくりが変わってきてほしいというか、変わるんじゃないという風に、僕は思っているんです。学生さんたちが造った模型を、ずっと見ていっても、いかに手を広げて、誰でもおいでよ、という建築を造っていることがわかります。大きな庇が人を招き寄せたり、小さな広場があったり、建物の中にも休める場所があったり、そういう仕掛けを、実は前川さんは楽しんで仕掛けていて、気がついてくれよ、という感じで見ている気が、僕にはしているんですね。だから、たまたま今年、生誕100年ですし、展覧会もありますけれども、それ以上に、弘前という場所で、この景観フォーラムもそうですけれど、「前川國男展」を通して、弘前のまちづくりが、前川國男という一つの大きな財産を味方につけることによって、全国のまちづくりの新しい一つの先駆け、近代建築を味方につけたまちづくりというのは、たぶん、まだ全然、どこの町でもやっていないんじゃないかと思うんです。倉敷とか、もう少し古い時代のものはありますが、近代建築、モダニズムの建築が、まちづくりの一つの大きな要素になっていける街というのはなかなかない。だから、それが弘前から始まれば素晴らしいことだと思います。僕はちょっと疲れているので、どこまでお役立てるかわからないんですけれども、まだ使える(笑)と思うので、是非、協力させていただければ、私にとってありがたいですね。よろしくお願いします。何となく、キャッチボールになりにくいお話でしたけれども、一応、対談の形をこれで終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

(司 会)  、
 どうもありがとうございました。松隈さまからは、詳細な前川建築というものの見方、それから考えた方ですね、そういったお話を伺いました。ちょっと、また親近感がわいてきたような感じもしないでもない。また対談の方からは、逆に私たちに宿題を与えられたという感じがいたします。これから前川建築を、どうやって活かしていくのか、といったことをみんなで一緒に考えていければという風に感じております。さて、せっかくの機会でございますので、ご質疑、ご質問ございましたら、一つお願いしたいと思います。前川建築のこういったところが、気になっているとか、そういったところで結構ですので、何かございませんか?

 はい。ないようですので、皆さん満足だ、ということで理解させていただきたいと思います。それでは、本日の講師のお二方に、もう一度、盛大なる拍手をお願いいたします。
 それでは、最後になりましたけれども、今、松隈さまからもお話がございました。皆様のお手元にもですね、現在行われている東京ステーションギャラリーの生誕100年、前川國男建築展のチラシを配布してございます。この展覧会は、先程からも何回もお話しありました。この春の弘前市立博物館の企画展の中で、開催する予定となっておりますので、またご案内いたします。多数ご覧いただきたいと思います。
 それから、もうひとつでございます。皆さまに今日、お手元に配布している資料、アーハウス=『Ahaus』という青森の方の雑誌からとらせていただきました。ご協力をいただきましてありがとうございました。このアーハウスの創刊号の中で、2005年の1月に出たも
のでございますけども、こちらの方で「前川國男と弘前」を特集してございます。こちらの方をご覧になって、また知識の方を深めていただければと思います.
 それでは、どうも長時間ありがとうございました。また、来年お会いしたいと思います。本日はどうもありがとうございました。

第1部:基調講演
「ロンドンの公共建築から見るまちづくりの方法、そして、東京都立川市の市庁舎計画の提案をめぐって」
 野沢正光(建築家・野沢正光建築工房主宰)
(司 会)
 それでは、第1部に入りたいと思います。基調講演ということで、野沢さまをお願いいたしております。まず野沢さまのご紹介を申し上げたいと思います。
 野沢さまは、1969年、東京芸術大学美術学部建築学科をご卒業され前川國男氏の下で建築を学ばれた大高正人氏の建築設計事務所を経て、1974年に野沢正光建築工房を設立されております。現在、日本建築家協会環境部会部会長をはじめ、各種委員や母校の東京芸術大学建築学科などの講師をなされており、主な作品としては、阿品土谷病院、いわむらかずお絵本の丘美術館などがあります。これらは建築の各賞を受賞されておりまして、自然エネルギーを利用した様々な環境デザイン手法を取り入れて、環境に配慮した建築物を数多く設計されておられます.
 今日の第1部の基調講演でございますが、「ロンドンの公共建築からみるまちづくりの方法」と題しまして、ご講演をいただきます。ロンドンの公共建築と、それに関わるまちづくりの事例をご紹介いただくとともに、現在、野沢さまが関わっておられる東京都立川市の市民参画型による市庁舎建設計画についてお話しいただくことにしております。
 それでは野沢さま、よろしくお願い申し上げます。

(野 沢)
 ただいま、ご紹介いただきました野沢でございます。どうぞよろしくお願いします。
 昨日ですね、弘前に初めてお邪魔させていただいて、弘前のたくさんの前川先生の設計された建物を見せていただきました。それで昨日は、主に前川先生の設計された建物を、スタッフであった松隈先生と一緒に見せていただき、今日は、それ以前の疑洋風と我々言いますけれども、大工さんが外国人の宣教師やら建築家に従って建てた教会。あるいはフランク・ロイド・ライトによく似た建物やら、それ以前に建てられたいくつもの新進の、稀少に満ちた建築物も見せていただきました。もちろんその中で、それ以前の長い弘前の歴史が造り出した景観やら建築物も結果としてたくさん見ているということになると思います。前川國男さんの建物が、こんなに一箇所にたくさんあって、そのどれもが非常に高い水準の建築作品であって、使いやすくて、よく考えられた建築物であって、今も元気に皆さんに使われていて、しかも非常に品質良く維持管理されているというのを見ながら、たいへん心持ちのよい時間を過ごしたと思っています。その建物の主人公である、所有者である皆さんの建物に対する自然な愛着、いちいち大したものだと思っていらっしゃらないかと思いますけれども、一つひとつの建物をささやかに大事に使ってらっしゃるという感じがとても印象的でした。
 建築家といいますか、設計を仕事にしていますと、やはり最大の楽しみは、人の造った建築を見ることなんですね。音楽家と建築家は、大分、仕事が違いますけれど、多分、音楽家もいい音楽家は、たくさんの曲を聴いていると思います。それから、聴くことが楽しみな作曲家なり音楽家は、いい演奏家だったり、全員がそうかどうかはわかりませんが、いい作曲家だったりする一つの条件かもしれないと思います。つまり、もっと砕けて言えばおいしい料理を作れる料理人は、おいしい料理をたくさん食べている人なんじゃないかなという風にも思います。今回は、前川囲男という料理人が、どのくらいでしょうか、20年間か、30年間、もっと長いでしょうか?初期の「木村産業研究所」からずっと弘前を舞台に造り続けたお料理を、それがどんな味にどんな風に変化してきたのかということを見せて頂いたような気がして、前川建築博物館みたいな、専門家としてはですけれども、そういう楽しみを味わせて頂きました。さっき申し上げましたように、これができたのは、そういう弘前でこういうことが、起きたということはとても稀なことですし、その稀なことには、たぶんその前にチラっと教えて頂いたのですが、外国人の宣教師の方々が、いっぱいこの街にいらしたこと、その方々が、学校の先生をされたりしながら、その外国からの新種の、何て言いますか、いろいろなものをいろいろに取り込む、ここの街の持っていた一種のポテンシャルと言いますか、底力みたいなものが、前川建築博物館のような街に繋がっているんだろうなというところまで教えて頂きました。先程、僕のことを紹介してくださった中に、大高正人さんという名前が出てきました。大高正人さんというのは前川先生の事務所に勤め、「神奈川県立音楽堂」、「岡山県庁舎」や「東京文化会館」などという建築物を主に担当した大変上手な、自分のボスでした人ですから‥・。何て言っていいのかわかりませんが、大変、有能な建築家だった。だった、と言えば怒られますが、まだ元気です。大高さんからいろんなことを教わりましたし、大高さんは、前川さんからいろんなことを教わったんでしょうし、前川さんは、コルピュジエや、レーモンドさんという建築家からいろんなことを教わったんだと思います。そういう「教わる」ということは、一つは手を取って教えてもらうということがありますけれど、もう一つは見て覚える、あるいは真似をして覚えるということもあると思います。特に前川さんの建物というのは、僕らが学生で、上野の芸大だったものですから、上野の文化会館の横を通って、西洋美術館との間を抜けて学校まで通っていました。18歳、19歳の時には、もうすでにそこに、あの大きな文化会館がありました。それを横目に見ながら、ずっと建築の勉強をしてきたという経緯もありますので、前川さんのことというのはとても僕にとっても懐かしいです。大高さんの事務所にいったというのも、一つは前川さんのところは入社試験が難しそうで
したから、弟子のところにしてみようとかと思ったような気もしないでもありません。そのぐらい時代に前川國男さんの仕事というのは大きな影響を与えたんだと思います。僕の芸大の時の先生も、大学卒業の時に、前川事務所に行こうと思っていたと言っていた方が、いらっしゃいました。そういう意味で日本の建築に、戦前から戦後にかけて、特に戦後の建築にものすごく大きな足跡を残された前川さん。その前川さんの建築について、建築家、あるいは建築に関わっていらっしゃる方には、もう重々その辺は釈迦に説法ですけれども、市民の皆さんにも少しでも、どこがおもしろいのか、どこが素敵なのか、あるいは今の建築というのはどんな風に考えたら、あるいはどこが考えられている、というところを探しておもしろいと思うことが、前川國男さんの建築なり、我々が造っている建築なりをおもしろいと思って頂くことに繋がるのかという辺りですね、できるだけ機会をつくりながら、つまりどこのどういう食べ方をしたら、この料理はおいしいのかということになるかと思うんですけれども、なるべくわかって頂くような努力を今後も続けていきたいという風に思っているのです。
 先程、立川のことがちょっと、このタイトルにも書いてありますが、私は東京都立川市の市庁舎のコンペというのに、ついこの間コンペの最終審査に選ばれました。その資料が『新建築』の1月号に書いた記事が、このコピーの中にありますので、今じゃなくていいのですが、見て頂ければと思います。立川のコンペというのは、立川市が、新しい市庁舎を造らなければならなくなったところで公開の設計競技を行いまして、その設計競技の中
で、建築家を一人選んだということなんですけれども、このプロセスが、今までのプロセスとは違っていたんですね。市民の方が、100人委員会という委員会を2、3年前に作りまして、どういう形の市庁舎を造ったらいいかという設計条件みたいなものを、行政の方が作るのではなくて、市民の方が作ったんですね。その設計条件を前提にコンペが行われ、コンペの第一次審査というので、3人が選ばれた後に、市民の方々のグループが対象になるワークショップを、3人の建築家が、各々に開いて、ワークショップによって出た市民の方の意向を反映するかたちで、第二次案を作るみたいな、非常に手間の掛かったコンペだったわけです。そのコンペを経験しながら、先程の話に繋げますと、今まで前川先生の時代の公共建築なり、建築の造り方というのはどちらかというと、当然ながら、市民である我々の問題でもあったと思うんです。それ程市民が、立川のようには参加するという状況ではなかったと思うんですね。今になってくると市民の方々がいろんな形で一つひとつの公共建築を造るところ、場合によっては維持していくところ、そういうところに登場してきて、積極的に自分が当事者として、自分が主役として責任を持って話をしていく、あるいは関わっていくみたいなことが、始まっているんだなという感じが、立川のコンペの中でしていました。
 コンペそのものは、これから実際の計画の段階に入りますものですから、今後どうなるか、いろいろな難しい問題やら、ややこしい問題やら、あるいは楽しい問題やらをはらんでいるままで、まだ入り口に辿り着いたばかりですから、何とも言えないんですけれども…。立川はそんな具合に動いています。ということを一つの事例にしながら、建築なり、今回のこのフォーラムのテーマである環境、あるいは景観なりは、誰によってどうやって維持されているのかということが、とても大事になってくる。これからはますますそれが、当事者である市なり、自治体の一番の当事者である、市民の皆さんの双肩にかかっていると言いますか、皆さんの参加と言いますか、皆さんの当事者としての力量に、かかってくるんではないかな、という気がとてもします。そこはとても実はおもしろいところなんじゃないかなという気が僕はしています。
 立川は、僕の半分、地元みたいな高校時代を過ごしたところですので、僕にとっての地域社会みたいなところでもあるんです。地域社会で、その地域社会のことを一番良く知っていらっしゃる方々が、例えば、外からの地域社会の見方などを鏡のように使いながら、そこの地域が持っている底力なり、宝なりを再発見する。あるいは、それがあることをおもしろいと非常に客観的にもう一度思う。みたいなところから景観なり、環境なり、あるいは、それの一つの要素である建築なりは、少しずつ良くなっていくんじゃないかと。人がどう見るか、ということを怯えながらではなくて、人にどう見えているか、ということをちょっと自分の髪の毛を直すように考えてみること。それが少しずつ街なり、建築なり、そこに建っている他人の建築に対して興味を持つこと、そういうことが、とても大事になってくるのではないかということを、立川の流れの中でも思っています。僕自身は、建築の設計を始めて、数十年経つわけですが、数十年経ちながら、やっぱり、ある時期の自分で設計した建築に、いくつもの出来の悪いところ、先程の料理で言えば、味の悪いところを後で発見したりします。それはいつでも誰でも、だいたいそうなんじゃないかと半分居直り気分で思うんですけれども、30年前に常識だったことが、30年後には、とてもそれは問題の多いことだよという風に思ってしまう。あるいは、そういうことになってしまうというのは、たくさんあるかと思います。建築も今、供給されている建築というのと、30年前に建築に課せられた要求というのは、違いがたくさんあったと思うんですね。その中で、市民の皆さんが、それは建築家を含めてですけれども、自分のこととして、あるいは自分の興味のあるおもしろい対象として街のこと、景観のこと、それから建築のことに関わって頂くこと、造ることばかりではなくて、〈立川の場合、今造る段階ですけれど)、造る段階から、運営する段階にも踏み込んで頂くことというのが、実際にとても大事になっているんだろうなと思いますし、このことはとてもおもしろいことなのかもしれないという風に思っているんです。先程申し上げましたように、話が散漫ですが、僕は建築を見ることが、下手すると造ることよりも好きという感じがしないでもありません。これは、人の造った建築物が、先程申し上げたように、どんな風なつもりでどんな風に、その時代、何を考えたのか、誰がどんな風に関わったのか、いろんなことが、そこからわかると言いますか、想像されるということがあるからです。先程、お話にあった、タイトルにあります「ロンドン」というのは、たった一つの建築についての話なんですけれども、つくづく感心しながら、僕たちもきっと近々こうなるだろう、こういう社会、ロンドンの全部が良いわけじゃないので、良いところを見ている、隣の花は美しいみたいな話ですから、それだけのことではあるんですけれども、ちょっと絵を見ながら、お話をこの後は続けたいと思います。ちょっとお願いします。
 これは、前川國男さんの「神奈川県立音楽堂(写真1)」という建築物です。1954年だったと思うんですけれども、戦後すぐ、東京、横浜という一番ひどい戦災を受けたエリアの話ですから、焼け野原の戦後、まだ5、6年というところで、内山さんという神奈川県の知事が、疲弊した状況の中で、文化的な施設こそ大事だという風に考えられて、鎌倉の「近代美術館」これは坂倉準三さんという建築家ですけれども、それと「神奈川県立図書館と音楽堂」という建物を建てることを決意されます。周りは想像すると、たぶんバラックが建っているだけという非常になんと言いますか、それこそ文化も何も、おいしいカレーの話も何もない時だと思います。その時に、この建物が建てられるわけです。この建物は、そういう意味では、前川さんのごく初期の代表的な音楽堂であって、その建物が、弘前の「市民会館」にも繋がって、ここでのたくさんの勉強と言いますか経験が、あの素敵な弘前の本当に良い建物、弘前の「市民会館」に繋がっていると思います。上野の文化会館にも当然、繋がっている建物です。
 十数年前、十年ちょっと前ですかね、バブルの後半に、この建物はあまりにもみすぼらしいから壊そうという話が出まして、少しこの建物に愛着のある方々の運動やら、あるいは経済的にバブルが弾けて、新しい大きな投資が難しいということもあって、現在も健全に使われていますけれど、そういう意味では50年以上経って、しっかりと今も使われている建物です。前川さんの傑作の一つだという風に僕は思っています.
 これがどこかの建物と似ているという気がしますが、入り口の下のモダンな建物、我々の現代の建物の典型ですけれども、余計なものがなく、ホールの下のスペースが、そのままの形でロビーになっているという空間を見せているところの写真(写真2)です。こういう形で最小限の材料で最大限の品質と言いますか、クオリティを造っていこうというのがモダニズムの考え方、近代建築の考え方なんです。よく考えると、今の少ない資源で最大の品質を得ようとする持続可能な社会みたいな言い方がございますけれども、それもここら辺のところに、一つの考え方の根拠みたいなものが、あるんじゃないかなと僕は思っているんです。たくさんの余計なものをくっつけていくということは、やっぱり資源の無駄遣いだったり、あるいは環境への悪い働きかけだったりするかもしれないわけです。モダニズムは、だからそういう意味では、非常に清貧と言いますか、潔い建築であったのかもしれません.それが、ある問題をこの当時は、まだはらんでいるというのは、なくはないわけです。
 ここからロンドンなんですが、大高正人さん、さっき名前が出た僕の師匠にあたる人ですが、大高正人さんが、神奈川の音楽堂の仕事に関わってらっしゃいます。大高正人さんは、初めてやる音楽堂をどうやってやろうかという風に悩んだ時に、実は印刷物として公開されていた、ロンドンの「ロイヤルフェスティバルホール」の音響の計算の方法とか、「ロイヤルフェスティバルホール」について報告された、たくさんの公開された情報、資料ですね。それを製図板の横に置きながら、それを一生懸命読みながら造ったんだよ、と言っていました.その「ロイヤルフェスティバルホール」という建物がこれ(写真3)です。ロンドンの川の横にこうやって建っています。これは、僕自身が撮ったスライドです。「ロイヤルフェスティバルホール」というのは、実は個人の建築家が設計した、建築家の名前はわかっているんですが、僕自身が忘れているんです。実はロンドンの、いわゆる市の営繕が設計した建物と考えていいと思います。たくさんの建築家なり、技術者、エンジニアがそのチームに参加しています。たぶん臨時に、そのチームのために人を集めて、建築家を集めて、エンジニアを集めて、チームを作って、造ったんだと思います。この建物は、そういう経緯を含めて、構造のこととか、音響のこととか、計画のこととか、当時、建物の進行と同時に情報になって出ていきました。つまり、公開的に造られ公開的に情報が提供されたわけです。出来た建物がこれです。この建物が、今行って見ますと次のような状況になっています。
 これ(写真4)は、先程の「神奈川県立音楽堂」の縁の下にあたるところと同じようなところです。つまり、これは「ホワイエ」って言ったりしているんだと思うんですが、入場券を買って入る場所ではありません。無料の場所です。無料の場所と言いますか、縁の下ですから、通常でいったら、誰も居ないガランとしたところです。しかし、ここではこんな具合に毎晩なっています。上で音楽会をやっている時は、たぶんやっていないと思うんですが、ちゃんと何回も通ったわけではないので、半分くらいはあてにならない情報ですけれども、週末とか、夕方に行くと人がいっぱい集まって、暖かいです。バーがあり、バーと言っても、売店があります。売店でビールや、何やら売っています。横にはCDショップがあったり、本屋があったりします。そこに何時間居ても、無料なんですね。要は音楽堂が、ファンがこの建物についてもらうために、無料のコンサートを、ずっとやり続けているんです。ジャズコンサートが、主だと思うんですけれど、要は私が、ここでやってみたいという人に、オーディションのようなことをやりながら、左の端にチラっと見えていますけれども、ずっと長時間にわたって、音楽をやり続けてくれています。電気が点いて暖かいです。別にバーのビールを買って飲まなくても、暇であればここに座ったまま、ずっと半日でも、半日かどうかわかりませんが、長時間居ても全く自由だと。そういう運営をしています。そういう場所っていうのは考えてみると、人が寄り集まって快適に自分の都合で、つまり喫茶店なら、必ずお茶を買わなくてはいけないわけですが、そうではなくて、何時まで居たって構いませんという場所を公共空間の中に持っているわけです。これはたぶん、これから僕たちが、欲しい場所だと僕は思うんですね。無料の場所。無料でずっと居られる場所。これが本当は公共空間なんじゃないかなという風に思いました。こうやってここに座っている人を見ますと、ちょっと高齢の夫婦が、ただずっと1杯のビールを飲みながら、世間話をゆっくりするともなく、しながら二人で座っているとか、もうそろそろ、こんなことを言うと怒られますけれど、結婚したらいいのにと思うような女の方が、ずっと側のサンドウィッチのようなものを買って食べながら、快適にビールを飲みながら読書していたり、そういう人たちを見た記憶があります。こういう場所を、実は運営しているのは、この「ロイヤルフェスティバルホール」を運営しているアソシエーションなんです。要は直接の行政ではないんですね。市民が作った、ここを運営する一種の、もちろん儲けているわけですが、つまり給料もとっているわけですし、スタッフでもいるわけですけれども、みんなで作った一種の「ロイヤルフエスティバルホール」を運営するアソシエーション。協会、組織みたいなものが、これも公開的に、たぶん経理等を、情報を公開しながら運営されているんだと思うんです。つまり、株主に配当しているわけでもないし、全く税金を投入してやっているわけでもない.もう一つの公共の在り方みたいな、公開された公共の在り方みたいなものが、ここにはあるんじゃないかなと思います。つまり、一生懸命市民にサービスすることによって、その組織が、経済的にもある程度儲かる、というような仕組みができているのかなという風に思います。
 これは、奥でジャズを吹いているのがわかります。先程の「神奈川県立音楽堂」と同じように、天井の上が段になっているのは、上がホールだからですね。ここにいる、こんなに大勢いますけれど、これはレストランでも何でもなくて、要はみんな無料でいるという、そういう場所だということ。こういう場所がいくつかあるんだということを、いいなと思ったわけです。
 今の「ロイヤルフェスティバルホール」というのは、先程、申し上げましたように「神奈川県立音楽堂」が出来る、1952年の2年くらい前に竣工したんだと思います。つまり、情報が出て、すぐにその情報を大高さんやら、前川さんは必死で読み解きながら音楽堂を造ったということになるわけです。これは、とある本からとったコピーですけれども、「ロイヤルフェスティバルホール」も戦後5年ぐらいに竣工していますから、出来た途端の写真は、今と違うんですね。これはどうも、ちゃんと読んでいないんですけれど、お金がないので、このファサードは一種のプレートのようなもので、とりあえず第一次、1950年の姿はこんな格好だったようです。つまり、建てた時から、出来上がった建物として造ってないんじゃないかという気がします。つまり、造らなきゃならないところは造るけど、お金のないところは、一応仮に造っておこうね、みたいな建物っていうのは、いつ完成するのかな、いつ竣工するのかな、という話にもっていきたい話として、コピーをとったんです。出来た時は、こんな顔でした。これは、裏側なんですけれど、川の側じゃない反対側なんです。
 これが川の側です。竣工した時の、西側の川に面したフアサード。こちらも、こんな格好で出来上がっています。
 これは同じ本からとった最近の写真です。前にデッキがついたり、いろいろな格好で、この建物を巡る、周りの環境も変わっています。それにあわせて建物は大きく、1960年ぐらいに20年経たずに、大改修がされています。つまり、50年代に竣工した建物を、そのまま使っているとも言えるんですけれども、大事なところはそのまま使いながらお金がなくて出来なかったところを直し、それから、その後で気がついたことを大きく変更しています。
 これはその本に載っていた、ちょっと素敵な女の人がお茶を飲んでいる写真で、本当はもっといい写真なんです。要は当時から、この建物はたぶんクライアント、クライアントと言いますか、ここで楽しむ人たちに対して、非常に丁寧な設計をしているんだろうなという風に思いました。十分な要求される楽しみをここで十分、ここを使う方々に味わってもらおうというその雰囲気は、この照明器具(写真)一つからいろいろ出ている。お洒落をしてきている女の人にも出ている、と思ったものですから入れたんです。ちょっとはっきり写っていないので、本当はやめておいたほうが良かったかもしれません。
 

これが、64年頃、2年間くらい、たぶん閉鎖して大改修をやっているプランです。ビフォーアフターなんて僕はやめろと言ったんですけれど・‥、書いてあります。要は40年、35年くらい前の大改修のこれは、グランドフロアーと言いますか、一番下のレベルの改修です。細かいことは、どうでもいいんですけれども・‥.例えば下の方とか、それから上の方に大きなプランの変更、これは中のプランも大幅に変更しています。たった十数年
で建物の要求を見直して、大きな変更をして使い続けることに対応しているということです。
 これはちょっと図面が、小さくなっていますけれど、あきらかに真ん中、ちょっと見にくいかもしれませんが、階段のあるところなんかを同じだと思って見ていただくと、随分と下側に大きく出っ張っていることとか、上側にも随分、大きく変形しているということがわかると思います。
 これも、例えば水廻りだとか、スタッフの部分だとかが、大きく変更されています。こういう格好で、その時にあわせて建物というのが、例えばある時期に、先程、申し上げましたように、その時代には、仕様がなかった技術的な問題、解決の限界みたいなものを、もう一度見直すとか、あるいは使い勝手の上で、あるいは予算の上で、ここまでしか出来なかったものを、ある時期にきちんと見直して、1年とか2年とか、閉鎖して、この建物
をもう一度その状況にあわせたものに切り替えていく。つまり、何て言うんですか。増築したり、改築したりすること、日本の木造建築のように、実はここの公共建築というのは結構しているんだなという気が僕はしたわけです。
 それで、これが読めるといいんですけれども「ロイヤルフェスティバルホール」の50年の誕生日の、これからどういう風に、この先、どうするかという市民に向けたパンフレットの表紙です。つまりここには、なんつまり、みんなて書いてあるか。“People's Place”のお城を21世紀に使っていくために、もう1回リニューアルしますというパンフレットです。これは、「50年たったんでしっかりやりまっせ!」というパンフレットの表紙です。後ろにミレニアムの大きな観覧車があったりするのが今だという、2000年ですということを表しているんです。
 これがそのパンフレットを拡げたところです。これは一番初期に博覧会を上でやっている時に「ロイヤルフェスティバルホール」が出来た写真、それから今度どうするかという写真です。模型の写真です。大きくは、この建物は驚くほどに、今度は、いわゆる鉄道線路との間にサポートする施設を大幅に増築したり、座席のイスを全部取り替えたり、大変な手間を掛けて、また、数年掛かりでこの建物は生まれ変わって、これからあとの50年
に対応します、ということなんですね。その説明が、永遠としてあるパンフレット。これが、先程のみんなが集まる縁の下のロビーのホワイエのところに置いてあるわけです。この横には、新しいイスも置いてありました。今度あなたたちが座る、「みなさんに座っていただくホールのイスは、これでございます」というのが置いてあって、「試しに座ってみてください」数年先の話なんですが、もうそんなこともしてありました。
 これが、その記念にBBC、イギリスの放送局が出したCDですね。あのファサードのところが、実は2つの写真が合成されていまして、出来た途端のファサードと、その後のファサードが合成されて50年の時間を表しています。そして50年間にどんなコンサートがあったかのダイジェストが、CDの中に入っています。これをみんなに売るわけですね。それからこっちの小さいパンフレットですね。これはここに“Donation’s Form”と書いてありますけれど、これがくせ者です。要はですね、「こういうことをやります。みなさん今後も楽しみにしてください。縁の下のコンサートは無料で、今後もずっとやります。無料で居てもずっと暖かいでっせ。とても素敵な音楽会をずっとやっていきます。お金ください」そういうものなんですね。「よしわかった。時々行っているし、バーで長時間、とぐろ巻いているし、まあそう言うんなら」という人を狙ってですね。つまり、お金を払ってください、というところまで含めて参加型なんですね。「よしわかった.じゃあ何万円出してやろうか」という人は、「俺、あのロイヤルフェスティバルホール、“People's Place”は、俺のものだ!」と一部思うかもしれませんですよね。こういう格好でお金を払うということを含めて、あるいは、ここでアソシエーションのメンバーになってこの運営に参加しようということも含めて、この「ロイヤルフェスティバルホール」は市民のものになって、市民によって運営されて、そこで起きている経済的なやりとり等は市民に向かって公開されている。これからどういう形でこの建物が改修されるかも、詳細なこういうパンフレットなり、何なりが用意されていて、市民がそれを知る。あるいは、市民が直接それに参画する。金を払う。そういう仕組みを非常に、何て言いますか、手厚く用意しているということを、僕は、この仕組みが快適だなと思ったわけです.
 今の“Donation's Form”にくっついている、後ろの方についている、一番裏の赤いページについているところです。ここで公開されている、この情報にもちょっとびっくりして頂きたい。建築って姉歯問題なんかもありますから、最近は構造家というのがいるんだということはお分かりかと思います。今度の改修に参加する主な責任者、エンジニアたちのスタッフはこういう人です。というところまであの小さなパンフレットに書いてあります。“Architects”は、こういう名前の人ですね。“Auditorium Acoustics”が、こういうところです。それから“Theatre Consultants”は、この人たちです。“Quantity Surveyors”品質の、何て言うんですかね。調査、検査する人たちはこういう組織です。それから“Services Engineers”主に設備系ですね。暖房とか冷房とか空調とか。他にもあると思いますが、トイレの水とか。それはこういうところです。“StructuralEngineers”これは姉歯さんみたいな人ですね。これは、こういうところです。“Fire Engineers”この辺がすごいですね。“Arup Fire”と書いてありますけれど、僕たち建築家の中では、世界で一番有名なコンサルタント会社です。あらゆる、この2行目から下は全部できる総合コンサルタント事務所が、‘Arup”という人のつくりあげた組織なんですけれども、そこは火災についての技術的なコンサルタントとしてだけ入っていますね。それからその下に、まだ2つもマネージャーとコンサルタントがいます。建築というのは、これだけ、少なくとも、今度の改修工事に伴って、主に登場するチームの構成メンバーだけでもこれだけいます。ということがあの小さなパンフレットに書いてあります。こういうことが、僕たちの、つまり逆にいくと、こういう人たちの誰かが問題を起こした時に、そのことが大きな問題になる。その大きな問題になるわけですが、それはどういう構造によって、何が起きたのか、ということを隠蔽せずに、きちんとこの段階からわかるようにしてあるというのは、たぶん半世紀前に、ここで言えば、“Auditorium Acoustics”この辺をやった50年前のエンジニアたちが、前川さんの事紡所の人が、必死に読み解いた情報を公開してくれたように、また、この人たちもきちんと情報を公開してくれるでしょう。その中ではやっぱり、それを見た人、それを審査した人、あるいは、それを良しとした人にも、応分の責任というのは、当然発生するわけですね。逆に言うと、その応分の責任というのは提案するカでもあるし、おもしろがっている社会の中では楽しみでもあるかもしれないわけです。自分がそこに関わること、自分がそこである判断をしたということ、それがうまくいった時には、当然すごい大きな手柄になるわけですから、僕がいることによって、あそこで僕がああいう風に提案したんだよ、みたいなことというのは、当然出来たものに対しては、自分自身の非常に充足した満足でしょうし、何もマイナスの話、内緒にしておいてほしい話ばかりではないわけですよね。それも有名な建築家一人が「僕がやりました」という話ではない。そういうことが建築の、ある意味では、みんなでつくるおもしろさであって、このみんなでつくる、デザインチームのみんなという以外に、今申し上げたような形で、こういうパンフレットを作ったり、あるいはCDを売ったり、あるいは、もっと言えばビアホール、というかビールを売るカウンターがあって、日々、そこの公共施設に人々が訪れてきて、そこで日々、人々が交流している。そういう場所を造っているということ、そのこと自身がたぶん全体が、非常に快適に、難しい問題もいっばい、実はあるのかもしれませんけれど、公開されている。それから引き受けられている。みんなが当事者である。そういう中で例えば、大きなリスクも、実は上手に回避されているんじゃないかな、という風に僕は思うんですね。本当言うと、その立川モデルも基本的には、今後のプロセスは、ずっとワークショップ等を通じて公開されていくことになります。日本の社会の中でこういうやり方が、そんなにまだうまくいっているわけではないですから。何て言いますか、予想通りうまくいくかどうか半分わかりません。しかし、みんなが手探りながら、当事者として参加し、当事者としてそのおもしろさの一端を自分が担っていくこと。それはもちろん責任という言葉でもあるんですが、責任を担っていくこととも言えるんです。責任というと日本語の責任というのは、日本人ですから、日本語でいいんですけれど、何か責任というと、あまりうれしくないニュアンスがあります。ありますよね? 当然、何か悪いことをした時の用語ですから・‥。だけど、たぶんですけれど、社会的任務、社会的責任、例えば行政の人に対して、みんな社会的責任があるだろうと言う。その「社会的責任」という時には、何か悪いことをした時という、そんなニュアンスがありますけれど、それの訳語の前の英語は「ソーシャル・レスポンシビリティ」と言うんだと思うんですね。「レスポンシビリティ」というのは、もっと短くすると「レスポンス」。「こっちに行ったら、こっちに返る」というのが「レスポンス」で、「責任」というのは、「こっちに行った時に、悪かったらこっちに返ってくる」というのが「責任」なんです。「レスポンス」は良い時には「手柄」として返ってくるのが「レスポンス」ですよね。必ずしも悪い言葉ではないと思うんですよね。「社会的責任」、「レスポンシビリティ」。だから、みんな任務があって、うまくいくようにしようね。だけど、うまく行かない時どうしようか。うまく行かない時はみんなでうまく行かなかった責任を、悪い方の責任を、「レスポンシビリティ」をみんなで背負うね、と言わないと、悪いかもしれないことが起きることは一切できなくなる。みんなでしなくなる。みんなでしなくなると、新しいことは、みんな誰もしなくなる。つまり、困ったことが起きることはしないという風にすると、新しい世の中は全然来ない。たぶん50年前にこの建物の情報を公開したのは、なぜかというと、たぶんいろんな人が関わって、いろんな手順を踏んで、いろんな風に考えました。どうでしょうか?と言った時に、いろんな人に責任が分担されるからだという風に言えると思うんですね。ちょっと言い方が、面倒くさい言い方で申し訳ないんですけれど、みんなが当事者になると、おもしろいことがきっとできる社会になると僕は思います。数人で影に隠れて、一つのことをやってしまうと、後でそこに問題が起きたときに、その数人は必死になって隠蔽しようとすると思うんですね。それからそういうことが二度と起きないようにするためには、冒険をしなくなると思うんです。だけど生きている以上、どんなお料理、さっきの話、たとえで言えば、くどいようですけれど、お料理人にしても、新しい味を作ってみたいと思う。建築家も新しい、今までの問題を、いくつかあった問題を片づけてみたいと思う。片づけてみたいということは一つの冒険ですね。そういうことをどうやったか。誰がいいと言ったか。「おもしろいね」と言ってくれたか。それが最後に「おもしろいかもしれないね」と言ってくれるのは、やっぱり、最後の所有者である、市民のみなさんなんだろうな、という風に思います。今回も立川で、僕はそれをずっとやり続けなければならないわけですけれど、立川では、ついに「そういう風にしてよ」と言う市民グループが建物の主人として現れて、そういうことになったわけです。このロンドンのケースというのは、たぶん我々よりも何十年か、何百年か先に、市民という主人になって、いろいろ苦労しながら主人を、慣れない主人をやり続けてきたイギリスのシチズン(市民)たちが辿り着いて、これが一番、まあまあうまくいく方法だろうという風に思いながら、やっている方法なのかなという風に思うんですね。我々も是非、これからです。これからは、今まであるストックをどう使うかということを含めて、市民のみなさんが当事者として、そういう言い方は変ですけれど、今ある市民のみなさんの資産なり、風景なり、建築なり、みんなそうですけれども、弘前市の主人は弘前市民、当
然ながら弘前市民であるわけで、税金を払っているみなさんがご主人なわけですから、ご主人としての手柄と、ご主人としての応分の「レスポンシビリティ」を、あるいは、興味を持って頂くことを含めてですが、それぐらいでも十分なんだと思います。関わって頂くこと、おもしろいと思ってくださること、そこからとても素敵な弘前市というのが、ものとしても、組織としても、仕組みとしても現れて、ここは何百万人の人たちが、年間余所の町やら、市から遊びに来たり、観光にいらしたりする。大変そういう意味で、日本中から注目されている街でもあるわけです。そこの多くの、余所から来る方々にも感心させてしまうような、そういう街にきっとなる。もうなっているのかもしれませんけれど、十分そういうポテンシャルと言いますか、底力を感じるし、前川さんの建物を、こんなにたくさん建てたということ自身が、その時の市長さんなり、何なりの大きなカなのかもしれませんけれども、この後ろにいる、本当のこの市の、弘前市の主人であるみなさんの財産を、みなさんがつくられたんだ、という風に僕は思ったわけです。ロンドン、ヨーロッパが何でも素敵なわけではないんですけれど、やっぱり建築家によく考えさせるカというのはお客にあります。お料理人によく考えさせる力も、たぶんお客にあると思います。お客が「ダメだ。ダメだ。」というと建築家は、たぶん育ちません。「カネだ。カネだ。」と言っても、たぶん育たない。建築家をやる気にさせる、たくさんの宿題を考えてくれるようにそそのかす。そういうことを建築家に対して、あるいは行政に対して、みなさんのサーバントに対して、みなさんがそういう風に上手な主人になってくださること。それは、例えば今あるみなさんの財産。くどいようですけれど、前川さんの建物を含めて、ここにあるたくさんの景観的な財産ですねみなさんが上手なご主人として今後改修したり、あるいは元気にしたり、あるいは保全したり、多様な方法で活かしてくださること。先程、楽屋では、「自宅にある、お爺さんが買ってきた骨董の価値は息子にはわからない」という話をしていたんですが、やっぱり息子も「なるほどお爺さんこんな物買ってきたのか。なかなか目利
きだね。」と、そういう息子になることも十分可能なんだと思いますし、そうなった時には、次の快適な息子の生活というのは、その骨董を素材にしながら始まるんだろうと思いますので、是非とても大きな資産を、財産を持った弘前市が今後、とても素敵にみなさんと一緒に、素敵な当事者たちによって、素敵に運営されることを・・・!選挙の演説みたいになってしまいましたけれど、期待したい.私が話したかったのは、そういう意味では、主人であるみなさんの所有物である公共財に、みなさんが先程の縁の下の経営者のように関わる可能性というのは、たくさんあるんじゃないか。そうすると、その場所はもっと活き活きするんじゃないか。よくわかりませんけれど、行政が部分的にNPO等に運営を任せることとか、それからたくさんの市民組織が、行政に代わって別の形で、いわゆるコミュニテイ、地域社会を支えることはたくさん起きてきているわけで、そういう中で公共建築そのものは、大きく使える財産として生まれ変わったり、変化したりする可能性を持ってるんじゃないかと。行政の方は、それでいいというかわかりませんけれど、そういう気がして…。「ロイヤルフェスティバルホール」は前川さんとも縁のある建物であったわけで、このお話をさせて頂こうと思って今日お邪魔したというわけです。僕はこの機会にたくさんの弘前の建物を見せて頂いたこと。見ることは料理を食べることのように楽しみだと申し上げましたけれど、大変たくさんの前川さんのお料理を食べさせて頂いて、本当に今回お邪魔して良かったと思っています。どうもありがとうございました。

(司 会)
野沢さまには、建物をどのように維持していくのか、またどのように使っていくのか、そんなことについて、将来に繋げていく仕組みといったものについてお話を頂きました。いろいろな今後の活用の仕方等についてのヒントがあったような感じがいたします。せっかくの機会でございますので、若干ご質問をお受けしたいと思いますが、いらっしゃいますか。何かご質問ございませんか。
ないようでございます。また後で、野沢さまには、対談の方にもご参加いただきますので、その時また、質疑の時間を持ちたいと思います。それでは、若干休憩させて頂いて、次の準備をさせて頂きたいと思います。休憩に入らせて頂きます。

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