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第1部:基調講演
「ロンドンの公共建築から見るまちづくりの方法、そして、東京都立川市の市庁舎計画の提案をめぐって」
 野沢正光(建築家・野沢正光建築工房主宰)
(司 会)
 それでは、第1部に入りたいと思います。基調講演ということで、野沢さまをお願いいたしております。まず野沢さまのご紹介を申し上げたいと思います。
 野沢さまは、1969年、東京芸術大学美術学部建築学科をご卒業され前川國男氏の下で建築を学ばれた大高正人氏の建築設計事務所を経て、1974年に野沢正光建築工房を設立されております。現在、日本建築家協会環境部会部会長をはじめ、各種委員や母校の東京芸術大学建築学科などの講師をなされており、主な作品としては、阿品土谷病院、いわむらかずお絵本の丘美術館などがあります。これらは建築の各賞を受賞されておりまして、自然エネルギーを利用した様々な環境デザイン手法を取り入れて、環境に配慮した建築物を数多く設計されておられます.
 今日の第1部の基調講演でございますが、「ロンドンの公共建築からみるまちづくりの方法」と題しまして、ご講演をいただきます。ロンドンの公共建築と、それに関わるまちづくりの事例をご紹介いただくとともに、現在、野沢さまが関わっておられる東京都立川市の市民参画型による市庁舎建設計画についてお話しいただくことにしております。
 それでは野沢さま、よろしくお願い申し上げます。

(野 沢)
 ただいま、ご紹介いただきました野沢でございます。どうぞよろしくお願いします。
 昨日ですね、弘前に初めてお邪魔させていただいて、弘前のたくさんの前川先生の設計された建物を見せていただきました。それで昨日は、主に前川先生の設計された建物を、スタッフであった松隈先生と一緒に見せていただき、今日は、それ以前の疑洋風と我々言いますけれども、大工さんが外国人の宣教師やら建築家に従って建てた教会。あるいはフランク・ロイド・ライトによく似た建物やら、それ以前に建てられたいくつもの新進の、稀少に満ちた建築物も見せていただきました。もちろんその中で、それ以前の長い弘前の歴史が造り出した景観やら建築物も結果としてたくさん見ているということになると思います。前川國男さんの建物が、こんなに一箇所にたくさんあって、そのどれもが非常に高い水準の建築作品であって、使いやすくて、よく考えられた建築物であって、今も元気に皆さんに使われていて、しかも非常に品質良く維持管理されているというのを見ながら、たいへん心持ちのよい時間を過ごしたと思っています。その建物の主人公である、所有者である皆さんの建物に対する自然な愛着、いちいち大したものだと思っていらっしゃらないかと思いますけれども、一つひとつの建物をささやかに大事に使ってらっしゃるという感じがとても印象的でした。
 建築家といいますか、設計を仕事にしていますと、やはり最大の楽しみは、人の造った建築を見ることなんですね。音楽家と建築家は、大分、仕事が違いますけれど、多分、音楽家もいい音楽家は、たくさんの曲を聴いていると思います。それから、聴くことが楽しみな作曲家なり音楽家は、いい演奏家だったり、全員がそうかどうかはわかりませんが、いい作曲家だったりする一つの条件かもしれないと思います。つまり、もっと砕けて言えばおいしい料理を作れる料理人は、おいしい料理をたくさん食べている人なんじゃないかなという風にも思います。今回は、前川囲男という料理人が、どのくらいでしょうか、20年間か、30年間、もっと長いでしょうか?初期の「木村産業研究所」からずっと弘前を舞台に造り続けたお料理を、それがどんな味にどんな風に変化してきたのかということを見せて頂いたような気がして、前川建築博物館みたいな、専門家としてはですけれども、そういう楽しみを味わせて頂きました。さっき申し上げましたように、これができたのは、そういう弘前でこういうことが、起きたということはとても稀なことですし、その稀なことには、たぶんその前にチラっと教えて頂いたのですが、外国人の宣教師の方々が、いっぱいこの街にいらしたこと、その方々が、学校の先生をされたりしながら、その外国からの新種の、何て言いますか、いろいろなものをいろいろに取り込む、ここの街の持っていた一種のポテンシャルと言いますか、底力みたいなものが、前川建築博物館のような街に繋がっているんだろうなというところまで教えて頂きました。先程、僕のことを紹介してくださった中に、大高正人さんという名前が出てきました。大高正人さんというのは前川先生の事務所に勤め、「神奈川県立音楽堂」、「岡山県庁舎」や「東京文化会館」などという建築物を主に担当した大変上手な、自分のボスでした人ですから‥・。何て言っていいのかわかりませんが、大変、有能な建築家だった。だった、と言えば怒られますが、まだ元気です。大高さんからいろんなことを教わりましたし、大高さんは、前川さんからいろんなことを教わったんでしょうし、前川さんは、コルピュジエや、レーモンドさんという建築家からいろんなことを教わったんだと思います。そういう「教わる」ということは、一つは手を取って教えてもらうということがありますけれど、もう一つは見て覚える、あるいは真似をして覚えるということもあると思います。特に前川さんの建物というのは、僕らが学生で、上野の芸大だったものですから、上野の文化会館の横を通って、西洋美術館との間を抜けて学校まで通っていました。18歳、19歳の時には、もうすでにそこに、あの大きな文化会館がありました。それを横目に見ながら、ずっと建築の勉強をしてきたという経緯もありますので、前川さんのことというのはとても僕にとっても懐かしいです。大高さんの事務所にいったというのも、一つは前川さんのところは入社試験が難しそうで
したから、弟子のところにしてみようとかと思ったような気もしないでもありません。そのぐらい時代に前川國男さんの仕事というのは大きな影響を与えたんだと思います。僕の芸大の時の先生も、大学卒業の時に、前川事務所に行こうと思っていたと言っていた方が、いらっしゃいました。そういう意味で日本の建築に、戦前から戦後にかけて、特に戦後の建築にものすごく大きな足跡を残された前川さん。その前川さんの建築について、建築家、あるいは建築に関わっていらっしゃる方には、もう重々その辺は釈迦に説法ですけれども、市民の皆さんにも少しでも、どこがおもしろいのか、どこが素敵なのか、あるいは今の建築というのはどんな風に考えたら、あるいはどこが考えられている、というところを探しておもしろいと思うことが、前川國男さんの建築なり、我々が造っている建築なりをおもしろいと思って頂くことに繋がるのかという辺りですね、できるだけ機会をつくりながら、つまりどこのどういう食べ方をしたら、この料理はおいしいのかということになるかと思うんですけれども、なるべくわかって頂くような努力を今後も続けていきたいという風に思っているのです。
 先程、立川のことがちょっと、このタイトルにも書いてありますが、私は東京都立川市の市庁舎のコンペというのに、ついこの間コンペの最終審査に選ばれました。その資料が『新建築』の1月号に書いた記事が、このコピーの中にありますので、今じゃなくていいのですが、見て頂ければと思います。立川のコンペというのは、立川市が、新しい市庁舎を造らなければならなくなったところで公開の設計競技を行いまして、その設計競技の中
で、建築家を一人選んだということなんですけれども、このプロセスが、今までのプロセスとは違っていたんですね。市民の方が、100人委員会という委員会を2、3年前に作りまして、どういう形の市庁舎を造ったらいいかという設計条件みたいなものを、行政の方が作るのではなくて、市民の方が作ったんですね。その設計条件を前提にコンペが行われ、コンペの第一次審査というので、3人が選ばれた後に、市民の方々のグループが対象になるワークショップを、3人の建築家が、各々に開いて、ワークショップによって出た市民の方の意向を反映するかたちで、第二次案を作るみたいな、非常に手間の掛かったコンペだったわけです。そのコンペを経験しながら、先程の話に繋げますと、今まで前川先生の時代の公共建築なり、建築の造り方というのはどちらかというと、当然ながら、市民である我々の問題でもあったと思うんです。それ程市民が、立川のようには参加するという状況ではなかったと思うんですね。今になってくると市民の方々がいろんな形で一つひとつの公共建築を造るところ、場合によっては維持していくところ、そういうところに登場してきて、積極的に自分が当事者として、自分が主役として責任を持って話をしていく、あるいは関わっていくみたいなことが、始まっているんだなという感じが、立川のコンペの中でしていました。
 コンペそのものは、これから実際の計画の段階に入りますものですから、今後どうなるか、いろいろな難しい問題やら、ややこしい問題やら、あるいは楽しい問題やらをはらんでいるままで、まだ入り口に辿り着いたばかりですから、何とも言えないんですけれども…。立川はそんな具合に動いています。ということを一つの事例にしながら、建築なり、今回のこのフォーラムのテーマである環境、あるいは景観なりは、誰によってどうやって維持されているのかということが、とても大事になってくる。これからはますますそれが、当事者である市なり、自治体の一番の当事者である、市民の皆さんの双肩にかかっていると言いますか、皆さんの参加と言いますか、皆さんの当事者としての力量に、かかってくるんではないかな、という気がとてもします。そこはとても実はおもしろいところなんじゃないかなという気が僕はしています。
 立川は、僕の半分、地元みたいな高校時代を過ごしたところですので、僕にとっての地域社会みたいなところでもあるんです。地域社会で、その地域社会のことを一番良く知っていらっしゃる方々が、例えば、外からの地域社会の見方などを鏡のように使いながら、そこの地域が持っている底力なり、宝なりを再発見する。あるいは、それがあることをおもしろいと非常に客観的にもう一度思う。みたいなところから景観なり、環境なり、あるいは、それの一つの要素である建築なりは、少しずつ良くなっていくんじゃないかと。人がどう見るか、ということを怯えながらではなくて、人にどう見えているか、ということをちょっと自分の髪の毛を直すように考えてみること。それが少しずつ街なり、建築なり、そこに建っている他人の建築に対して興味を持つこと、そういうことが、とても大事になってくるのではないかということを、立川の流れの中でも思っています。僕自身は、建築の設計を始めて、数十年経つわけですが、数十年経ちながら、やっぱり、ある時期の自分で設計した建築に、いくつもの出来の悪いところ、先程の料理で言えば、味の悪いところを後で発見したりします。それはいつでも誰でも、だいたいそうなんじゃないかと半分居直り気分で思うんですけれども、30年前に常識だったことが、30年後には、とてもそれは問題の多いことだよという風に思ってしまう。あるいは、そういうことになってしまうというのは、たくさんあるかと思います。建築も今、供給されている建築というのと、30年前に建築に課せられた要求というのは、違いがたくさんあったと思うんですね。その中で、市民の皆さんが、それは建築家を含めてですけれども、自分のこととして、あるいは自分の興味のあるおもしろい対象として街のこと、景観のこと、それから建築のことに関わって頂くこと、造ることばかりではなくて、〈立川の場合、今造る段階ですけれど)、造る段階から、運営する段階にも踏み込んで頂くことというのが、実際にとても大事になっているんだろうなと思いますし、このことはとてもおもしろいことなのかもしれないという風に思っているんです。先程申し上げましたように、話が散漫ですが、僕は建築を見ることが、下手すると造ることよりも好きという感じがしないでもありません。これは、人の造った建築物が、先程申し上げたように、どんな風なつもりでどんな風に、その時代、何を考えたのか、誰がどんな風に関わったのか、いろんなことが、そこからわかると言いますか、想像されるということがあるからです。先程、お話にあった、タイトルにあります「ロンドン」というのは、たった一つの建築についての話なんですけれども、つくづく感心しながら、僕たちもきっと近々こうなるだろう、こういう社会、ロンドンの全部が良いわけじゃないので、良いところを見ている、隣の花は美しいみたいな話ですから、それだけのことではあるんですけれども、ちょっと絵を見ながら、お話をこの後は続けたいと思います。ちょっとお願いします。
 これは、前川國男さんの「神奈川県立音楽堂(写真1)」という建築物です。1954年だったと思うんですけれども、戦後すぐ、東京、横浜という一番ひどい戦災を受けたエリアの話ですから、焼け野原の戦後、まだ5、6年というところで、内山さんという神奈川県の知事が、疲弊した状況の中で、文化的な施設こそ大事だという風に考えられて、鎌倉の「近代美術館」これは坂倉準三さんという建築家ですけれども、それと「神奈川県立図書館と音楽堂」という建物を建てることを決意されます。周りは想像すると、たぶんバラックが建っているだけという非常になんと言いますか、それこそ文化も何も、おいしいカレーの話も何もない時だと思います。その時に、この建物が建てられるわけです。この建物は、そういう意味では、前川さんのごく初期の代表的な音楽堂であって、その建物が、弘前の「市民会館」にも繋がって、ここでのたくさんの勉強と言いますか経験が、あの素敵な弘前の本当に良い建物、弘前の「市民会館」に繋がっていると思います。上野の文化会館にも当然、繋がっている建物です。
 十数年前、十年ちょっと前ですかね、バブルの後半に、この建物はあまりにもみすぼらしいから壊そうという話が出まして、少しこの建物に愛着のある方々の運動やら、あるいは経済的にバブルが弾けて、新しい大きな投資が難しいということもあって、現在も健全に使われていますけれど、そういう意味では50年以上経って、しっかりと今も使われている建物です。前川さんの傑作の一つだという風に僕は思っています.
 これがどこかの建物と似ているという気がしますが、入り口の下のモダンな建物、我々の現代の建物の典型ですけれども、余計なものがなく、ホールの下のスペースが、そのままの形でロビーになっているという空間を見せているところの写真(写真2)です。こういう形で最小限の材料で最大限の品質と言いますか、クオリティを造っていこうというのがモダニズムの考え方、近代建築の考え方なんです。よく考えると、今の少ない資源で最大の品質を得ようとする持続可能な社会みたいな言い方がございますけれども、それもここら辺のところに、一つの考え方の根拠みたいなものが、あるんじゃないかなと僕は思っているんです。たくさんの余計なものをくっつけていくということは、やっぱり資源の無駄遣いだったり、あるいは環境への悪い働きかけだったりするかもしれないわけです。モダニズムは、だからそういう意味では、非常に清貧と言いますか、潔い建築であったのかもしれません.それが、ある問題をこの当時は、まだはらんでいるというのは、なくはないわけです。
 ここからロンドンなんですが、大高正人さん、さっき名前が出た僕の師匠にあたる人ですが、大高正人さんが、神奈川の音楽堂の仕事に関わってらっしゃいます。大高正人さんは、初めてやる音楽堂をどうやってやろうかという風に悩んだ時に、実は印刷物として公開されていた、ロンドンの「ロイヤルフェスティバルホール」の音響の計算の方法とか、「ロイヤルフェスティバルホール」について報告された、たくさんの公開された情報、資料ですね。それを製図板の横に置きながら、それを一生懸命読みながら造ったんだよ、と言っていました.その「ロイヤルフェスティバルホール」という建物がこれ(写真3)です。ロンドンの川の横にこうやって建っています。これは、僕自身が撮ったスライドです。「ロイヤルフェスティバルホール」というのは、実は個人の建築家が設計した、建築家の名前はわかっているんですが、僕自身が忘れているんです。実はロンドンの、いわゆる市の営繕が設計した建物と考えていいと思います。たくさんの建築家なり、技術者、エンジニアがそのチームに参加しています。たぶん臨時に、そのチームのために人を集めて、建築家を集めて、エンジニアを集めて、チームを作って、造ったんだと思います。この建物は、そういう経緯を含めて、構造のこととか、音響のこととか、計画のこととか、当時、建物の進行と同時に情報になって出ていきました。つまり、公開的に造られ公開的に情報が提供されたわけです。出来た建物がこれです。この建物が、今行って見ますと次のような状況になっています。
 これ(写真4)は、先程の「神奈川県立音楽堂」の縁の下にあたるところと同じようなところです。つまり、これは「ホワイエ」って言ったりしているんだと思うんですが、入場券を買って入る場所ではありません。無料の場所です。無料の場所と言いますか、縁の下ですから、通常でいったら、誰も居ないガランとしたところです。しかし、ここではこんな具合に毎晩なっています。上で音楽会をやっている時は、たぶんやっていないと思うんですが、ちゃんと何回も通ったわけではないので、半分くらいはあてにならない情報ですけれども、週末とか、夕方に行くと人がいっぱい集まって、暖かいです。バーがあり、バーと言っても、売店があります。売店でビールや、何やら売っています。横にはCDショップがあったり、本屋があったりします。そこに何時間居ても、無料なんですね。要は音楽堂が、ファンがこの建物についてもらうために、無料のコンサートを、ずっとやり続けているんです。ジャズコンサートが、主だと思うんですけれど、要は私が、ここでやってみたいという人に、オーディションのようなことをやりながら、左の端にチラっと見えていますけれども、ずっと長時間にわたって、音楽をやり続けてくれています。電気が点いて暖かいです。別にバーのビールを買って飲まなくても、暇であればここに座ったまま、ずっと半日でも、半日かどうかわかりませんが、長時間居ても全く自由だと。そういう運営をしています。そういう場所っていうのは考えてみると、人が寄り集まって快適に自分の都合で、つまり喫茶店なら、必ずお茶を買わなくてはいけないわけですが、そうではなくて、何時まで居たって構いませんという場所を公共空間の中に持っているわけです。これはたぶん、これから僕たちが、欲しい場所だと僕は思うんですね。無料の場所。無料でずっと居られる場所。これが本当は公共空間なんじゃないかなという風に思いました。こうやってここに座っている人を見ますと、ちょっと高齢の夫婦が、ただずっと1杯のビールを飲みながら、世間話をゆっくりするともなく、しながら二人で座っているとか、もうそろそろ、こんなことを言うと怒られますけれど、結婚したらいいのにと思うような女の方が、ずっと側のサンドウィッチのようなものを買って食べながら、快適にビールを飲みながら読書していたり、そういう人たちを見た記憶があります。こういう場所を、実は運営しているのは、この「ロイヤルフェスティバルホール」を運営しているアソシエーションなんです。要は直接の行政ではないんですね。市民が作った、ここを運営する一種の、もちろん儲けているわけですが、つまり給料もとっているわけですし、スタッフでもいるわけですけれども、みんなで作った一種の「ロイヤルフエスティバルホール」を運営するアソシエーション。協会、組織みたいなものが、これも公開的に、たぶん経理等を、情報を公開しながら運営されているんだと思うんです。つまり、株主に配当しているわけでもないし、全く税金を投入してやっているわけでもない.もう一つの公共の在り方みたいな、公開された公共の在り方みたいなものが、ここにはあるんじゃないかなと思います。つまり、一生懸命市民にサービスすることによって、その組織が、経済的にもある程度儲かる、というような仕組みができているのかなという風に思います。
 これは、奥でジャズを吹いているのがわかります。先程の「神奈川県立音楽堂」と同じように、天井の上が段になっているのは、上がホールだからですね。ここにいる、こんなに大勢いますけれど、これはレストランでも何でもなくて、要はみんな無料でいるという、そういう場所だということ。こういう場所がいくつかあるんだということを、いいなと思ったわけです。
 今の「ロイヤルフェスティバルホール」というのは、先程、申し上げましたように「神奈川県立音楽堂」が出来る、1952年の2年くらい前に竣工したんだと思います。つまり、情報が出て、すぐにその情報を大高さんやら、前川さんは必死で読み解きながら音楽堂を造ったということになるわけです。これは、とある本からとったコピーですけれども、「ロイヤルフェスティバルホール」も戦後5年ぐらいに竣工していますから、出来た途端の写真は、今と違うんですね。これはどうも、ちゃんと読んでいないんですけれど、お金がないので、このファサードは一種のプレートのようなもので、とりあえず第一次、1950年の姿はこんな格好だったようです。つまり、建てた時から、出来上がった建物として造ってないんじゃないかという気がします。つまり、造らなきゃならないところは造るけど、お金のないところは、一応仮に造っておこうね、みたいな建物っていうのは、いつ完成するのかな、いつ竣工するのかな、という話にもっていきたい話として、コピーをとったんです。出来た時は、こんな顔でした。これは、裏側なんですけれど、川の側じゃない反対側なんです。
 これが川の側です。竣工した時の、西側の川に面したフアサード。こちらも、こんな格好で出来上がっています。
 これは同じ本からとった最近の写真です。前にデッキがついたり、いろいろな格好で、この建物を巡る、周りの環境も変わっています。それにあわせて建物は大きく、1960年ぐらいに20年経たずに、大改修がされています。つまり、50年代に竣工した建物を、そのまま使っているとも言えるんですけれども、大事なところはそのまま使いながらお金がなくて出来なかったところを直し、それから、その後で気がついたことを大きく変更しています。
 これはその本に載っていた、ちょっと素敵な女の人がお茶を飲んでいる写真で、本当はもっといい写真なんです。要は当時から、この建物はたぶんクライアント、クライアントと言いますか、ここで楽しむ人たちに対して、非常に丁寧な設計をしているんだろうなという風に思いました。十分な要求される楽しみをここで十分、ここを使う方々に味わってもらおうというその雰囲気は、この照明器具(写真)一つからいろいろ出ている。お洒落をしてきている女の人にも出ている、と思ったものですから入れたんです。ちょっとはっきり写っていないので、本当はやめておいたほうが良かったかもしれません。
 

これが、64年頃、2年間くらい、たぶん閉鎖して大改修をやっているプランです。ビフォーアフターなんて僕はやめろと言ったんですけれど・‥、書いてあります。要は40年、35年くらい前の大改修のこれは、グランドフロアーと言いますか、一番下のレベルの改修です。細かいことは、どうでもいいんですけれども・‥.例えば下の方とか、それから上の方に大きなプランの変更、これは中のプランも大幅に変更しています。たった十数年
で建物の要求を見直して、大きな変更をして使い続けることに対応しているということです。
 これはちょっと図面が、小さくなっていますけれど、あきらかに真ん中、ちょっと見にくいかもしれませんが、階段のあるところなんかを同じだと思って見ていただくと、随分と下側に大きく出っ張っていることとか、上側にも随分、大きく変形しているということがわかると思います。
 これも、例えば水廻りだとか、スタッフの部分だとかが、大きく変更されています。こういう格好で、その時にあわせて建物というのが、例えばある時期に、先程、申し上げましたように、その時代には、仕様がなかった技術的な問題、解決の限界みたいなものを、もう一度見直すとか、あるいは使い勝手の上で、あるいは予算の上で、ここまでしか出来なかったものを、ある時期にきちんと見直して、1年とか2年とか、閉鎖して、この建物
をもう一度その状況にあわせたものに切り替えていく。つまり、何て言うんですか。増築したり、改築したりすること、日本の木造建築のように、実はここの公共建築というのは結構しているんだなという気が僕はしたわけです。
 それで、これが読めるといいんですけれども「ロイヤルフェスティバルホール」の50年の誕生日の、これからどういう風に、この先、どうするかという市民に向けたパンフレットの表紙です。つまりここには、なんつまり、みんなて書いてあるか。“People's Place”のお城を21世紀に使っていくために、もう1回リニューアルしますというパンフレットです。これは、「50年たったんでしっかりやりまっせ!」というパンフレットの表紙です。後ろにミレニアムの大きな観覧車があったりするのが今だという、2000年ですということを表しているんです。
 これがそのパンフレットを拡げたところです。これは一番初期に博覧会を上でやっている時に「ロイヤルフェスティバルホール」が出来た写真、それから今度どうするかという写真です。模型の写真です。大きくは、この建物は驚くほどに、今度は、いわゆる鉄道線路との間にサポートする施設を大幅に増築したり、座席のイスを全部取り替えたり、大変な手間を掛けて、また、数年掛かりでこの建物は生まれ変わって、これからあとの50年
に対応します、ということなんですね。その説明が、永遠としてあるパンフレット。これが、先程のみんなが集まる縁の下のロビーのホワイエのところに置いてあるわけです。この横には、新しいイスも置いてありました。今度あなたたちが座る、「みなさんに座っていただくホールのイスは、これでございます」というのが置いてあって、「試しに座ってみてください」数年先の話なんですが、もうそんなこともしてありました。
 これが、その記念にBBC、イギリスの放送局が出したCDですね。あのファサードのところが、実は2つの写真が合成されていまして、出来た途端のファサードと、その後のファサードが合成されて50年の時間を表しています。そして50年間にどんなコンサートがあったかのダイジェストが、CDの中に入っています。これをみんなに売るわけですね。それからこっちの小さいパンフレットですね。これはここに“Donation’s Form”と書いてありますけれど、これがくせ者です。要はですね、「こういうことをやります。みなさん今後も楽しみにしてください。縁の下のコンサートは無料で、今後もずっとやります。無料で居てもずっと暖かいでっせ。とても素敵な音楽会をずっとやっていきます。お金ください」そういうものなんですね。「よしわかった。時々行っているし、バーで長時間、とぐろ巻いているし、まあそう言うんなら」という人を狙ってですね。つまり、お金を払ってください、というところまで含めて参加型なんですね。「よしわかった.じゃあ何万円出してやろうか」という人は、「俺、あのロイヤルフェスティバルホール、“People's Place”は、俺のものだ!」と一部思うかもしれませんですよね。こういう格好でお金を払うということを含めて、あるいは、ここでアソシエーションのメンバーになってこの運営に参加しようということも含めて、この「ロイヤルフェスティバルホール」は市民のものになって、市民によって運営されて、そこで起きている経済的なやりとり等は市民に向かって公開されている。これからどういう形でこの建物が改修されるかも、詳細なこういうパンフレットなり、何なりが用意されていて、市民がそれを知る。あるいは、市民が直接それに参画する。金を払う。そういう仕組みを非常に、何て言いますか、手厚く用意しているということを、僕は、この仕組みが快適だなと思ったわけです.
 今の“Donation's Form”にくっついている、後ろの方についている、一番裏の赤いページについているところです。ここで公開されている、この情報にもちょっとびっくりして頂きたい。建築って姉歯問題なんかもありますから、最近は構造家というのがいるんだということはお分かりかと思います。今度の改修に参加する主な責任者、エンジニアたちのスタッフはこういう人です。というところまであの小さなパンフレットに書いてあります。“Architects”は、こういう名前の人ですね。“Auditorium Acoustics”が、こういうところです。それから“Theatre Consultants”は、この人たちです。“Quantity Surveyors”品質の、何て言うんですかね。調査、検査する人たちはこういう組織です。それから“Services Engineers”主に設備系ですね。暖房とか冷房とか空調とか。他にもあると思いますが、トイレの水とか。それはこういうところです。“StructuralEngineers”これは姉歯さんみたいな人ですね。これは、こういうところです。“Fire Engineers”この辺がすごいですね。“Arup Fire”と書いてありますけれど、僕たち建築家の中では、世界で一番有名なコンサルタント会社です。あらゆる、この2行目から下は全部できる総合コンサルタント事務所が、‘Arup”という人のつくりあげた組織なんですけれども、そこは火災についての技術的なコンサルタントとしてだけ入っていますね。それからその下に、まだ2つもマネージャーとコンサルタントがいます。建築というのは、これだけ、少なくとも、今度の改修工事に伴って、主に登場するチームの構成メンバーだけでもこれだけいます。ということがあの小さなパンフレットに書いてあります。こういうことが、僕たちの、つまり逆にいくと、こういう人たちの誰かが問題を起こした時に、そのことが大きな問題になる。その大きな問題になるわけですが、それはどういう構造によって、何が起きたのか、ということを隠蔽せずに、きちんとこの段階からわかるようにしてあるというのは、たぶん半世紀前に、ここで言えば、“Auditorium Acoustics”この辺をやった50年前のエンジニアたちが、前川さんの事紡所の人が、必死に読み解いた情報を公開してくれたように、また、この人たちもきちんと情報を公開してくれるでしょう。その中ではやっぱり、それを見た人、それを審査した人、あるいは、それを良しとした人にも、応分の責任というのは、当然発生するわけですね。逆に言うと、その応分の責任というのは提案するカでもあるし、おもしろがっている社会の中では楽しみでもあるかもしれないわけです。自分がそこに関わること、自分がそこである判断をしたということ、それがうまくいった時には、当然すごい大きな手柄になるわけですから、僕がいることによって、あそこで僕がああいう風に提案したんだよ、みたいなことというのは、当然出来たものに対しては、自分自身の非常に充足した満足でしょうし、何もマイナスの話、内緒にしておいてほしい話ばかりではないわけですよね。それも有名な建築家一人が「僕がやりました」という話ではない。そういうことが建築の、ある意味では、みんなでつくるおもしろさであって、このみんなでつくる、デザインチームのみんなという以外に、今申し上げたような形で、こういうパンフレットを作ったり、あるいはCDを売ったり、あるいは、もっと言えばビアホール、というかビールを売るカウンターがあって、日々、そこの公共施設に人々が訪れてきて、そこで日々、人々が交流している。そういう場所を造っているということ、そのこと自身がたぶん全体が、非常に快適に、難しい問題もいっばい、実はあるのかもしれませんけれど、公開されている。それから引き受けられている。みんなが当事者である。そういう中で例えば、大きなリスクも、実は上手に回避されているんじゃないかな、という風に僕は思うんですね。本当言うと、その立川モデルも基本的には、今後のプロセスは、ずっとワークショップ等を通じて公開されていくことになります。日本の社会の中でこういうやり方が、そんなにまだうまくいっているわけではないですから。何て言いますか、予想通りうまくいくかどうか半分わかりません。しかし、みんなが手探りながら、当事者として参加し、当事者としてそのおもしろさの一端を自分が担っていくこと。それはもちろん責任という言葉でもあるんですが、責任を担っていくこととも言えるんです。責任というと日本語の責任というのは、日本人ですから、日本語でいいんですけれど、何か責任というと、あまりうれしくないニュアンスがあります。ありますよね? 当然、何か悪いことをした時の用語ですから・‥。だけど、たぶんですけれど、社会的任務、社会的責任、例えば行政の人に対して、みんな社会的責任があるだろうと言う。その「社会的責任」という時には、何か悪いことをした時という、そんなニュアンスがありますけれど、それの訳語の前の英語は「ソーシャル・レスポンシビリティ」と言うんだと思うんですね。「レスポンシビリティ」というのは、もっと短くすると「レスポンス」。「こっちに行ったら、こっちに返る」というのが「レスポンス」で、「責任」というのは、「こっちに行った時に、悪かったらこっちに返ってくる」というのが「責任」なんです。「レスポンス」は良い時には「手柄」として返ってくるのが「レスポンス」ですよね。必ずしも悪い言葉ではないと思うんですよね。「社会的責任」、「レスポンシビリティ」。だから、みんな任務があって、うまくいくようにしようね。だけど、うまく行かない時どうしようか。うまく行かない時はみんなでうまく行かなかった責任を、悪い方の責任を、「レスポンシビリティ」をみんなで背負うね、と言わないと、悪いかもしれないことが起きることは一切できなくなる。みんなでしなくなる。みんなでしなくなると、新しいことは、みんな誰もしなくなる。つまり、困ったことが起きることはしないという風にすると、新しい世の中は全然来ない。たぶん50年前にこの建物の情報を公開したのは、なぜかというと、たぶんいろんな人が関わって、いろんな手順を踏んで、いろんな風に考えました。どうでしょうか?と言った時に、いろんな人に責任が分担されるからだという風に言えると思うんですね。ちょっと言い方が、面倒くさい言い方で申し訳ないんですけれど、みんなが当事者になると、おもしろいことがきっとできる社会になると僕は思います。数人で影に隠れて、一つのことをやってしまうと、後でそこに問題が起きたときに、その数人は必死になって隠蔽しようとすると思うんですね。それからそういうことが二度と起きないようにするためには、冒険をしなくなると思うんです。だけど生きている以上、どんなお料理、さっきの話、たとえで言えば、くどいようですけれど、お料理人にしても、新しい味を作ってみたいと思う。建築家も新しい、今までの問題を、いくつかあった問題を片づけてみたいと思う。片づけてみたいということは一つの冒険ですね。そういうことをどうやったか。誰がいいと言ったか。「おもしろいね」と言ってくれたか。それが最後に「おもしろいかもしれないね」と言ってくれるのは、やっぱり、最後の所有者である、市民のみなさんなんだろうな、という風に思います。今回も立川で、僕はそれをずっとやり続けなければならないわけですけれど、立川では、ついに「そういう風にしてよ」と言う市民グループが建物の主人として現れて、そういうことになったわけです。このロンドンのケースというのは、たぶん我々よりも何十年か、何百年か先に、市民という主人になって、いろいろ苦労しながら主人を、慣れない主人をやり続けてきたイギリスのシチズン(市民)たちが辿り着いて、これが一番、まあまあうまくいく方法だろうという風に思いながら、やっている方法なのかなという風に思うんですね。我々も是非、これからです。これからは、今まであるストックをどう使うかということを含めて、市民のみなさんが当事者として、そういう言い方は変ですけれど、今ある市民のみなさんの資産なり、風景なり、建築なり、みんなそうですけれども、弘前市の主人は弘前市民、当
然ながら弘前市民であるわけで、税金を払っているみなさんがご主人なわけですから、ご主人としての手柄と、ご主人としての応分の「レスポンシビリティ」を、あるいは、興味を持って頂くことを含めてですが、それぐらいでも十分なんだと思います。関わって頂くこと、おもしろいと思ってくださること、そこからとても素敵な弘前市というのが、ものとしても、組織としても、仕組みとしても現れて、ここは何百万人の人たちが、年間余所の町やら、市から遊びに来たり、観光にいらしたりする。大変そういう意味で、日本中から注目されている街でもあるわけです。そこの多くの、余所から来る方々にも感心させてしまうような、そういう街にきっとなる。もうなっているのかもしれませんけれど、十分そういうポテンシャルと言いますか、底力を感じるし、前川さんの建物を、こんなにたくさん建てたということ自身が、その時の市長さんなり、何なりの大きなカなのかもしれませんけれども、この後ろにいる、本当のこの市の、弘前市の主人であるみなさんの財産を、みなさんがつくられたんだ、という風に僕は思ったわけです。ロンドン、ヨーロッパが何でも素敵なわけではないんですけれど、やっぱり建築家によく考えさせるカというのはお客にあります。お料理人によく考えさせる力も、たぶんお客にあると思います。お客が「ダメだ。ダメだ。」というと建築家は、たぶん育ちません。「カネだ。カネだ。」と言っても、たぶん育たない。建築家をやる気にさせる、たくさんの宿題を考えてくれるようにそそのかす。そういうことを建築家に対して、あるいは行政に対して、みなさんのサーバントに対して、みなさんがそういう風に上手な主人になってくださること。それは、例えば今あるみなさんの財産。くどいようですけれど、前川さんの建物を含めて、ここにあるたくさんの景観的な財産ですねみなさんが上手なご主人として今後改修したり、あるいは元気にしたり、あるいは保全したり、多様な方法で活かしてくださること。先程、楽屋では、「自宅にある、お爺さんが買ってきた骨董の価値は息子にはわからない」という話をしていたんですが、やっぱり息子も「なるほどお爺さんこんな物買ってきたのか。なかなか目利
きだね。」と、そういう息子になることも十分可能なんだと思いますし、そうなった時には、次の快適な息子の生活というのは、その骨董を素材にしながら始まるんだろうと思いますので、是非とても大きな資産を、財産を持った弘前市が今後、とても素敵にみなさんと一緒に、素敵な当事者たちによって、素敵に運営されることを・・・!選挙の演説みたいになってしまいましたけれど、期待したい.私が話したかったのは、そういう意味では、主人であるみなさんの所有物である公共財に、みなさんが先程の縁の下の経営者のように関わる可能性というのは、たくさんあるんじゃないか。そうすると、その場所はもっと活き活きするんじゃないか。よくわかりませんけれど、行政が部分的にNPO等に運営を任せることとか、それからたくさんの市民組織が、行政に代わって別の形で、いわゆるコミュニテイ、地域社会を支えることはたくさん起きてきているわけで、そういう中で公共建築そのものは、大きく使える財産として生まれ変わったり、変化したりする可能性を持ってるんじゃないかと。行政の方は、それでいいというかわかりませんけれど、そういう気がして…。「ロイヤルフェスティバルホール」は前川さんとも縁のある建物であったわけで、このお話をさせて頂こうと思って今日お邪魔したというわけです。僕はこの機会にたくさんの弘前の建物を見せて頂いたこと。見ることは料理を食べることのように楽しみだと申し上げましたけれど、大変たくさんの前川さんのお料理を食べさせて頂いて、本当に今回お邪魔して良かったと思っています。どうもありがとうございました。

(司 会)
野沢さまには、建物をどのように維持していくのか、またどのように使っていくのか、そんなことについて、将来に繋げていく仕組みといったものについてお話を頂きました。いろいろな今後の活用の仕方等についてのヒントがあったような感じがいたします。せっかくの機会でございますので、若干ご質問をお受けしたいと思いますが、いらっしゃいますか。何かご質問ございませんか。
ないようでございます。また後で、野沢さまには、対談の方にもご参加いただきますので、その時また、質疑の時間を持ちたいと思います。それでは、若干休憩させて頂いて、次の準備をさせて頂きたいと思います。休憩に入らせて頂きます。

20世紀の終わりから21世紀にかけての私たちの時代、それを特徴付けるものが「産業革命」から今日まで、たった200年ほどの間の急速な技術開発と資源の浪費、それによって大きな問題となって現れた地球環境についての深刻な問題にあることはいうまでもありません。

1972年には早くも「ローマクラブ」*1が地球のエネルギー使用の急成長に警告を鳴らすレポート「成長の限界」を発表していますし、1973年には中東戦争によって石油の供給が止まり生活用品が枯渇し各地で品不足に拠るパニック、いわゆる「石油ショック」*2を経験しています。1992年、ブラジルのリオデジャネイロに様々な人々が集い地球環境について話しあう「地球サミット」*3が主催者も驚くほどの規模で開かれ、NGOなど草の根の人々の参加も極めて大規模で、この問題について広範なひとびとの危惧の共有が示されました。それを受け翌1993年、UIA(国際建築家連合),AIA(アメリカ建築家協会)共催の世界規模の建築家会議も開かれています。そして1997年12月、京都で地球温暖化会議,正式な名前は「国連気候変動枠組条約第3回締約国会議COP3」*4が開かれ温暖化ガスの削減がいかに差し迫った課題であるかが話しあわれました。激しい議論の末に一部の国を除き各国がCO2削減目標の設定をし2005年二月になり参加各国の批准によりやっと発効しました。ちなみにこのとき、わが国は1990年を基準として2010年までに6パーセントの削減の約束を正式にしたことになります。しかしながらわが国においては1997年から今日までの10年ほどの間に約8パーセントのCO2発生の増加を見ているといわれています。今日に至ってはなんと先の6パーセントとあわせ約14パーセントの削減が必要という事態となっているのです。これは週に一日まったく一切の活動を止める、一切CO2発生が無いという状況を作り出すことが求められているということになると考えるべきことなのでしょう。
私たちの時代は地球規模の環境にかかわる諸問題が避けて通れないテーマとして目の前に現れた時代と考えることが出来るでしょう。少しずつであっても私たちはさまざまな分野でこのことのついて工夫と努力をすることを求められているのです。
私たち建築家が直接かかわる建築生産と建築の運営分野のCO2発生がこの国のCO2発生量の00パーセントを占めることから私たち日本建築家協会の建築家も省資源省エネルギー建築を積極的につくって行こうとしています。そして実務のほかに事例集の出版、建築家に向けてのメッセージの発信し*5、また環境につき優れた取り組みをしている建築を「環境建築賞」*6として顕彰する制度を作るなど、さまざまな取り組みを通しこれからの建築家の任務と仕事の姿を模索してきました。

このことについてはもちろん建築にかかわるすべての人々つまり社会の大きな合意があることがとても大切でしょう。建築家自身の取り組みももちろん重要ですが、彼に仕事を発注するクライアントがそうした合意を共有する、そんな社会をまず作る必要があるのです。
様々な分野の人々つまりすべてのひとびとが環境を考えることをポジティブに日常のものとすることがこの問題の前提ということになると思うのです。
今日まで各国で様々な提案がされ、様々な取り組みがされてもいます。特にヨーロッパ諸国はこの問題に敏感であり社会的合意の構築のための試みも活発のように見えます。ヴッパタール研究所はドイツのこうした問題を仕事のひとつとするシンクタンクとして著名ですがそのヴッパタール研究所*7が1985年に発表した「ファクター4」というレポートに私たちは注目しました。そこでは様々な活動に伴う資源使用量とそれに拠る快適さの関係についての興味深い提言をしていたのです。資源使用量が大きければ快適がもたらされるわけではないこと、資源量とそれによってもたらされる快適さの間の関数を物差しにしたらいい、というのがこの提言だったのです。資源使用量とはそれにより発生するCO2量と考えることが出来るでしょう。より少ないエネルギー量により作られる「軽い建築」、断熱気密など建築の性能を向上させその上自然エネルギーを上手に使うなどする「エコ建築」、そうした建築は今日までの建築が考えてきた道の上にありそうに思えます。少なくとも20世紀の建築は「軽い建築」を目指していたのですからこれまでの思考の先に答えがあると考えていいということかもしれないと思うのです。片付けるべきは運用にエネルギーのいらない、しかも快適な建築です。これについてもさまざまな手立てが現れています。

「サステイナブルSUSTEINABLE」、という言葉も、主にヨーロッパの人々の議論の中で使われ始めた言葉のようです。ブルントラント、デンマークの首相であった彼女が委員長を勤める「環境と開発に関する世界委員会」が1987年発表した「地球の未来のために」で始めて使用した言葉ということですが、いつの間にか世界中で使われる言葉となりました。私たちが環境建築集を出版したときにもタイトルを「サステイナブルデザインガイド」としたのです。その時、日本語にすると「持続可能な」という意味のこの言葉の選択が一般に言う「丈夫で長持ちさせる」という意味と幾分違うことを知ることがとても意味のあることを知りました。丈夫で壊れないものを作ろうとすると実は資源使用が増える、CO2発生が増える、傾向にあることは想像がつくでしょう。これを「デューラブルDURABLE」というのだそうです。「サステイナブル」とはその反対で、いわば丈夫でなく壊れやすいもの、つまり資源使用量の少ない「軽い」(しかし快適さを損なわない)建築を運用や管理、エネルギー考えながらを上手に維持し使うことということのようなのです。
今日の社会公共サービスが無駄を排除しサービスの当事者を市民にゆだね私たち市民自身により提案され運営される姿があちこちに見られますが、まさにそうした社会を「サステイナブルソサエティ」の姿というのでしょう。

建物を作るときの資源使用はとても大きいものです。木造住宅は比較的「軽い」のですが今日の木造住宅は立派なコンクリートの基礎の上に建てられるためその重量は50tを軽く超えるのです。建築を長く使い続けることが大切なのはこの事によります。二度三度と建てなおすことは二倍三倍の資源使用と二倍三倍のゴミを発生させます。そうではなく、改築をしながら使い続ける、サステイナブルな建築とはこのことだと考えるのです。
旧東ドイツのライネフェルデという町で、40年程たった団地が見事に再生されているのを見た時、本当に面白いものを観た、と感じました。ソビエト時代の建物はこれからの時代のマスタープランに合わせ最上階を取り払ったり一部の棟を撤去したり様々な手法をとりながら、窓を替え断熱を強化しまったく新しい建物に生まれ変わり町の姿も一新していました。新築でない,改築であるからこそ可能な様々なサステイナブルデザインがそこにあったのです。市長さんの嬉しそうで楽しそうな表情がこのプロジェクトがこれにかかわった多くの人々にたくさんの満足をもたらしたことを示していました。
新築だけが建築であるかのようなこの国にでも80年前のコンクリート建築を見事に甦らせた求道学舎*9の改修のような成果が少しずつ現れ始めています。こうした試みの面白さを建築家にも社会にも知らせ、たくさんの事例が現れ、建築をより快適なものに改修しつつ使い続けることを社会が共有するサステイナブルな社会を目指す、そのために私たちがするべきことがたくさんあると考えています。


*1 1970年3月、スイスの法人として設立された民間組織。財界人、経済学者、科者などで構成される国際的な研究、提言グループ。人類の生存にかかわる問題を研究。
*2
*3 1992年6月ブラジル、リオデジャネイロに110カ国の首脳を中心にほとんどの国の政府代表、110カ国を超えるNGO代表が集まる。「リオ宣言」それに基づく行動計画「アジェンダ21」を採択。
*4
*5 1995年JIA環境行動指針を発表、また2000年に日本建築家協会、日本建築学会、建設業協会など5団体が連名で地球環境.建築憲章を発表している。1995年から1998年にわたり「サステイナブルデザインガイドⅠ、Ⅱ、Ⅲ」を発刊した。
*6 2000年より環境建築賞を制定。最優秀賞00点、環境建築賞00点入選00点を顕彰している(2006年現在)
*7 ドイツ連邦共和国、ノルトラインヴェストファーレン州が設立、正式には「ヴッパタール気候環境エネルギー研究所」初代所長はエルンスト.U.フォンワイツゼッカー
*8 1995年 E,U、ワイツゼッカー、エモリーロビンス等によって刊行。
*9 2006年近角真一近角00により再生された19mm年竣工武田五一設計の寮がコーポラティブハウスに再生された。70年の定期借地を加算するとこの建築は少なくとも150年の寿命となる

団地再生 
住み手が住まいをつくる       野沢正光


ベルリンの壁崩壊後の旧東ドイツの大団地は、人口急減を受けて、適正規模へと容積率を減らすことで再生を図った。このことを知った建築家は、日本における団地再生に関心をもつ。団地再生の主人公は誰か。日本のある団地では、お金、コト、人も住み手が自ら動かしながら、団地の生活を運営する試みが行われていた。


団地再生というテーマに出合う

 団地再生研究会というNPOを始めて四年が経ちました。NPO法人になる前の活動を含めると六、七年になります。 
 きっかけは、ライネフェルデという団地を知ったことです。この旧東ドイツの団地が大変に面白く再生されていることに驚きました。僕がなによりびっくりしたのは、二〇年ほど前のベルリンの壁崩壊に伴って、露呈した東側の社会の弱さです。西側ではふつうのことである減価償却という考え方が社会主義国にはなく、たとえば機械を更新するなどの維持管理の仕組みがまったくなかった。東ヨーロッパには、確か六〇〇〇万戸ぐらいの大型パネル工法によるプレキャストコンクリート住宅があって、そこに二億数千万人が住んでいたと言われますが、その住宅が廃墟になりつつあった。東ヨーロッパの団地は産業とセットですから、工場と住宅団地の両方がくたびれていく、それを建て直し再生する試みを統一ドイツの連邦政府と地方政府がいろいろと行っているのですが。ライネフェルデはそのモデルケースというわけです。旧西ドイツ側の建築家も参加して従来の「東」と異なる考え方でいろいろな手法を試している、それを見に行ったわけです。
 
床を増やさない「減築」という手法

 ライネフェルデでのそれは、ハードの再生としても面白くて、その手法もユニークでした。具体的には、「減築」と僕らは名づけたんですが、最盛期の人口が二万数千人であったものを一万数千人に減らすことを前提に工場を誘致し、インフラを整備しながら、住宅の規模を適正化しています。たいてい五階建てでエレベーターなしだった住宅を、少なくとも四階にするというものです(図1)。
 ここではさまざまな再生が試みられています。たとえば、一五〇?一六〇メートルあった住棟では、ほとんどは中間に階段をもつ「二戸一」と僕らは言いますけれども、その左右に住戸があるというタイプが連続しているわけですが、そのうちの一つおきのユニットを抜いているんですね。つまり、上一層をとって中を一つずつ抜いていきますから、延べ床が約四〇パーセントぐらいになるのでしょう。今までアンチヒューマンな大きな長い壁の連続だったものを、小さな単位のテラスハウスといいますか、小ぶりの住戸に切り替えたものです。あるいは既存の住棟が二つL型に建っている。そのコーナーにエレベーター棟を立てて、左右に廊下を付け足してエレベーターでアプローチできるように切り替えるなどです。さまざまなタイプの住棟実験が実に生き生きとそこでは行われていました。
 
既存躯体の再利用の新技術

 それを見て、日本でもきっとそういうことが必要になってくるという思いを強くしました。新築では起き得ない、再生ならではのさまざまなテクニカルなテーマがここでは発生することにも注目しました。たとえばパネル住宅を切断し、再度耐久性のあるものに組み上げるなどの対応に新築では考えられない、イノベーティブな技術が発生するのです。
 彼らが一生懸命やっているものは、ひと言でいうとオープンビルディングシステムというものではないかと考えます。オランダのハブラーケンが提唱した「オープンビルディング」というのは、要は躯体のシステムと、設備系をきちんとつくっておいて、間仕切りとかそういうものは可変的に考えるシステムです。
 このシステムは、もともと「サポート」と「インフィル」という言い方をしていまして、これを日本では多くの場合「スケルトン」「インフィル」と言いますが、サポート(スケルトン)というのは躯体など主要部のことで、インフィルというのは、造作といいますか、間仕切りとかそういうものに当たるものなんです。実はオープンビルディングシステムは「サポート」「インフィル」の前提として「アーバンティッシュ」というレベルを考えるもののようです。ティッシュというのは、僕らはちり紙のことをティッシュと言いますが、大きな、インフラと言ってもいいのかもしれないけれども、道路や産業基盤など「網目」のことをいうようです。ライネフェルデでは、産業をどうするか、交通網をどうするか、それから住宅を適正にするにはどうしたらいいか、それから緑をどうするか。つまり「就労」と「環境」と「居住」の三つの主張を「アーバンティッシュ」としているようでした。そのうえで、マスタープランを何度も何度も修正しながら計画を進めていました。


ヨーロッパの巨大団地の再構築

 EUとりわけドイツの中でもライネフェルデは一種特化した実験なんだろうと思います。つまり、ライネフェルデでやってみて、今後どうするか。再生のできない住宅団地もいっぱい出てくると思います。ドイツではライネフェルデの他にもいくつか実験がされていますし、団地の再生はヨーロッパ各地で起きているんですね。
 一九六〇年代から七〇年代につくられた団地の再生に一番最初に手をつけたのは、イギリスのサッチャー政権です。サッチャーがいわゆる巨大集合団地??僕らの世代にとっては、大学で習ったとても大事な資料みたいな団地でして、グレーター・ロンドン・カウンシル(GLC)という組織が、これらの団地やニュータウンをつくったわけです。これらの多くは「空中歩廊」に象徴される大型高層の連続する住棟群を一つの特徴としていましたが、それが、「バンダリズム」(一種の暴力的破壊)の根拠とされ、サッチャー時代にアリスコールマンの指摘により「再生」されることになるのです。
 たとえば、長大な住棟を小さな単位に切り替える、長い空中廊下を切断し住棟を分離する。入口にセーフティのための居住者だけが入れるロックをつける。それから均一のオープンスペースだったところを切り取って個人の庭に切り替えたり、小さなパスといいますか道路に切り替えてオープンスペースを多彩な場にするなどが行われたのです(図2)。僕らにとってはGLCのそのころの集合住宅は実はすごく素敵なものなんです。広々としたグリーンの中にタワーがぽんと建っているとか、長い住棟がその中に配置されているというような感じで、いわゆるパブリックなスペースとプライベートな住棟だけのこれらの団地が管理、安全の面から問われることになったのです。それらを管理可能な安全な場所に切り替えていくことをイギリスでは劇的にやったのでしょう。
 もう一つ典型的なのはオランダの事例です。アムステルダムの郊外ですが、ベルマミーア団地では、蜂の巣状に八〇メートルか一〇〇メートルぐらいの住棟が連続しつながっている。そこの間に、八〇メートルの線で六角形を描いた大きなオープンスペースが交互に存在するみたいな団地でしたが、壊すものは壊し、切断するものは切断して再構築していました(図3)。社会的な変化についていけなくなったこととか、老朽化も一部あるのかもしれませんが、むしろ居住する仕組みが変わってしまったことに対して、大胆な対応となっています。
 これらいくつかの事例を数度にわたり見た、それが僕の団地の再生、都市の再生への興味のきっかけでした。これからは日本でもこうした再生が大きなテーマになっていくだろうとも思ったわけです。

歩いてわかった団地の価値

 団地再生研究会は身近な活動として「団地を逍遙する」という企画をずっとやっています。歩いてみると、住宅団地の周辺の環境が劇的に変化しているのに改めて気づきます。四〇年前、森や畑の中にぽつんと建っていた団地が、いつの間にか建て売り住宅に取り囲まれ、団地の敷地が逆にオアシスのような濃い緑地になっているのです。とても面白いことがいっぱいあります。たとえば、当時公団が住宅団地として開発するときに、公団が守るルールがあるのです。敷地からいっさい土を外に出さない、買収した土地と周辺の高低にはいっさい触らない、などです。このルールでやっているものですから、初期の団地は地表の起伏がとても上手に使われている。公団の団地の計画手法も当事者によりさまざまに異なっています。
 それがなかなか面白い。しかし、それとは逆の例もあります。たとえば、草加松原は畑の中につくったので、真っ平らな、言ってみれば単調な団地です。計画学の教科書的には優れていたみたいですね。住棟間の日照のための距離だとか、そういうのが優れているらしいんです。だけど行ってみますと、一列に全部並んでいますから、住棟は羊かんのように切れていても、一列に並んでいるのを反対側の窓から見ますと、壁のようにしか見えないんですね。切れ目が見えない。だから前を見ても後ろを見ても、自分の住戸からは連続した壁が見えるという、非常にアンチヒューマンであまりに評価できないものもあるのです。
 他方、公団旧東京支社の人は、「自慢じゃないけど」という感じで言うわけですが、住棟配置と敷地の勾配をすごく考えている。一例を挙げましょう。百草・高幡という団地は、すごいです。当時、公団にいた津端修一さんもかかわっています。当時、彼らは三〇歳そこそこぐらいでこの団地のマスタープランをつくっていますので、現在まだ八〇歳になっていない。彼らと一緒に団地を逍遙しながら、いろんなことを教えてもらう。そうした中で改めて、当時の団地というのは十分考えられつくられているもので、今でも十分鑑賞に堪えることを僕らは教わった感じがするんです。
 当時の団地は、住戸の設計はすべて標準設計ですから、それ以外の住棟設計はあり得ません。それを少なくとも「二戸一」で設計しなきゃならないのです。彼らはイギリスのGLCの研究や成果ももちろん知っています。どうやったら日本でも彼らの思想を取り入れた計画が可能か、またコミュニティがつくれるだろうかと、住棟を少し囲い込んだり、いろいろ工夫したいわけですね(図4)。それをこの地形の中でなんとかやってみようとします。住棟を囲い込んだ配置としてその中に車道を入れて、車と歩行者の動線を分けるなど原理的な試みをいっぱいやっているんです。
 戸単位の標準設計をベースにしながら、階段のつくり方に工夫を加える。百草は、階段の図面だけ山のようにありました。たとえば、標準設計の住戸を勾配に合わせて半階分ずらしながら、角度を付けて置く。ですから階段のパターンだけすごくたくさんあるわけです。敷地勾配に合わせて、半階ずつずらしながら等高線に合わせてずっと上っていくなどの試みをやっています(図5)。
 隣接する高幡は百草以上に大変なところで、北斜面なんです。ゆっくりした北斜面に大きくラウンドした標準設計の建物によって大きいカーブをつくり、斜面を南に上がっていくところに別の住棟が建っているという構成です(図6)。そこも無理していて、敷地の中に限られた棟数しか入らないものですから、巨大な住棟を一つぽんと建ててこなしていますが、緑に囲われて人が入りにくい側の今日の緑の量は、ものすごいものです。今は発生した空き家に若い方が入居しているようです。、つまりお子さんを育てるのにすごくいいようで、若い方がかなり住んでいる感じに見えました。
 こういう流れで、昭和四〇年代ぐらいまで団地がつくられていく。改めて団地を見ながらみなさんに知ってもらいたいと思うのは、四〇?五〇年ぐらい前の公団住宅団地はかなりきちんとした計画がされていたということです。今、こうしてつくられた団地が建て替えられようとしていますが、ここでの設計、計画は四〇年前のそれに比べとてもひどいと言わざるを得ないものが多いのではないかと思うのです。公団は幾多の変遷を経て現在、UR都市機構となっていますが、ひばりが丘をはじめいろいろなところで建替えをやっています。新たな住戸の提案ができないというルールになっていますので、既存のプランをそのまま踏襲したプランで、建替え事業というかたちでつくり直しているわけです。それで住棟を高層化集中させ、残った土地を民間に売ることもあるわけです。売ったところは民間ディベロッパーによる開発で、緑もなにもない計画になるという事態が起きます。
 公団が賃貸の建替えをやって住棟を高くして緑を残しても、公団の別部隊がその横に、敷地内で三階建てぐらいの立体駐車場をつくります。これが存外大きい面積を占めるのです。だからいくら住棟の面積を集約しても、もう一つの大きな工作物の出現で、公園のような緑の公共のスペースはなくなってしまう。私の見るところ、そういう事例が今行われている建替えのようです。僕らは公団の敷地というのは誰のものなんだろう、公団がなんでここでまた事業をしないといけないのと思わざるを得ません。
 批判として言うのではありません。ライネフェルデに見るように、継続してきた智恵、それを生かして、新しい智恵を生み出すことの楽しみは関係する多くの人々で共有すべきではないかと思うのです。
 ぜひみなさんには逍遥に参加していただき、昭和四〇年代の団地づくりにかかわった人たちが夢をもって絵を描いたこと、その作意をぜひ記憶にとどめておいていただきたいと思っています。

リノベーションで躯体の寿命は一四〇年超

 これは今、大変注目されている事例ですからご存じだと思いますが、学生寮「求道学舎」を建築家の近角真一さんがリノベーションされました(図7)。求道学舎は築八〇年。東京で一番古いRC造建築の一つと聞いていますが、武田五一という関西の有名な建築家がつくったものです。ここは近角さんの祖父、近角常観がつくった仏教のいわば「教会」と学生寮です。常観は檀家のいない仏教指導者で、ヨーロッパへ行って教会を見て、日本でもああいうところで説教するという仕組みで仏教の布教もやれるのではないかと、つくったものが求道会館で、背後に立つ求道学舎は、若き仏教学生の寮でした。これが、放置されていた。
 ここを宗教法人がもち続けるために、リノベーションすることになり、コンサルタントの田村誠邦さんがコーポラティブ住宅のシステムをここにもち込むことを提案、近角さんと田村さんが知恵を絞ってこの求道学舎のリノベーションを実現させました。
 土地については、六〇年の定期借地を設定し、それ以降の二年間は経過措置として賃借権があり、つまり六二年後にはもとの宗教法人に土地が戻るというルールです。そのときに、コーポラティブの所有者は、建物の所有部分の価値を売ることになります。これは、土地を売ることなしに再生プロジェクトが、お金も含めて成立したという、日本では珍しい例だと思います。
 求道学舎の躯体は構造耐力を調査し耐震性を検証、躯体以外は解体撤去され一部の構造壁は新しく設けられました。そのうえで、新しく住戸がしつらえられたのです。廊下の幅が非常に広かったので、その廊下の部分も住宅に切り替えています。もともとあった階段を使って、上下でメゾネットに切り替えた部屋もあります。
 二つの寮室を合わせて一住戸に変えたり、広い廊下と合わせ、らせん階段を設置してメゾネットに切り替えるなど全館を住宅に切り替えたのです。「再生」の特徴で周囲の大きな樹木などの環境が守られ、一新した建物と見事に調和しています(図8)。
 八〇年前の躯体といえども見事に再生できることを実感していただける、わが国でのかなり希有な事例ですね。わざわざライネフェルデまで行かなくても、この事例で再生の可能性、有用性は十分わかるはずです。
 
躯体を使い続けることがCO2削減の近道

 求道学舎の再生は、を五〇パーセント削減するという課題に対して建築のフィールドで何ができるかのすごく大きなヒントだと思います。
 公団は求道学舎の半分のたった四〇年しか経っていないのに壊す。仮に、四〇年ごとに建て替えるとすると、求道学舎が再生によって保証された八〇プラス六二年つまり一四二年の間に四回建て替えることになります。建築における排出量は躯体だけで、全体のたぶん八割五分ぐらいを占めます。単純にいうと四回建て替えるとが四倍増える。そのうえ解体による三回分の排出量が加わる。
 建築では、使い続けること、特に躯体を使い続けることが排出量の削減にもっとも貢献することになるのです。僕たち建築家、また一般の人にもぜひ、直す方法や再生する方法、そしてそれによってその快適度はいくらでも上げることができることをぜひ知ってもらいたいと思います。また、建築家も、直す、使い続けるための、メニューや使い続けながら建物のクオリティを上げるための技術開発に取り組んでいく必要があると思います。

コンバージョンでよみがえった中学校

 東京・足立区に、「3年B組金八先生」のストーリーのモデルになった中学校があります。この築三〇年の学校を足立区は民間にプロポーザルで払い下げたのです。いろいろなプロポーザルの提案があったと聞きました。結果、東京未来大学という、福祉系の単科大学に切り替える案が選ばれました。
 これが堀端に立つ既存の建物ですね(図9)。この学校法人は、圓山彬雄さんという北海道の建築家に計画を依頼して、これを大学に直すというプロジェクトに取り組み、ついこの間竣工させました(図10)。
 耐震性を上げるために、L型の校舎の二つの面に耐震壁がつくられました。ここでの再生は、躯体にとどまりません。何と床は、昔の建物で使われていたナラのパーケットのフローリング、それをもう一度ポリッシュしまして、だめなところだけ取り替えて、すごいきれいな、時間のかかった床がちゃんとできているわけですね。
 プールがあったところは、改修で大教室となりました。通例として解体されることの多い、三〇年そこそこの学校が、こういうかたちでもう一つの用途に切り替えられて生きていく。
 新たに、足りなかった構造壁が取り付けられ、便所は全部やり替えています。エレベーターを付けたり、もちろん図書館、本部、研究室、食堂ホールなどの建物を旧校庭に新築するなど、いくつかのそういう作業をして、機能を満足させて、文部科学省の基準にも合う単科大学として生まれ変わりました。
 こうしてみると、そろそろ日本でも建物を再生しながら使っていくことがメニューに入ってきているという気がします。紹介したのは、一つは住宅で一つは学校でした。しつらえはボロになっていたり、表面がボロになっていたり、場合によっては性能が悪い、サッシュが悪いとか、断熱が足りない、機能が変わったなどがあっても、躯体はボロになっていないのです。補修・補強でなんとかなるはずの躯体と考える力さえあれば、改修のやり方はいくらでもあるのです。 

団地再生に不可欠な制度と仕組み

 求道学舎のプロジェクトが、なぜ成立したかというと、所有者を一人に絞ることができたからです。ただし、頭が痛いのは、金銭面でした。銀行は区分所有という仕組みには金を貸すのですが、この仕組みは、維持、管理、建替えではとても不便です。
 僕がよく知っている多摩ニュータウンでは、いくつものNPOがあって、そのNPOが自発的に団地の経営をしていこうとがんばっています。非常に有能な金融マンだとか非常に有能な各種の専門家や建築家もいます。
 たとえば、例のペイオフでの上限一〇〇〇万円までの預金保証の話のときも、各団地の管理組合は非常に困った。大規模修繕積立金が、場合によっては何億円あるという団地は多数あるわけです。もしも一億円もっていたら、リスクを回避するために、一〇口に分けなきゃならない。一〇口に分けた金を管理することは、それだけで大変なことです。多摩ニュータウンに住む外資系企業に勤める人が、信託化を提案するということがあったと聞きます。このように、知恵は団地の中に、たくさんあるわけです。そういう人たちが、団地を自らのフィールドにして金も動いて、人も快適に住んで、運営自体を自分のものにしていくことを積極的に考え始めているようです。
 釈迦に説法ですが、たとえば一団地認定という仕組みは、つくるときは都合が良くても、建替えを含めて団地再生を考える際にはネックになる。新築ばかりを考えたときに都合の良かった制度、仕組みが再生の時代の足かせになっていることは本当に残念です。新しい仕組み、制度、考え方の創出こそ急務です。
 極端ですが、団地から人がいなくなったら公園に戻すようなことがあってもいい。つまり、共有の場所として、四〇年人を住まわせながらこんなに大きな緑にしたのだから、ここは市民の共有の緑地だという格好で、団地が緑の公園に変わっていく、所有はずっと市民だったということにできる、こうした制度とか仕組みの創出があり得ないだろうかと思います。
 これについては、一八五〇年ぐらいにできたナショナルトラストというイギリスの制度が参考になります。オクタヴィア・ヒル、ロバート・ハンター、キャノン・ラウンズレイの三人によって設立された。貴族たちが農村にもっていた広大な敷地などを共有財産(コモン)として次世代へと引き継ぐ仕組み制度を古くからある入会権を根拠として考えたわけです。コモン、共同で使用している権利のほうが、所有する権利の上にあることを理屈づけるんですね。一方で破壊が起きると、その一方でそういうカウンターの動きが起き、理屈をきちんとつけて、なるほどと思わせ社会化するというようなことがあった。日本でどうしたらそうした発想を実現できるだろうか、そう思うのです。

清家さんについて                              『住宅建築』2007年1月号
学生のころ、友人と坂道を登りながら清家さんの家を探し探し見つけだして覗き込んだことをそのはじめとして、かなり以前から清家さんの初期の住宅のいくつかを見ている。「森博士の家」「斉藤助教授の家」「宮城音哉邸」「秋山さんの家」それからいうまでもない「私の家」「続私の家」などだ。そしてそれらのいくつかについては、数度にわたって訪れる機会を持っている。特に真鍋弘氏が「建築知識」編集長であったころ数度にわたり取材を兼ねて清家さんにお目にかかり話を聞きながら濃密に訪れた「私の家」を懐かしく思い出す。
何より清家さんの戦後すぐに始まるいくつもの小住宅のほとんどはこの国の住宅に珍しく今日まで現存し健在である。過去、何度か訪れることができ、うまく行けば今日でもまた赴くことが可能なのは何よりそれが今日そこにあることによっている。清家さんの住宅の多くはクライアントの意思で壊されることがない住宅であったのではないか。なぜそうだったのだろうか、一般に規模の小さな戦後すぐの住宅の多くは生活の姿が変わる中でその寿命を終えていった。そのなかで彼の住宅は偶然、まれに、運良く、愛され使い続けられている。もちろんこれに尽きるのだろう。抑えられたヒューマンなプロポーション、モダンなデザイン、これだけでは清家さんの意図を類推しながら手繰り寄せ納得できる説明にしたということにはなるまい。たしかに清家さんが今日生きていたとしても彼は笑いながら「運がいい」としか言わないだろうとも思うのだが。
若き清家さんはこれ等住宅の発表の折にもっと丁寧にそれらについての説明を試みている。以前取材の折、そうした記事を僕なりに読み直したことがある。「架構と舗設」それはその中で見つけた、なるほどと思わせるキーワードであった。清家さんの設計の家はこれらの分離が極めて顕著である。最近残念ながら解体されたと聞くがあの宮城音哉邸では家具、間仕切りなど「舗設」(清家さんの言う「ほせつ」とは「設え」=「しつらえ」のことだろうとおもう、この稿では「設え」とさせていただく)のほぼすべてを渡辺力に委ねてさえいる。「架構」を「設え」と意識的に分離する、これにより自在な室内が家族の生活の経過する時間なか、当然起こりうるさまざまな模様替えの要求にこたえることを可能とし、それが住まいの陳腐化をもたらすことなく、長く使われ続ける。これが第一の理由なのではないかと思う。
「架構と舗設」は今の言葉で言えば正確に「サポートとインフィル」こうなるはずである。オープンビルディングシステム、架構と舗設を分離する。私がこれをオランダのハブラーケン等の構想であり、社会住宅設計建設の主要なツールであると知るのはわたしが 20代の後半のころであり、大学同期の才媛、中澤富士子氏による詳細な紹介記事が特集された「都市住宅」1972年9月号の中であった。仮にハブラーケン等のこうした思考が戦後すぐのヨーロッパに既にあったと考えても清家さんの思索はいかにも早いと言えるのではないか。

清家さんが海軍機関学校の教官であったころ、たくさんの格納庫を設計したと聞いたことがある。「架構と舗設」はそれをルーツにするのかもしれないと思うことも可能だ。格納庫はサポートだけがある建築だろう。どう考えても格納庫に作り付けの家具や間仕切り、つまり「設え」はありえない。
そして、もうひとつ50年代の清家さんの設計する住宅に設備されるパネルヒーティングについてである。自宅のそれは特によく知られている。彼はそのころから「温熱」のための装備を必須のことと考えているように見える。戦後の最貧の時代、小住宅の室内気候をサポートし快適な室内気候をもたらす床暖房を必須とする建築家はほかにそうは見当たらない。ぼくはそれを彼の住宅が長く使い続けられたもう一つの根拠ではないかと思う。建築が作り出す気候である。これも実は格納庫につながるのかもしれないのだ。格納庫には戦闘機がいつでも飛び立つことができるよう暖房があったとの話も清家さんから聞いたものように記憶する。ただ、清家さんの話はどこか幾分怪しいにおいとニヤッとしたくなるユーモアをはらむものであった。どこまで本当であるか、私に確たる証拠があるわけではないが。
奥村昭雄、この人も私のより近い先達である。奥村さんとは20年を超える昔「ソーラー研」と称しああだこうだと議論をしながらパッシブソーラーシステムを考えた。この人が戦時中、舞鶴の海軍機関学校で清家さんの教えを受けたと知ったときはそのめぐり合わせに驚いた。不思議なつながりである。しかも建築のフィジックス、特に温熱を興味の中心としているところが似てもいる。そう考えると僕はいつの間にかこの二人の思索に親近なものを僕自身がもっていたことに気づく。考え試みるフィールドが重なっている、と気づくことになる。「住宅は骨と皮とマシンからできている」という本はこの辺を頼りに書いたものだと思う。骨と皮とはスケルトンであり架構である。そしてマシンとは気候コントロールのための装置のことである。
時代が思索を開く。この二人は私の周辺にさまざまな形で存在する人々のひとりひとりであり、思索のひとつひとつであった。それは書籍でも映像でもないじかに応答することのできる、等身大の身体であったのだと思う。私はたまたまそれに遭遇した。そしてそれが私の主要な部分を作ったのだろうとおもう。

ここで私自身の自宅を見よう。まずは「架構」=サポートを。高さのない、がらんどうの架構である。鉄骨である。コンクリートブロックの壁がある。ハブマイヤートラスがある、床下に太陽熱を空気で送るシステムがある、既製品がまれにしか存在しない。さまざまな思索のモンタージュをここに見ることが可能だ。清家さんがいる。奥村もいる。吉村、イームズ、上遠野徹さんがいるのだ。「設え」=インフィルを見よう。それらは「架構」と明確に分離され手いる。設計に伴って計画された間仕切り家具などの多く、外部の庇などにいたるまでどれも取り外し可能である。ちなみに集められた椅子は奥村さんの手になるもののほか多くは清家さんの家にもあるモーエンセン、ウエグナーなどデンマークのものだ。

清家さんに教えられながら思う。「架構」を構想し「気候」をデザインする、この二つを解くこと、「使い続ける住宅」に求められる課題は突き詰めるとこういうことになるのではないか。住宅の中に改めて「架構」を構想することは「設え」をそれから意図的に分離することになる。それは「設え」の短期での変更、改変を可能とし「架構」の100年を超える存在を可能とするのではないか。そして「架構」の中に作り出すべき「室内気候」は人々の快適な生存のための環境として必須となるのではないか。
そしてそれは最小の資源使用量によって、住まいが慎重に作られ、飽きられることなく長く生活を快適に包み、結果として改修されながら長期維持されること、「サステイナブルデザイン」につながるのではないか、と考えるのである。
清家さんの家は見事にそれに対応するものと思う。この二つが明確に意図されることのない建築がその対極にある。
「気候」、過去、伝統建築はわれわれの住む日本が比較的温暖であると考えること、無意識の「我慢」によって「気候」に対峙することの無い建築であることを特徴とするものであったのかもしれない。「気候」は建築によって作られるのではなくコタツ、火鉢または衣服により局所的に作られるものであった。もちろんその時代、今日の「快適」はイメージとしても存しない。
「設え」、伝統木造住宅において軸組みが「設え」そのものとまったく重なっている事に気づく。伝統木造住宅は間仕切りつまり設えが直接大地に露出し、屋根がかけられたもの、と捉えることができるのではないか。横架材までの厳密さに比べ小屋組みが自在でどうにでもなるいいかげんなものであるのもそのせいかもしれない。住宅寿命が今日に至るまで「設え」の変更のスケジュールに似たものであることも必定であったと考えることもできるのではないか。我慢が普通であった長い間、人々はそうしたささやかな「すまい=設え」を維持し生活を営んできたのだろう。初期のコンクリート造公団住宅の中にはまさに木造住宅が正確に設えられていたことを思い出す。
家とは、人々にとり、それは生まれる以前からすでにあるものである。家を構想するときすでにあるそれが大きな起点となることはごく当たり前のことだ。我慢ができなくなる中、露出する「設え」を暖房するのである。このことがいかに無益で非効率でとんでもない非効率な営為であることかが気づきにくい。「サポート」「架構」とは熱的性能をも含むシェルターのことである。そしてそれなしに今日的意味での建築が存在しにくいことを意図的に理解し確認しないまま長きにわたり「設え」にさまざまに意匠が凝らし、それを建築的営為と考える、室内気候をまったく射程にしないものであったと考えることができるのではないか。

説得力ある過去の根拠、論理を鑑賞しその上に冷静な思考をめぐらせる、独創とは実はそうしたものなのではないか、と強引であることを多少覚悟で思うのだ。建築は技術であり、気候であり、科学である。そしてそれは最小の資源により快適を求めるさまざまな科学、工学と同衾するもののはずである。建築は構築(バウエン)であってほしい。グロピウスが清家さんに見たものはまさにそれであり、それによる共感であったと思う。またバウハウスの思索は吉村に清家にそして奥村に通底するものであったと考えて不思議は無い。あの時代の建築が比較的ささやかであること、そして大きい開口部と低い天井を持つことが、ヒーティングのため、ダイレクトゲインのためであったと考えることをたのしみとすべきであり、それが結果新しいプロポーション、新しい「美」を生んだのだと理解すべきなのであろう。そこからは新しくそれから連続し成果を挙げる思索が生まれることになったはずである。いまさらいうまでも無いが師と仰ぎ結果としての造形に無思考に憧れ、絶対の「美」にそれを押し上げる、いわば伝統の芸の宗家と弟子のような固定、それからは新しい思索は生まれるべくも無い。清家さんに学ぶ楽しさを思いながら、考えることの充実を思う。

東京中央郵便局庁舎は、創建時の姿に復元されることになった「東京駅」や、改築された「丸ビル」などとともに私達市民は、何とかして残して(全面保存)丸の内の顔として存続・活用してほしいと、常に想い続けてきた建築です。
建築学会、JIA、DOCOMOMO Japanなどの建築の専門家からも、数回におよぶ保存要望書が提出され、3回に渡って(そのうち1回は大阪で、大阪中央郵便局が中心の)保存の為のシンポジウムが開催されました。
また党派を超えた国会議員連がこの建築の存続を願い、「東京中央郵便局を重要文化財にして保存・活用する国会議員の会(略称)」を組織し、この問題に関しての勉強会を行い、先般河村たかし議員が国会で質問して文化庁より、重文指定 の用意はあるとの回答を得、公式文書として記録されました。
一方この東京中央郵便局庁舎の高層化については、昨年来郵政の中に「歴史検討委員会」(非公開)が 組織されて、4回に渡って委員会が開催され、近々答申がなされることになっております。
私達は、この建築の存在することの大切さを、郵政関係者だけでなく広く社会に伝えるために、
『東京中央郵便局を重要文化財にする会』を設立することにしました。
つきましては下記にて発起人会を開催しますので、是非ご参集、ご協力をお願いします。なお当日ご都合つかないが、発起人になってくださる方がいらっしゃいましたら、是非その旨お知らせください。

日時  3月25日(火) pm6:00―8:00
場所  憲政記念館 第2会議室 
     (東京メトロ 丸ノ内線・千代田線
国会議事堂前駅下車 2番出口より徒歩7分 有楽町線・半蔵門線・南北線 永田町駅下車 2番出口より徒歩5分)
〒100-0014 東京都千代田区永田町1-1-1
         TEL 03-3581-1651
恐縮ですが、下記に○をしてご返信くださいませんでしょうか
  出席    欠席
  当日参加できないが発起人になる
お名前と所属


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「東京中央郵便局を重要文化財にする会」設立・発起人会の呼びかけ人(順不同)
前野まさる(東京芸術大学名誉教授)
鈴木博之(東京大学大学院教授)
兼松紘一郎(建築家、DOCOMOMO Japan幹事長)
多児貞子(赤レンガの東京駅を愛する市民の会)
山本玲子(全国町並み保存連盟)
秋山信行(建築家)
南一誠(芝浦工業大学教授)
       内田青蔵(埼玉大学教授)
       川西 崇行 (早稲田大学教育・総合学術院講師)
       木村民子(前区会議員)
        小林さえ(港区在住)
       ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
問合せ先(申し込み先)多児 貞子 E―mail:s_tani@t.toshima.ne.jp
            兼松紘一郎 E―mail:kk01-kad@kt.rim.or.jp

住まいは住む人がつくる

 住宅団地は誰のものでしょうか。住宅生産振興財団の『家とまちなみ』という冊子の記事を読んで僕はこれじゃないかと思った。そこでは、埼玉県狭山市の新狭山ハイツが紹介されていました。このレポートはすごく面白い。この記事を書かれた毛塚宏さんという人がすごいと思いました。僕と同い年で、一九四四年生まれ、東京農業大学出身のこの人がこの団地での充実した活動のコアなんだと思います。
 ここは、三〇年ぐらいの前の民間分譲団地で、五・六ヘクタールの敷地に、五階建三十二棟の建物が建ち、七七〇世帯(一、八三〇名)が住んでいます(図11)。できて一〇年間ぐらいは、やはりただのふつうの団地だったらしい。ところが、ここに住んでいる毛塚さんたちが中心となり、シイタケ園、多目的広場、わくわく自然園、まち角広場だとか花壇広場を次々に整備し、商店街までつくりました。団地開発のときの遊水池で市の用地になっているオープンスペースを使って、毛塚さん自身農業が得意だということがたぶんすごく大きいんだと思うのですが、いろいろなことをしているのです。
 共有財産を保全する管理組合とコミュニティを運営する自治会があり、その下に、「子育て」「福祉」「文化」「環境」の各部門に分かれ、たとえば「生ゴミリサイクルを考える会」だとか「楽農クラブ」は環境部門に入っています。これをつないでいるのが農業なのですね。
 事業内容として、緑化の管理運営だとか、ビオトープの管理運営、生ゴミのリサイクル??これは団地の生産物のあるところ、生ゴミですね。それから肥料づくりだとか、共同農場の運営などの事業を基本的にはグループをつくり非常にフレキシブルに行っている。
 僕の事務所のスタッフに、最近の状況を撮ってきてもらったのが、この写真です(図12)。長年の緑化推進本部による取組みで、緑豊かな今の団地の状況ですね。これは、団地の入口の防火水槽の上に木製デッキを敷いて花壇広場にしているところです。
 生ゴミ処理の機械を持ち込んで、コンポストをここでは年間三トンつくっている。
 「わくわく自然園」は、調整池。六〇〇〇枚のコンクリート平板をはがして自力でつくったビオトープです。楽農クラブは共同農場をもっています。やっぱり住まいは住む人間がつくるものなのですね。
 この人たちが三〇年を超える生活を通して、団地の環境をつくってきたわけです。居住だけの、切り取られた場所じゃなくて、ここでは土日もここにいてたぶん面白いし、いろんなポジティブな生産が行われています。うちの事務所のスタッフは、スナップエンドウをもらって帰ってきましたが、すごくうまかったと言っていました。
 「ふれあい広場」は、もともとテニスコートだったところをつくり変えたものです。毎年、夏祭りが行われています。
 こんな感じで、ここでは、お金も動いて、コトも動いて、人も動いて、団地の生活が運営されています。最近の学生は、コミュニティだ、コミュニティだと卒業設計の課題で言いますけれども、コミュニティとは、こういう個性のことなのかもしれないなと思わせる面白いことが、実際起きている。そうすると、最初は、ただの羊かんが並んでいるように見えた団地も、非常に個性のあるものになっていく。
 
住民自らが団地を経営する

 先ほど申しましたように、多摩ニュータウンなどでは、団地を経営する場所として、金も動き、金も生まれ、人も動き、モノも動くという場所として、自発的に経営していく動きがたくさん起きています。特に多摩と高蔵寺と千里、あるいはつくばのように大きい団地は、団地の中で、当事者同士の話し合いやお互いに元気づける試みも実際に起きています。
 市民参加型というよりも、市民そのものが主人公であり、責任をもち、場合によっては手柄を自分たちのものとし、失敗を恐れなければ、社会も大きく変わりそうです。それと同じことが団地の中でも当然起きてくるでしょう。団地には考えることのできる人たち、あるいは社会的経験を積んだ人たちがたくさんいますので、その人たちが団地を経営するというか、そこをマネージしたり、自分の能力を生かして何かする人たちが出てくれば、いろいろな個性ある団地が生まれてくることになるでしょう。

変化のダイナミズムと団地再生

 朝日新聞の日曜版の付録の「be」に「あっと!@データ」という小さなコラムがあって、一〇〇年ぐらい前の日本で人口が一番多かった県はどこか、というのがありました。いったい、どこだと思いますか。
 新潟県なのです。つまり、農業がいかに優位な産業で、いかに豊かな暮らしをつくり出し、経済的な力があったか、いかに労働集約型であったか、ということを物語っています。
 今では、新潟が日本で一番人口が多かったことを想像できない。僕がびっくりしたのは、そのぐらい世の中はダイナミックに変わったということです。今後もまた非常にドラスティックに変わる可能性がある。だから、都市とかまちが、これから変わっていくことについて歯止めをかけることができるかどうかもわからない。
 団地が消えていくかもしれないとも思います。大きく、別の変わり方をここから先、相当なスピードでする可能性がありますから。そのときに、生活の場所をどうつくるのかということが、すでにある団地をどう再生するかということにつながっていくのかも知れません。僕たちがつくり変えることを非常にクリエーティブにできたら、大変面白いことになる可能性があると思います。


【松隈】今回は、「前川國男と都市」というテーマをかかげました。前川國男は都市をテーマにした建築家ではない、と一般的にはいわれています。しかし、前川は、最終的には、一つの建築の中に都市的なものをいかにしたら織り込めるか、に設計作業を集中させていったのであり、やはり都市は大事なテーマだったのだと思います。「輝く都市」を構想したル・コルビュジエに学んだ前川國男は都市をどう考えたのか。今、都市の問題はいろいろな意味で混乱しており、切実に解決策を見つけなければならない難しい時代です。前川がテーマとした都市とは何か、そして、現代の都市をどうするのか、を考えてみたいのです。
 今日、お招きした野沢正光さんは、大高正人さんに学ばれました。大高さんは、前川の下で、「神奈川県立図書館・音楽堂」や「東京文化会館」を担当し、独立後は「多摩ニュータウン」など、都市をテーマにしてきた建築家です。野沢さんは、大高事務所では、広島の「基町高層アパート」を担当し、世田谷区の宮之坂駅のコンペでは一等を取り、集合住宅や駅という視点から都市のことを考えてこられました。
 もう十年以上も前のことですが、一九九二年に、「神奈川県立図書館・音楽堂」の取り壊し問題が起きました。そのとき、野沢さんは保存運動の中心になって活動された。それは音楽堂が残る大きな力でした。その経緯を、私は後ろからずっと見ていました。
 また、その少し後の一九九七年に、前川が都市居住をテーマに設計した「晴海高層アパート」が、再開発で姿を消しました。情けないことに、跡地は駐車場になっています。そのときも、野沢さんが建物の大切さを訴えていました。そうした前川建築との関係からも、野沢さんに、「都市」をキーワードに話していただきたいと思います。

【野沢】野沢です。松隈さんから、「前川國男と都市」について話してほしいと依頼されたとき、「テーマが重たすぎて、無理だよ」と言ったんです(笑)。そうは言っても、都市は幅も広いし、都市と建築は切っても切れない関係ですから、このテーマを脇に置きながら、前川さんのことを考えてみるのも良い機会かもしれない、と思って出てきました。

■前川國男との出会い
私が忘れがたく覚えている前川さんの姿があります。それは、「国立西洋美術館新館」の緑色タイルの増築ができた直ぐ後、友人と出かけた折、中庭をはさんでル・コルビュジエの本館と向かい合う休憩コーナーがあったのですが、そこに、前川さんがひとり立っておられたのです。びっくりしました。でも、そのとき、前川さんは、自分が設計した建物ができた後に、どのようにそれがひとびとに使われているかをこっそりご自身でで確かめに来るような建築家だと思ったんです。とても印象的な光景でした。

 以前、『GA』というガラスメーカーの質の高い社外報が「前川國男とテクニカル・アプローチ」という特集を組んだことがあります(一九九六年秋号)。このとき、内田祥哉さんにインタビューして、「前川さんをどう見ていましたか」とお聞きしたところ、「戦後の焼野原の時代に本建築を作れる建築家は前川さんだけだった。他の建築家は仮設的な木造建築しかできなかったのに、前川さんだけが鉄筋コンクリートの建物を手がけていて、うらやましかった」と言われた。
 前川國男は、戦後すぐに、期待される建築家として大きな任務が肩にのしかかることになったのだと思います。一九五四年に音楽堂を作ります。このような建物を、まだ誰も作っていない時期に、作ることを前川事務所は期待されたということです。そういう意味で、前川さんは、悲劇の人ではなくて、もっとも恵まれた建築家だったと思います。

■技術を通して建築を考える
 ところで、私は大学卒業後、大高事務所に入ったのですが、当然ながら、設計の実務を担当する中で、自分で考えなければならないことがたくさん出てくるわけです。そのとき参考にしたのが、建築の雑誌と実物の建物だった。そうした中で、当時出版されていた、『建築』という正統派建築雑誌に、前川事務所の田中誠さんの、「建築素材論?テクニカルアプローチとデザインの接点を求めて」という連載がありました(一九六一年八月号〜六二年六月号)。そこには、プレキャスト・コンクリート、窯業製品、スティール・サッシュなど、いわば前川建築を成り立たせている三大ツールとでもいうべきものが具体的に紹介されていて、建築をどのように考えて、どのように作ったかが、きちんと報告されていました。
 私は、もともと技術的な工夫が際立っている建築が好きな方だったので、田中誠さんの記述のていねいさと、建築へのアプローチの姿勢に感激したのです。そして、こういうことを考えることが建築を作っていくことなのだ、と教えられました。建築の形は、突然に表われるようなものではなくて、一つ一つ、たとえば工法とか、生産合理性とか、そのようなものの積み重ねからできている、テクニカル・アプローチというのは、おそらくそのことを意味していたのでしょう。それが、僕にとってとてもなじみの良いものだったのだろうと思います。
 その後、前川さんの仕事に、書き手として触れる機会がありました。「原点としての設計スピリッツ」を特集した『建築知識』の三〇〇号記念号(一九八三年七月号)です。一九五〇年代の建物をとりあげて、みんなで書き分けたのですが、私が担当したのは、前川さんの「日本相互銀行亀戸支店」でした。ほとんど誰も知らない建物です。私は子供の頃祖母の家に行く折に、プレキャスト・コンクリートの南京下見板の外壁をもつ、この建物の横を通っていました。戦後の街中に、白い建物がぽつんと立っていた。私の近代建築初体験のひとつが、この「日本相互銀行亀戸支店」なのです。もう一つは、修学旅行で鎌倉に行ったときに見た、「神奈川県立近代美術館」です。建物に光が反射して真っ白に輝いて見えました。

■都市を経験する
 「神奈川県立図書館・音楽堂」は坂倉さんの「神奈川県立近代美術館」同様当事の知事、内山岩太郎の発案で戦後いち早く作られた前川さんの初期の傑作です。しかし、さきほど紹介がありましたが、その建物がバブル期の再開発計画によって取り壊される、という不穏な噂が伝わりました。それで、「それは困るよ」と、保存を訴える声を建築家や音楽家が上げ、私もその動きに加わったのです。そのとき、なぜこの建物が壊されると困るのか、を考えざるを得なかった。そこに建てられた経緯や都市の中の建築のありようを、建物が壊されるかもしれないという切迫した状況の中で、新たに知り、確認することがたくさんありました。そのときから、私は、「都市」を経験することになった、ともいえます。
 その保存運動の最中に、「音楽堂が危ない」と、担当者だった大高さんに伝えに行ったところ、大高さんは、設計したころのことを懐かしそうに話してくれました。現在は、江戸東京たてもの園に移築された「前川國男自邸」で音楽堂の図面を描いたそうです。ご存知のように、前川事務所は戦争で事務所を焼失し、戦後の活動は前川さんの自宅でスタートしたんですね。それで、板の間の居間に製図台を並べていた。夏はあまりに暑いので、上半身裸で描いていると、前川さんが帰ってくる。帰ってくると裸では怒られるので、慌ててシャツを着たそうです(笑)。そんな状況で音楽堂は設計されていた。
 「そのとき、設計の参考にしたのが、ロンドンのテムズ川の河畔に建つ「ロイヤル・フェスティバル・ホール」の報告書だった。そこには、こうすれば、経験的ではなく、きちんと科学的に音響がデザインできる方法が詳細に書かれていた。」、と彼は話しました。もちろん、当時は、前川事務所も、音楽ホールを設計した経験などありませんから、必死になってその報告書を読んで設計したのです。「あれがなかったらできなかった」と言っていました。
 そうなると、私も、ロンドンに行った際は、フェスティバル・ホールに行かないわけにはいかなくなってしまう(笑)。でも、毎回そこへ立ち寄るようになって、都市と建築についていろんなことを学ぶことができたと思っています。それは、音楽堂や日本の公共建築と、フェスティバル・ホールが置かれている状況の違いです。

■ロイヤル・フェスティバル・ホールの教え
 フェスティバル・ホールのホールの下、ホワイエは、いつ行っても公開され、音楽会が行われています。無料です。人があふれ、ビールを飲んで楽しんでいる。本屋もCDショップも開いている。バーもあって、スナックスタンドもあります。時間をつぶしながら快適でタダでいられる場所が、維持、管理、運営されているのです。街の公共施設はこうやっていつも市民に向け開いているものなんだ、ということを教わりました。
二〇〇一年に、フェスティバル・ホールは、開館五〇周年を迎えましたが、ロビーには、『五〇年目の大改修』というパンフレットが置いてありました。内容は、今後一〇〇年使うための増強案の詳細な説明と、そのための募金の呼びかけでした。「みなさん当事者でしょ、楽しくここで遊んでいるのだから、少しは出してよね」という調子です(笑)。いくつかの仕掛けが、サービスと対価の緩やかな要求として、盛り込まれているんですね。横には今度使う椅子の実物まで置いてある。大改修が終わるのは二年くらい先ですよ。でも、すでに椅子は決まっていて、「今度、君たちこれに座れるんだぜ」という感じなのです。
そのパンフレットを見ると、担当する建築家だけでなく、それを支える技術コンサルタントまで、十チーム以上の名前が記されていたと思います。オーブ・アラップのような有名な構造コンサルタントの他にも、防火は誰がやる、積算は誰、などと書かれています。パンフレットを見て、寄付しようという気にさせるような、楽しげな仕掛けになっている。大高さんは、「音楽堂は、フェスティバル・ホールを参考にした」と懐かしそうに言いました。私は実際のロイヤルフェスティバルホールを見て、都市の公共施設は本来こういうものなんだと思ったのです。日本に帰って、神奈川県立音楽堂に行くと、コンサートのない時は、扉がぴったり閉まっていて、暗黒の空間といいますか、ホワイエも寒々しい。私たちの街は、ロンドンがもっている都市のサービスを欠いていることに改めて愕然としたわけです。

■近代建築をわかりやすく語ること
 さて、音楽堂を壊そうとする不穏な動きがあったとき、私たちは、単純に「困るじゃないか」という思いで保存運動をはじめました。しかし、実際に動き出してみると、「保存を訴えるには音楽堂でシンポジウムをやるしかない。でも難しい」と、みんな弱気になっていた。その打合せに、私がたまたま遅れて行って、「できる、できる!」と言ったのでやることになったと、後で聞きました。(笑)こうして、音楽家と市民、神奈川県立音楽堂を利用しているたくさんの人たちが熱心に動いてくれて、シンポジウムが見事にできたのです。
 その中に、「浜の会」という名前だったと思いますが、横浜市内をボランティアで案内するグループの人たちもいました。彼らに、「街をガイドする際に、例えば、港の見える丘公園に建っている古い洋館は説明できるけれど、音楽堂のような近代建築は説明の対象から外れている」と言われたのです。それを聞いて、これは私たち建築の世界にいるものの怠慢だと思いました。私たちは、音楽堂は、近代建築として問答無用に良いのだと思い込んでいたわけです。でも、今まで普通の人にわかりやすい言葉で説明することを怠ってきたのではないか。「近代建築の良さを説明してください」と言われて、私たちは、急遽、近代建築の説明をするトレーニングをさせられた。それは、私にとってもうひとつの大切な経験でした。
 やはり、街は、専門家がこうしたらどうだろう、こうしたらわかってもらえる、こんな手間のかかったサービスなら良い反応を示してくれるだろう、といった仕掛けがあって、はじめて楽しむことのできる場所になるのだろうと思います。ロイヤル・フェスティバル・ホールのスタッフたちが日々画策しているようなことですね。私たちがいかに市民に説明できるのか。それは、建築がポピュラーになってつまらなくなったり、反対に高尚なものになっていくのとは違う。建築の楽しみ方をきちんと説明できること、偉い人がやっているので黙っていなさい、ということではなくて、建物を作るときもできたときも、きちっと市民と応答することが、楽しい街を作っていくことにつながるのではないかと考えるのです。

■一九五〇年代の近代建築とレプリカ
 そういう意味では、前川さんの日本相互銀行本店や神奈川県立図書館・音楽堂、坂倉さんの神奈川県立近代美術館など、一九五〇年代の建物は、私たちにとって大切な文化財のはずです。これら全部を残したとしてもたいした数ではないでしょう。今の私たちを取り巻く変化の中では、こうしたものは明日なくなってもおかしくない状況です。その一方で、コンドルの設計した「三菱一号館」が突然、レプリカとして戻ってくる。「それは本物といえるのか」という感じもあって、建物の保存とは何か、そして、都市の風景をどう継承していくのか、が大きく問われています。このことは、私たちの後の世代にとっても大問題です。わたしは街に空虚感を作ってしまう、街自体が捏造された一種の書き割りになってしまう危険性を感じるのです。

■前川建築をたどる
ここで、私の前川建築体験について少しだけ紹介します。私は、もちろん前川さんの建物を全部は見ていません。でも、あまり期待しないで行って、本気でびっくりし、感激したのは、「岡山県庁舎」です。これはすごいと思いました。このカーテン・ウォールにはあきれました。本当にへなへなのサッシュ・バー。サッシュ・バーは、鉄を押し出して作る小さなL型や十型をしたものです。そのサッシュ・バーにパテでガラスを止めるスティール・サッシが当時ありました。それをカーテン・ウォールに全面的に使って、腰パネルは、ベコベコを防ぐために亀甲型にプレスして、立体的な形にしたスティール板で組み立てられている。このファサードに陽が当たって、不思議な光り方、金色に光る。たいへん驚きました。この建築はその後も数次にわたり前川事務所によって丁寧な増築改修が行われていて前川建築の変遷を知ることもでき、サステイナブルな建築使用の好例でもあると思います。『前川國男作品集』(美術出版社,一九九〇年)の中でも扱いは大きくないですが、一九五〇年代の傑作です。
次に、一九六一年にできた「東京文化会館」です。神奈川県立図書館・音楽堂とは十年も時間的な隔たりはないのです。そこには、この建物にかけられたエネルギーと、自在にデザインできるようになった能力、そして、もう一つ、十年ほどしか経たないうちにできたという、当時の日本の経済的成長をも表しているのでは、との気がします。
 私が東京芸術大学に通っている頃には、すでに「東京文化会館」は建っていまして、毎日のようにこの前を通り、中に入って二階の精養軒でチャプスイを食べたりしました。芸大の音楽学校のつてで、建物の裏から入ってタダで音楽会を聞くこともしました(笑)。そういう意味で親しみのある建物です。
 もうひとつ、「東京海上火災本社ビル」です。この建物のように、前川さんの建築には、公開された広場が必ずどこかにありますね。前川さんのウルバニズム(都市計画)では、都市の中に建築を作る、建築の中に都市を作るという方法が試みられていくわけです。
 今は、この建物も、丸の内に無数にある超高層ビルの一つになって埋もれたようになっています。しかし、建設された当時は、皇居のそばに高い建物を建てるのはまかりならぬ、という美観論争が起き、前川さんは、広場を作り出すために一人孤軍奮闘しなければならなかった。そういう意味では、都市というのは厄介なものです。

■ウルバ二ズムへの距離感
 ところで、一九五五年、「国立西洋美術館」の設計を依頼されたル・コルビュジエが、はじめて日本にやってきます。その頃の日本は、まだ、焦土の風景を色濃く残していたのだと思います。僕にはおぼろげな記憶しかないのですが、今から考えますと夜になると真っ暗になるような都市でした。そのとき、コルビュジエは、自分の下で学んだ日本の三人の建築家、前川國男、坂倉準三、吉阪隆正に向かって、「君たちは、これからウルバニズムを担うことを覚悟しなさい。この状況で街を考えなくてどうするのだ。今なら、まだ白紙ではないか」と言ったそうです。コルビュジエは建築と同じように都市への提案を描いた人ですから、よくわかる話です。また、彼が言うことに説得力のある状況が日本にはあったのだと思います。
 しかし、前川さんは、都市全体の計画ではなく、一つの建築を作ることと格闘しなければならないという役割を引き受けようとしたのだと思います。一つ一つ建築材料を選んだり、サッシュや打込みタイル、プレキャスト・コンクリートを開発する。当時の日本は、そこから始めないと近代建築ができない、という状況にあったからです。近代建築をスタートラインにつけるという宿命を引き受けようとしたに違いない。そうなると、ウルバニズムまでとても手が出せないというのが、前川さんの本音だったと思います。
 これは、東京文化会館の模型です。当時、東京都が用意した「国立西洋美術館」の敷地と「東京文化会館」の敷地を、画然と分けている敷地主義みたいなものがありました。そのままでは、建売住宅のように、決められた敷地にぽつんぽつんと建ってしまう。これでは、アーバン・デザインとはいえないと、前川さんも担当の大高さんも考えて、上野公園と東京文化会館と国立西洋美術館の敷地境界を無視して、原理的に計画を立てようとしたわけです。建物の大きさは変わらないから、どこに空地ができてどこに建物を建つかの関係が変わるだけですから、役所の所有権を一度バラせば、公園と建物があいまって、良いかたちのオープン・スペースができるのでは、と提案したときの模型です。
 しかし、役所は、当然ながら、「余計なことはしなくてもいい、敷地の中に建てろ」と言ってくるわけです。そうしたやり取りを何度か粘り強く繰り返したものの、最後は、役所の仕組みを突き破ることができなくなってしまう。それでも、そういうことをきちんと議論して、より良い街、より良い都市環境をどうしたら作れるか、をまじめに提案している。ともかく原理的に考えている。場合によってはゼロから考えることを可能な限りやってみる。前川さんとスタッフは、当時、そこまでやろうとしていた。すごいなと思います。
 状況は変わって、今では、前川さんの展覧会も開かれますし、吉村順三さんの展覧会も開催される。レーモンドの展覧会も予定されているそうです。私たちの先輩の建築家たちが、何をバトンタッチしながら現在に至っているか、を考えるのに、今年、二〇〇五年はとても良い年です。それを考えることは、自分たちが建築家としてやっていく上で大きな励ましにもなる。建築を考えること、そして、建築を手がかりにして都市や市民や社会に視野を広げることは、逆に建築を考えることに戻ってきます。そう考えると、あの時代に、前川さんが果たしたことは孤高であり、エリートの仕事だったと思います。

■市民と応答する建築へ
 少し乱暴な言い方ではありますが、前川さんの時代には、提案する市民、当事者としての市民は存在しなかったので、建築家は役所との奮闘になった、と言えるのではないでしょうか。これからはその辺が変わってくる。市民との応答で建築を作っていくときに、建築家が自分のサービスできる建築の「品質」を自覚的に考えていくことは、ますます大事になってくると思います。その一方で、建築に対する社会の期待が大きくなってきて、建築の存在感が社会の中で増してくると、建築がフローになって経済に巻き込まれてしまう危険もある。オーソドックスで、きちんとした建築を作ることが、私たちにできるのか。テクノロジーは本当に人々を幸せにできるのか。求められる社会環境に対して、建築は何が用意できるのか。それらの問いに答えようとする作業を、前川さんは、一人でやっていたという感じがします。頼るものは自分の中にだけある。そういう意味では、自分の立場に責任をもって、孤高に見えるほど頑張った建築家です。私たちは、周りに豊富な情報がある分だけ、自らの頭で考えることをしないでいるのではないでしょうか。 

■建築を使う知恵が作る都市の楽しさ
最近、私は、木造の建物を設計することが多いのですが、地方には有能な大工が今もいます。彼らと仕事をしていると、応答の快感のようなものを感じることがあります。私たちが描いた図面を彼らが読んだときに、満面の笑みを浮かべて、「お前の考えたことはとても新しい、しかし、俺の考えていることの延長線上にちゃんとあるよ」という顔をしてくれる。それは、嬉しい瞬間です。このような一種挑発し合うような関係は、テクノロジーの世界には本来必ずあるはずと思います。今、そうした関係が連続的にあればよいのですが、必ずしもすべてにあるわけではなくて、出来合いのもので「これを使ってください」という世の中になっている。そうすると、ものとの応答関係が欠落した建築が、都市の表層を競うようにならざるを得ない。
 「ドイツポスト」という、超高層ビルなのに外気取り入れの開閉窓をもつ建物を見学したことがあります。その実現をサポートした環境系と構造系のエンジニアにゾーベックとシュラーという卓越したエンジニアがいます。彼らは建築家と同等の提案力をもっている。あるいは、それを作りだすことを支援する社会的仕組みが存在する。そういうことが、実は、責任ある都市や建築を作っていく大きな底力なのだと思います。私の経験でいえば、日本には、今言ったような有能な大工がいます。でも、東京でそういう大工を探そうしても、ほとんど無理ですね。建築がポピュラーになって、一般の人々にも面白がられる状況が大きくなる一方で、建築を支える技術をサポートする人びとが疲れてくると、建築はピエロのようになってしまう。
 建築は、一人でできるわけではありません。建築を作り、使っていく多様な知恵が、市民社会の中に、存在するのが都市と言えるのだろう。そうなると、都市は、生き生きしたクオリティの高いサービスを、クオリティの高い人びとが支えながら、その人たちが信頼され、応答がきちんとある、ということになる。それは、建築に限らず、レストランのコックにも、美術館の学芸員にも、図書館の司書にも、あらゆる職業の人に連関するのでしょう。そういう都市を私たちが目指すことが、一番ニコニコしていられる生活環境を作ることにつながるのだと思います。

【松隈】ありがとうございました。都市の豊かさや楽しみ方という意味で考えたときに、どうもこの国はそのことを果たしていない、都市の楽しみ方を知らない。それに対して建築が十分使われていないことをお話されました。前川さんも同じようなことを考えていたのだろうと思います。野沢さんが、神奈川県立図書館・音楽堂の保存運動のころから、このようなことを考えておられたのかということがわかり、大変面白かったです。

■京都の町と京都会館
 それに関連して一つ報告したいことがあります。つい先日、多くの方々の協力を得て、前川が設計した「京都会館」の見学会とシンポジウムを催しました。京都会館は、一九六〇年の開館ですから、今年で四十五周年になります。京都市では、五十周年の二〇一〇年に向けて、建物を直していこうという計画があります。そうした動きの中で、この際、全部壊して建て直したほうが良いのではないか、という強硬意見をもつ人がいることを知りました。そこで、京都会館が、京都の町の中でどのような存在で、どんな可能性を持っているのかを、見学会とシンポジウムを通してもう一度確認したかったのです。
 京都会館は、都市の中に居心地の良い空間を作り出しているという点で、貴重な建物です。前川さんの建築には、中庭的というか、建物の中に人々が寄り集えるような場所を都市に開かれた状態のまま内包していく方法が、ずっと流れていると思います。

■デビュー作に込められたこと
 それから、今度の前川國男建築展で、みなさんに実感として味わってもらえたらいいな、と思っていることがあります。それは、前川國男の一九三五年のデビュー作「森永キャンデーストア銀座売店」の空間です。この建物は、銀座通りに面して、「三愛ドリームセンター」の少しに西側に建っていました。残念ながら、戦災で焼失して今はありません。コンクリート・ブロック造のバラックを改造したささやかな仕事ですが、この建物には、街への提案が試みられています。ショップ・フロントをくの字に引っ込めて、人々がちょっとたたずんだり、雨宿りができるような場所が作られているのです。
 現在の「紀伊国屋ビルディング」にもつながるような、街に対して手を広げている建物です。目下、学生が模型を作っている最中ですが、学生本人が模型を作ることによって、私以上にこの建物の良さを感じています。今、建っていても素敵だと思えるたたずまいです。ブロック造の正面外壁を取り払って、鉄骨で補強して全面ガラスとし、中の間仕切りも全部取り払い、吹抜けを二ヶ所作って階段を配置し、奥の方まで視線が抜ける空間構成になっている。鰻の寝床のような敷地ですが、裏の通りから入っても気持ちいいし、中からも通りの様子が感じられる。そういう建物を、前川さんは一番初めに作っていた。  

■都市で育まれたもの
 これは、私の印象ですが、前川さんは、東京の本郷で育ち、銀座のレーモンド事務所に勤め、独立後もそのすぐ近くに事務所を構えていましたから、都市の楽しさを戦前の銀座でずいぶん享受していたのではないでしょうか。レーモンド事務所から一緒に独立し、前川邸を担当した崎谷小三郎さんのお話では、坂倉準三と仲が良くて、しょっちゅう銀座で飲み歩いていたそうです。前川さんの都市への眼差しを育んだのは、銀座のよき時代の街の風景だったのではないか。おそらく、前川さんの中には、そういう都市へのセンスがあったからこそ、一九六〇年代の丹下さんの東京計画や、メタポリズムの都市への提案とは違う、人々の心のよりどころとなる小さな空間を提案しようとしたのだと思います。

【野沢】日本で戦前の都市文化は、東京や大阪だけに特権的な形であったのでしょうね。近代都市の成熟があってこそ、大正デモクラシーや民主主義が芽生えたのだし、都市の品格みたいなもの、映画を見たり、音楽を聴いたり、食事を楽しんだり、という文化は、ある時期に東京でワッと花開いたのでしょう。その背景として建築が大切であることを、前川さんは、戦前のヨーロッパに行って、確認しているわけですからね。人一倍そういうことに関しては敏感だったはずです。ダンディでおしゃれで、車も好きだったし。
 日本の悲しさは、そうした都市文化が一旦壊れることですよ。その後に空白が来るわけですから、私たちには想像しにくいですが、そういう茫然自失の厳しい時代の中に、私たちの先輩たちはいた。さらに言えば、戦争が大きな負荷になって、戦後、長い時間をかけなければ何一つ片がつかない。「いっそのこと壊してしまおう」という発想も、それと関係があるのかもしれない。「もう少し知恵がないのか」とみんなで言いながらも、その知恵を社会的コンセンサスにできないことが、私たちの時代の大きな問題だと思います。

【松隈】前川さんは、関東大震災と第二次世界大戦による、二度の都市の壊滅的な被害を目撃した建築家です。そこから、建築には何ができて、建築家は何をしなければいけないのか、という問いを受け止めようとした。さらに、「プレモス」によって新しい共同体がどのようにしたらできるのかを一生懸命考えていた。大高さんも、そのバトンを受け継いで、「多摩ニュータウン」に取り組んだ。そう考えると、技術や制度が貧しくて整備できていない時代の方が、建築家は、遠いところに問いを投げてヴィジョンを描けていた。
 むしろ、技術が成熟してそういうことが可能になったときに、遠くへ球を投げる力や努力が失われてくる。林昌二さんが面白いことを言っていて、「一九七〇年代に入るまでは建築家は一生懸命建築を作っていたが、それ以降、建築家は歴史を持っていない」と。「これから本当の近代建築や街づくりができる時代になったはずなのに、なぜそれがうまくできないのか」と話されていたのが印象的でした。人間ってなかなか難しいものですね。

【野沢】前川さんには、「私がやらなくては」という覚悟があったのだと思う。今は、その覚悟を持つこと自体が難しい。つまり、たくさんの人が同じようなことをやっている中で、自分が担わなくてはいけない、と一人で聳え立っているのはヘンなやつになりますからね(笑)。だけど、現代においても、私たちの時代なりのクオリティをきちんと議論しながら作っていく方法があるはずだと思います。それは、前川さんのような、数少ない味方たちとの応答によって、選良としてものを作っていくのとは違う形です。前川さんの生きた戦後は、けっして恵まれた時代ではなかった。だからこそ、選ばれた人間が使命感をもって引き受けようとしたのだと思う。しかし、本来なら、たくさんの応答が可能な現代のような状況の中で、クオリティの高いものができていく方が良いのかもしれない。むずかしいことですが、それが求められていると思いますね。

■東京海上ビルの意味
【松隈】今日は、都市がテーマですが、会場には、奥平耕造さんが来ておられます。奥平さんは「東京海上火災本社ビル」の設計を担当されました。現在、東京駅周辺の再開発が進み、東京海上ビルが急速に小さく見えるようになりつつあります。そうした状況の変化もあって、たかだか数十年前のことなのに、この建物で問われたことの意味が伝わらなくなっている印象も強い。そこで、ぜひ、東京海上ビルについてお聞きしたいのです。

【奥平】じつは、「東京海上火災本社ビル」が、日本で最初の超高層ビルになるはずでした。ところが、結果としては、東京海上の次に始まった「霞ヶ関ビル」の方が、そのままの形で先にできるのです。霞ヶ関ビルの皇居側に行ってごらんなさい。皇居を見下ろすのがけしからん、ということで、窓は全部塞いでありますよ。東京海上ビルからの皇居に対する視線と霞ヶ関ビルからの視線とを比べると、霞ヶ関ビルの方が急なんです。しかし、確認申請を出したら、東京都が許可してくれない。なぜかというと、私に言わせれば、国家権力の理不尽な暴力です。当時、東京都首都圏整備局長に山田正夫さんという土木出身の官僚がいた。この人がいけない。美観論争なるものを仕掛けるわけです。正規の手続きを踏んで建築審査会で審査してもらい、東京海上の建設計画は良いとのお墨付きを得たにもかかわらず、当時の総理大臣の佐藤栄作が出てきて、皇居を見下ろすようなビルはけしからん、と言いはじめた。それで、東京海上は塩漬けになるわけです。都市整備局長と総理大臣が結託すると、何でもできてしまう、あれは完全な暴力だったと私は思います。
 それで、ようやく建物は二十階の高さで頭を切られて完成したのですが、そのことを、宮内嘉久さんは、「賊軍の将」と書いた。私に言わせると、野沢さんと同じ意見で、前川さんは近代建築のオーソドックスをやっている。賊軍なんかではない。前川さんが「賊軍の将」だとすると、私は「賊軍の兵」になる(笑)。私は「賊軍の兵」として生きてきたのではありません。近代建築の闘将の下で有能な兵でありたいと思い続けてきました。

■モダニズムの遺産
【野沢】建築というのはずっと残っていますので、音楽堂などを見に行きますと、その時代の持っていた力が、そのままそこに在る。もちろん修繕されていても、どういう継続的な応答をしながら直されているかを見れば、積み重なった時間が豊かさを教えてくれることがあると思うのです。
建築家は、建築の設計の努力をするのはもちろんですが、建築を見ること、建築を考えることで、大きく力をつけられるはずだと思います。過去の建築なり、新しいものも含めて、きちんと造られたものをきちんと見て、考えていくことが自分の仕事に役に立つ。一方で、慌ただしい時代の建築家は、自分の仕事以外にあまり見る時間や考える時間が無い。そうした状況が、過去の日本の戦後にはあった。そのことによって作られた不幸な建築はたくさんあるのだろうと思います。そういう建築が残らないことも、ある意味では仕方ないことかもしれません。その傾向が、残すべき建物さえも無造作に壊してしまうことにもつながっている。そこが、私たちの社会の抱えるややこしさです。
だからこそ、きちんと鑑賞して、きちんと味わって、面白いと思う、なるほどと思うことを続けていくことが大切ではないか。それは、今、私たちの考える「サスティナブルデザイン」=持続可能なデザインにもどこかでつながっていると思います。戦後すぐの近代建築は、資源使用量が極めて少ないですね。今の贅沢な建物に比べると、「神奈川県立図書館・音楽堂」などは非常に少ない資源によって、最大の効果をあげようとして設計をしている。モダニズムは、どこかでそのようなもの、合理主義をもっていると思います。今言われている、最小のエネルギー投入量で最大のクオリティを、というモダニズムの努力は、今の環境共生型の建築の一つのルーツと考えてよい、大切な遺産だと思います。
そういう意味で、前川さんの努力、テクニカル・アプローチの考え方も、今の建築の考えと太くつながるものを持っていると思います。戦前も含めて、日本の戦後の近代建築を、そういう風に説明してみたいし、みんなで面白いと思いたいですね。それが、建築が、もう一度、都市の中で日々使われ、人々によってもう一度愛着を獲得して、豊かな市民サービスの場になっていくことにもつながる。その可能性は、僕らの知恵によって、十分実現可能なのだと思います。

【松隈】タイルの一枚、サッシュのディテール一つが、都市の豊かさを作るためにある。だからこそ、そのことを追求して、最小限のものが最大限の空間を生む努力していた。そこに、前川さんが、都市を見ていた視線の原点があるのではないか。そして、そのことを、僕らがどう受け継いで、都市の現実に何を働きかけていくのか、という地点に、今、立っているのだと思いました。今日は、都市を通して広がりのあるお話をしていただきました。ありがとうございました。



LとQといわれてもクイズか暗号のようです。これも最近のカタカナ、略字ばやりのひとつですが、この暗号、案外役に立つもののように思います。種を明かしますとLはLOADつまり負担,荷物のことであり、QはQUALITY,品質を意味する言葉、というわけです。
この二つにどんな関係にあるのでしょう。高いものはいい、これはひとつの見識でしょう。これは負担Lが大きいそして品質Qも高いというケース、ラグジュアリーホテルに泊まったとき、ブランドもののバッグを買ったときなどがこれにあたるのではないかと思います。しかしこれを繰り返すと財布Lはたまりません。支払いLをできるだけ少なくしかも品質Qの高いものを手に入れることが一番いいのはいうまでもありません。

そんな都合のいいことは可能でしょうか。ブランドのバッグについては残念ながらそのQの中心的な部分に個人の不思議な気分が挟まっているようで計ることが難しいのですが、住まいについては様々な物差しでそれを評価することができそうです。
地震に強い、室内の温度や湿度が快適である、間取りの変更が可能で長く使うことができる、維持管理がしやすい、安全である、などこれ等の品質Qがより少ない建設費Lで手に入り、しかも少ない維持費Lで使うことができることが住まい手の求めるものでしょう。
快適Qだがびっくりするほど月の電気代Lがかかるのではおちおち快適Qを続けることができません。そしてそうした負担Lの大きな生活はいうまでも無く地球環境にとっても多いな問題であるということでしょう。何しろ資材もエネルギーも私たちはこの地上にあるものだけを資源として消費するしかないのですから。
古い住宅を直して使う、30年で壊すところを生活に合わせ直しながら60年つかう、こうすると新築するという負担Lが一回分少なくてすみます。それどころかこれによって壊すという負担Lがなくなるわけですから本当はもっと負担Lを少なく抑えたことになるでしょう。断熱に優れた窓や壁とすると同じ快適さQを手に入れる負担Lが大きく減じるでしょう。また太陽熱を暖房や給湯に使う,雨水を使う、風力を使う、木を植えて日陰を作る、建物を地元の木で作るなど再生可能な資源、エネルギーを使うことも負担Lを最小限にとどめるとてもいい手法です。庇を長くして建物を雨から守り長く使える物とする、間取りの変更が容易な構造計画として要求に合わせしつらえを変え、建物そのものを長く使うことのできるものとして計画する、設備、配管など比較的寿命の短いものの更新が容易な計画とすること、などLをかけずにQを長く保ち続けることができる工夫はまだまだたくさんありそうです。
最近私は「木造ドミノ」という企画住宅の設計のかかわりました。この計画はまさにそうした試みであったといえそうです。ここでは木構造のすべてを外壁側だけとし骨組みが室内にないものとすることができたのです。室内には一本の柱があるだけです。基礎もきわめてシンプルなものになりました。こうすることによって室内のしつらえはまったく自由、水周りの変更も自在です。屋根には太陽熱による換気と暖房の仕組みをつけました。
性能Qを主に担う外壁構造部分、自然エネルギーによる室内気候の仕組みにはしっかりお金をかけその他の間仕切りなどは取替え可能にする、ここで試みたことは実は建てるときの仕事の量を劇的に効率化し同じ品質Qのものをより少ない人件費で作ることにもなりました。100年使う建築、しつらえを変えながら長く使い続ける、快適をより負担の少ない方法で手に入れる、こうしたライフスタイルを私たちが新しい時代のスタンダードにすること、それが地球の環境が私たち一人一人の宿題となっている今、求められているのではないかと思うのです。負担Lとは実はCO2など温暖化ガスのことでもあるのですから。


経済産業省 資源エネルギー庁委託事業 ロ・ハウス→
http://www.eccj.or.jp/lohouse/index.html

山越邦彦について覚書                    20061007野沢
1974年の建築文化10月号に矢野和之,松成節夫氏等武蔵工業大学広瀬鎌二研究室有志による「昭和初期住宅研究体」の山越邦彦についての記事があった(自然との循環系をもつ科学的実験住宅)。私はその記事を印象深く記憶する。今回、山越について興味を同じように持つ人々によって研究会が起こされた。この間、資料を収集し,関係者などに聞き取りを行うなど幾許の作業を行ったが、その中でもちろん当時この記事の作成にかかわられた方々の話をお聞きする機会を得た。ほぼ同世代に建築を学び、その中で山越の事績に出会い、興味を持ち調査を重ねられた両氏を中心とした「昭和初期住宅研究体」の先駆的な成果に改めて共感を持った。
私はこの記事に出あうことが無ければ山越に会うことは無かったかもしれないし、もしもあったとしてもそれはずっと後のことになったに違いないとおもう。
記事は1930年代の思いがけぬ姿を示していた。山越30歳の自邸、ドーモディナミカ、そして経済学者、林要の家であるドーモムルタングラ(1936)に持ち込まれた思想と要素技術はわれわれが1970年代以降に主に西欧の情報などを元に知り興味を持ち展開することになる考え方、技術ときわめて酷似しそれに先行していたのである。
給湯パイプによる床、天井パネル暖房という輻射型の室温制御、集熱パイプによる太陽熱の採取、サンルームの利用というパッシブデザイン、浄化槽からのメタンガス採取による台所燃料利用と上澄みの肥料化、というバイオマスエネルギー、テクノロジーへの注目などがその主な要素技術であり、これらの指し示す思想は当時言葉としては存在しなかったはずの「エコロジーデザイン」そのものであり、ここに至ってみれば今日の「サステイナブルデザイン」に直接繋がるものであると考えられると思われたのである。
そして彼の興味と実践の持つ独創に特に注目することはそれらが技術的アイデアとテクノロジーの工夫にあふれている事にもあった。浄化槽の上澄水はパイプを経由し銀杏の幹を回り「ぎんなん」の実となる。そしてそれはこの家の家族の胃袋に収まり再び浄化槽へと下るのであり、家族は浄化槽から発生したメタンにより台所でその「ぎんなん」を炒るのである。冬季豊かな花を咲かせるサンルーム上部のパイプは温められた水を床暖房のパイプに運ぶ。サンルームの花は温水暖房された居間を彩る。こうしたきわめてエンジニア的創意と日常の豊かさ、楽しみの緊結のアイデアはその成果をこえて私を微笑ませる。ここには試みの予感の正しさに対する確信があり、その確信はその後、われわれが同じように予感し確信し獲得した物ときわめて近いもの、またはまったく同じものであったといえるように思う。彼の思考はきわめて早いのである。そしてその裏づけたるモダンな近代的市民像いわばシチズンシップへの自信が覗くのである。
建物はトロッケンバウ、乾式の工業化を予想する外皮をまとい、生活はまったくのいす式、そこには自らデザインしたスチールパイプのいす、ベッドがおかれている。戦前のこの時期、北欧、ドイツを中心に存在した生活を根拠に家政学という科学を生む衛生、家族を主題とするモダニズムがあったと聞くがここにそれと同根の事例を見るのである。この国にも開かれた思想への共感とその実践があったのであろう。

私は藤井厚二の著書「日本の住宅」を持っている。1930年に先立つこと2年1928年の出版であり、彼の実験住宅、「聴竹居」竣工にあわせ、彼がそれ以前の実験住宅に触れながら気候と住宅について記した、わが国で環境と建築についての考察のごく最初の成果の一つである。藤井厚二は言わずもがなではあるが今日のサステイナブルデザインがその先達とする建築家である。そしていま仔細に聴竹居にみる彼の成果はきわめて京都的でもある。洗練された大工技術と一流の素材は京都の「だんな」の趣味のよさといわば「うるささ」をもの語ってもいる。そこで考えられた手法も換気を旨とするきわめてまっとうなものである。「夏をもって旨とする」パッシブ住居、いわばこの国の伝統的底力の科学による論理付けと再デザインとでも言うべきものである。では藤井の「冬」ははたしてどのように科学により再考され解決されたのか、聴竹居に住みながら調査を続ける高橋氏によればそれは「電力への期待」に全面的に依拠するもの、つまり極めてアクティブな技術信仰によっているらしいことがうかがえるという。私たちは発見された電気ストーブ,当時としてはきわめて珍しい各室のコンセントにその証拠を見る。
テクノロジーはそれが未熟でしかもそれにより希望に満ちて見えるとき、それへの過度の期待、予測を纏う。技術とはそうして発展するものであろう。聴竹居、ドーモディナミカにこれは共通のことでもある。これらふたつは西と東の気風までもあらわにする今日の建築環境技術の二様の先駆でもあるのかも知れぬと思う。
きわめて同時期のこの二つの実験住宅が見せる対比については今後も興味を持ちながら研究者によるさまざまな成果を期待したいと思うが、四分の三世紀も以前に私たちの建築史こうした試みが存在することを喜びたい。そして伝統の上にあり新しいテクノロジー電力に万来の期待をおく聴竹居の試みだけでなく、太陽熱、バイオなど自然の資源に注目する「ドーモディナミカ」の存在にあらためて歴史のバランス、均衡に驚きその重要さを思うのである。

山越邦彦研究会は山越の令嬢の逝去(2004)によりその自邸、ドーモディナミカが撤去され土地を国有とされるという事態を受けた形で発足した。調査を怠れば山越自邸に残る彼に関するすべての資料は消失すると言う事態であった。この経緯と今日までの成果は別に明らかにされるだろう。
主のいない住まい「ドーモディナミカ」はわれわれにより調査された。蔵書がリスト化され、写真撮影が行われ、暖房パイプの一部家具など実物の採取が行われるなど多くの資料が発掘された。私自身はその活動に多くの時間を割くことはできず、時折参加することしかかなわなかったが、大きな栃の木が道に張り出す奥のドーモディナミカは乾式構造の外壁をリシンに覆われ保全されていたためか、外皮を取り外すと当時の姿がそのままのように現れたことに驚き、石綿スレートとブリキ板のオープンジョイントの外皮の後ろ、窓周りなどのフラッシングが正当にも銅版によっていることにも驚いた。目に触れるところよりその裏に手間とコストがかけられている。私はこの現場に最後に立ち会うことができたことを心から喜び、しかしこれが実物として存在することが許されない事実を悲しんだ。
肝心の二階床下の暖房用パイプは太く実用のほどはなんともいえないものであった、しかし先駆的テクノロジー、それを実践した山越の意思を見た思いがした。
そして既にない「ドーモムルタングラ」に会いたい衝動に突然駆られもしたのである。

この国の1930年代の思想の豊かさがその後の15年の愚かしい歴史によっていかに蹂躙されたのかを思う。そしてその後遺症はその後いかに長期に及んだかを。彼らの試みをわれわれが結果として引き継ぐまで40年に及ぶ空白があったのである。歴史に仮には存在しないが1930年以降が平和な15年であったらどのような今日があったのだろうか、断絶の理不尽を思う。

山越の戦後の歩みは教育者として、床暖房のエンジニアとして、環境問題の告発者としてと、さまざまでありその評価もさまざまである。教育者としては草間玲子氏の追想(横浜国立大学工学部建築学教室同窓会水煙会会報35号平成18年)がそのすべてを語っている。床暖房エンジニアとしての彼については0000,0000の証言がある。象設計集団は山越の床暖房トライアルのよき協同者であった。浄化槽の活動がしばしば停止するところから合成洗剤の毒性に気付きこれを告発する彼からはこの国のレイチェルカーソンを思う。当時の合成洗剤の質は今日からは思いもよらぬものであったとしても不思議はないし、この告発により彼自身が受けた仕打ち、それによるか彼および家族の具体的被害も当時のさまざまな類似の事実から想像されよう。建築家であることに拘泥せず、さまざまな興味とそこから表れるたくさんの問題、それ自身に時代ごとにさまざまな解決の興味を傾注するすがたをこれら事実から私は目の前に見る。とともに再び日本人の1930年以降の時間がいかに無残なものであったかを。

ドーモディナミカ調査のなかで、私はメンバーから蔵書の中にあった一冊のアルバムを渡された。見慣れたそれは私自身が持つものであった。400人の中の一人として私が写る高校の卒業アルバム、当時私はそのことを知らずにいたのだが、先年なくなられた山越邦彦の一人娘山越悠子さんは三年間私と同じ時に私と同じ高校に通う人であった。悠子さんの写真もそこにあった。40年以上の歳月を経て私はそのことを知ったのである。

山越邦彦研究会が住宅総合研究財団の助成を受け報告書の作成を行った折、野沢が作成したものであり報告書は会員のそれらをあわせ別途まとめられている。本文は草稿である。



はじまりは三〇年前

 これまで私は、環境に対して「建築」が担う役割の重要性を唱え、地域の気候特性を読み、自然エネルギーを受動的に利用するパッシブデザインや持続可能な建築のサスティナブルデザインなどの環境デザイン手法を取り入れた、環境に配慮した数々の建築を設計してきました。同時に、さまざまな環境技術の研究、実践、普及活動を推し進めてきました。その代表的なものの一つがOMソーラーです。
 今から約三〇年前、第一次オイルショックがありました。一九七三年のことです。当時、東京芸術大学の教授だった奥村昭雄先生を中心に若手の建築家の集まりがありました。その際、オイルショック直後だったこともあり、建物のエネルギーのことも考えてみようということになりました。それで、奥村先生が太陽光エネルギーの利用を提案され、色々と工夫を凝らして完成したのがOMソーラーです。地球温暖化など環境問題から、現在は、太陽光エネルギーを利用することは当たり前になっていますが、当時はまだまだそんなことを考えている人は数少なく、今となっては、非常に先見の明があったアイデアだったと言っていいと思います。
 OMソーラーというのは、一口で言うならば、いわゆる空気集熱式のパッシブソーラーシステムのことです。パッシブソーラーシステムとは、同じように太陽光エネルギーを利用して発電したりするアクティブソーラーに対して、建築的な方法や工夫によって太陽エネルギーを利用する手法をいい、その基本には、「熱や光を自然のまま利用し、しかも汚れを生まない」という、まさに自然の力をできる限り活かして、快適な住まいを造ろうという考えがあります。
 OMソーラーの良さは、自然に親しみ働きかける楽しさや自分で工夫する面白さ、環境への負担を減らせる点だと言えます。しかし太陽光エネルギーは、確かに無限に存在し、また温暖化も生み出さないナチュラルなエネルギーですが、残念なことに“広く薄い”エネルギーであり、夜はもちろん、曇りや雨の日もほとんど手に入れることができません。言い換えるなら“気まぐれなエネルギー”ですから、そのコントロールが非常に難しいエネルギーでもあります。 それを上手くコントロールして利用しようというのがOMソーラーの考えの根本になりました。
 最近は、暑いのも寒いのも嫌だということで、室内に人工的に快適環境をつくり出す家も多くなってきました。そうでなくても冷房や暖房に多くのエネルギーを使う家が増えています。そうした住まいが石油などの資源の問題や環境に与える負荷を考えた場合、それが正しい選択だと言えるでしょうか。もちろん昔のように自然のままに暮らすことは無理ですが。
 OMソーラーは、自然を閉ざす方向ではなく、自然と親しみ、自然に働きかけ、それを活かそうという考えのパッシブシステムなのです。昼と夜はもちろん、四季の変化に応答しながら、より快適な暮らしをつくり出す、まさに「太陽の光と暮らす生活」を実現します。夏は夏らしく、冬は冬らしく、自然と親しみながら、しかしガマンするのではなく、快適に暮らせる暮らしを実現するシステムだと考えてください。

アメダスの情報と
地元を知る工務店の力で実現

 OMソーラーは、建物全体を仕組みと考えたシステムです。ですから、設計段階から太陽熱利用を考え設計する必要があります。
 具体的なシステムの動きとしては、大きく次のようになっています。
 まず冬は、軒先から新鮮な外気を入れ、それを屋根に降り注ぐ太陽の熱で温めて床下へ送ります。太陽があたり屋根面が熱くなりますと、新鮮な外気が軒先から屋根の通気層に入ってきます。この空気は太陽の熱で温められながらゆっくりと昇っていき、ガラス付き集熱面でさらに温度を上げ、棟ダクトに集められます。地域や季節の条件によって違いますが、冬の快晴の日であれば、集熱温度は六〇℃ほどになります。そして、棟ダクトに集められた熱い空気は、OMハンドリングボックスを通って床下に送られ(※1)ます。立ち下りダクトを通して送られてきた熱い空気は、床下の空気層をゆっくりと流れ、蓄熱コンクリートを温めながら、少し冷めた暖気となって室内に流れ出ます。つまり床下へ送られた空気は、基礎のコンクリートを温めながら、室内へ微風となって出て来るというわけです。そして日の落ちた夕方になりますと、熱を蓄えたコンクリートが外気温の低下とともに少しずつ放熱を始め、建物全体を床から温めるのです。このように、暖房と同時に大量の換気を同時に行うという点がOMソーラーの特長です。
 一方、夏は熱い空気を利用してお湯を採ることができるとともに、余った熱は外へ排気されます。そして夜、太陽が沈んだ後、外気温の低下とともに、夜間の冷気が屋根でさらに冷やされ床下に溜め込まれます。床下のコンクリートからゆっくり蓄熱が始まります。夏は夜間貯めておいた冷気を日中まで使おうというわけです。これにより、昼と夜の室内温度差をやわらげることができます。OMハンドリングボックスは、冬は暖かい空気を床下に送って部屋を暖め、夏は夜間蓄冷と日中の熱でお湯を採るなど、年間を通じて集熱した空気のコントロールをする働きをしています。
 ちなみにOMソーラーが稼働し室内に空気を送り込んでいる間は、常に新鮮な外気を室内に採り込んでいます。冬季暖房しながら、換気もしています、夏場は、夜間、少しでも低い外気を取り入れることで、エアコンの効きも、エネルギーの消費も違ってきます。このように、外気の変化を取り込むシステムですから、最も効果的に運営するためには、その建物が立っている地域の特性を理解して、季節ごと、時間ごとの稼働を変える必要があります。
 OMソーラーが実現した背景には、当時、気象庁が発表を開始した「アメダス」がありました。奥村先生の素晴らしいところは、単にハード的にシステムを考案しただけでなく、同じ日本と言っても、北海道と沖縄では気象条件が大きく違うため、その地域や季節・時間に最適な形でシステムが動くように考えた点でした。その際、その地域の気象条件を知るために、当時、八四〇ぐらいあったアメダスの情報を利用したのです。そのためのシステムを、奥村先生は、まだパソコンが登場する前、電卓に毛が生えたような計算機で考え実現されました。
 そしてさらに、その地域のことを一番知っているのは、地元の工務店だろうということで、その地でOMソーラーの家が建てられるように、地方の工務店を組織化して、建設のためのノウハウを教えました。当時、高断熱・高気密な住まいは、最先端の技術でしたから、OMソーラーを正しく導入するためにフランチャイズ制にして、それぞれの地域で活動する工務店を“教育”する必要がありました。工務店にとっても、自社の技術を育成するいい機会になったと思いますし、実際に、それをきっかけに技術を売り出しにした工務店が日本各地に生まれました。

特許が切れをきっかけに
一般の技術になることを期待

 OMソーラーは、開発から二〇年近くがたち、特許もそろそろ切れますし、地方の工務店で十分な実力を身に付けているところも増えてきました。ひとつの画期を迎えていると言えるのかもしれません。今後は一般的なものとして、もっと普及していくのではないかと思います。
 そればかりではなく、この二〇年の間に、例えば太陽光発電の飛躍的な効率向上などに代表される、自然エネルギーを利用する新しい技術も色々と確立されてきましたから、そうした技術と融合することで、さらなる新しい住まいや技術が生み出される可能性が広がるのではないかと期待もしています。
 私は現在、東京都の企画を受け進行中の、東村山市内の旧都営住宅跡地の再利用プロジェクトで「木造ドミノ住宅」と名付けられた住まいの計画に携わっています。この住宅は、OMソーラーを導入しながら建設コストを坪あたり五〇万円に抑えようという試みです。ここでは、東京の山の木を使い、自然と共に暮らすことができる家を目指し、インフィルとスケルトン(※2)を、それぞれ独立して考えることで、暮らしの時間に合わせた間取りの変化も簡単にできるようにした長く暮らせる家として設計されています。ここが完成すれば、これからの新しい住まいに対する考え方が変わるのではないかと期待しています。もちろん、OMソーラーの導入に関しても、新しい道が拓けると思っています。
 OMソーラーは、一部に動力を有するファンを使っていますので、一〇〇パーセントのパッシブシステムとは言えませんが、基本にあるのが“四季と暮らす”という点ですから従来の住まいで使われるエネルギー消費量に比べると格段に使用する総量が違います。そして自然エネルギーは何よりCO2の発生が無いのです。地球温暖化問題の解決に役立つ、“太陽と暮らす”生活を実現するシステムとして、これから、ますます注目を集めるのではないでしょうか。
(この記事は、CEL編集部が野沢氏にインタビューを行い記事としたものです)

(※1)自立運転型ハンドリングボックスは、ファンの動力に太陽光発電を利用している。太陽電池駆動のモデルもある。
(※2)建物を構造体と内装・設備に分けて設計する考え方のこと。スケルトンは骨格のことで、構造体を示し、インフィルは内外装・設備・間取りをさす。


野沢 正光(のざわ・まさみつ)
野沢正光建築工房代表、一級建築士、日本建築家協会環境部会部会長。一九四四年東京生まれ。六九年東京芸術大学美術学部建築学科卒業後、大高建築設計事務所入所、七四年 野沢正光建築工房設立。主な建築作品に、阿品土谷病院、世田谷区立宮坂地区会館、いわむらかずお絵本の丘美術館、長池ネイチャーセンター、うおがし銘茶銀座店「茶・銀座」、相模原の住宅、国立の住宅など。主な著書に、『環境と共生する建築』(建築資料研究社)、『居住のための建築を考える』(共著、建築資料研究社)など。




一九七〇年代、第一次、第二次と立て続けに「オイルショック」という問題が起きました。一九七二年には、ローマクラブが「成長の限界」というレポトトで資源の枯渇についての深刻な予測を発表しています。この頃から資源と環境の問題がたいへん大きなものになっていくのです。人類は生き延びることができるだろうか、ローマクラブのこの報告はそうした警告を重く発するものでありました。同時に、この頃それらの問題をテクニカルに解決する可能性を予感させる技術や情報も急激にわれわれの手の中に入ってきた、と今日になり考えることができるように思うのです。太陽エネルギーなどの、自然エネルギー、つまりパッシヴな技術はそうした技術の主要なものであると思います。こうした技術はそれまで実にとらえどころがなく、それを根拠にしながら建築を作ることは不可能で、あくまで予言的なものでした。しかし、説得力を持つシミュレーションをもとにデザインすることが難しかったものが、パソコンの普及、シミュレーション技術、データ集積技術の向上によって、急速にかなりの精度でできるようになっていくのです。環境技術はここから「予感」「期待」としての技術ではなく「サイエンス」という根拠を持ったものとして離陸することになり、それが新たなパッシグ・デザイン、自然エネルギー利用といった領域を開拓していったのだと考えます。サステイナブル・デザインという思想はこうした流れのなかで確かなものとして現われた、といえるのではないかと思うのです。今日の社会的要請である、エネルギーおよび資源の使用量を下げつつ快適性はよりいっそうわれわれの望むものに近づけたいという期待、そしてそのうえで二〇五〇年には二酸化炭素排出量を今日の水準から五〇パーセント削減するという激的な目標、それを建築の分野の面白い宿題とすることは存外実現可能なものではないかという思いが僕のなかにあるのです。
二〇年から三〇年ほど前に、アメリカで初期のパーソナルコンピュータを使ったソーラーエネルギー利用についてのシミュレーションソフトが作られはじめました。「予感」と「期待」に根拠を与えたい、という動きだったのでしょう。ほぼそれと同時期、私たちにとつてもそれが手に入る段階になり、私たちの数人のメンバーもこれに手を染めることとなっ
たのです。やがてそれは数年を経ずして気象データ「アメダス」と建物の温熱性能の両方を計算することを可能とし、かなり予測とたがわず太陽エネルギーを的確に利用することができるようになったのです。やがてそれは数年を経ずして気象データ「アメダス」と建物の温熱性能の両方を計算することを可能とし、かなり予測とたがわず太陽エネルギーを的確に利用することができるようになったのです。私の建築理解がこれにより大きく変化したと言ってよいほど、この作業はとても興奮するテーマだったと思っています。
これからの時代に環境的な技術が、建築の計画の新しい大きな根拠になるだろうと考えたこと、また、それが人々に建築の意図を納得してもらう主要なツールのひとつになるだろうと思って私はこれまでサステイナブル・デザインに、関わってきたわけです。近代以降、サイエンス/技術はわれわれが建築を考える大きな根拠となるものであるはずです。しかもサイエンス/技術は、実は予想を超えて極めて個人的独創によってその意義が現われるものでもあるのです。サステイナブル・アーキテクチェアとは今日の宿題と技術的独創がこれから切り開く分野に現われるのではないか、と思うのです。また、近代が興味を持ち続け工夫を重ねてきたサイエンス/技術のなかにサステイナデル・デザインの萌芽はすでにあるのではないかと考えるのです。

今日は数年前に私が初めて見た《アイアンブリッジ》から始め、主に一九世紀イギリスのグィクトリア時代を振り返りつつ、近代が手に入れ発展させてきた技術の面白さ、独創さと、それ以前の時代との決定的格差、それについて僕が散漫に記憶していることをお話しようと思います。

テクノロジーの並化と伴走するデザイン

ジャン・フランソワ・ミレーの《晩鐘》(一八五九)、《落ち穂拾い》(一八五七)が描かれたのは一八〇〇年代の中頃です。ミレーが活躍した時代に突然、ダーウィンの「種の起源」(一八五九)が現われます。それから半世紀ほどしてウエグナーの「大陸移動説」(一九一二)が現われ、や《晩鐘》や《落ち穂拾い》が象徴する、それまで長くキリスト教が制御していた社会システムに対し、サイエンスや技術、つまり合理的システムが、それは違うのではないかと直裁に問い始めます。ヴィクトリア時代(一八三七−一九〇一)の人々の経験した、社会やそのシステムの変貌はルネサンス(一四−六世紀)のそれの比ではないと想像します。もちろんこの劇的な時代にも前史は存在します。ヴィクトリア時代より以前、一七〇〇年代の半ば過ぎから終わり頃のイギリスでは蒸気機関はもちろん一般には普及しておらず、運河がもっとも大きな輸送手段で、石炭などの輸送を担っていました。その運河を掘ることで地質学も発展します。構層している地層から貝殻が現われたりするわけで、一八一五年には、石炭層を予測するための世界初の地質図をウィリアム・スミス(一七六九−八三九)が作るのです。彼は地質学の父と呼ばれることになるのですが、こうしたことがウェグナーの大陸移動説につながるというように、それまでキリスト教によって閉じられていた蓋がバタバタと開いていくというのがこの時代です。
さきはどの《アイアンブリッジ》(一七七九)はこの時代のものといえると思います。これは文字どおり「鉄の橋」ですが、鉄でできている以外は石の橋と同じようなシルエットをしています。サイエンス/技術が現われる直前の構造物だと言っていいのではないかと思います。構造力学的に正しい合理的な形かというとそうではない。非常に装飾的だし、石の橋として考えても同じような姿になるのだろうと思います。しかし細部はとても面白い、鋳鉄だけが作りうる独創なディテールにあふれています。時代と素材の関係はここでも面白く見ることができます。鉄はグィクトリア朝を通じて次々にその性能を変化させます。鋳鉄の後、錬鉄が現われ、スチールが現れる。それにしたがって新しい構造の解析手法が試みられ、材料の標準化や量産が起き、今日までの鉄の時代が切り開かれたわけです。

これはキュー・ガーデンの《パームハウス》、建築家はデシマス・パートンです。僕はこの建物が大好きで何度も行っているのですが、よく考えるとキュー・ガーデンはヴィクトリア朝前史の地球への興味、それによって出現したプラント・ハンターの巣、根拠地みたいなところです。ジェームズ・クック(一七二八−七九)の時代から始まるわけですけれど、多くのイギリス人が瀕常に大きな知識欲であちこちを訪れ、あらゆるものを世界各地から持ち帰ります。そのなかで、動物学、植物学、博物学が発生し、キュー・ガーデンの《パームハウス》という巨大な温室が作られるのです。鋳鉄と錬鉄の組み合わせで、一八四四−四八年にかけて設計され作られました。
キュー・ガーデンはいまだに世界最大の植物園、種子の収集場所であり、しかもわれわれが行ってもキュレーターが丁寧に案内や説明をしてくれる開かれたミュージアムです。その中心にあるのが、この《パームハウス》です。この建築は、技術や材料の著しい変化、あるいは社会の新しい目的と横能、またその急速な展開にあわせて、建築家やエンジニアによって作り出される今までに存在しないサービスの、この時代の典型のように思うのです。

l・K・ブルネル(一八〇六−五九)の設計した橋《ロイヤル・アルバート・ブリッジ》(一八五九)です。ブルネルは、この時代の、最大のエンジニアと言っていいでしょう。ロイヤル・アルバート候とはいうまでもなくヴィクトリア女王の夫ですから。この名が付く橋がいかに当時を代表するものであるかは言うを待たないでしょう。このブルネルとロバート・ステイーブンソン(一八〇三=五九)はヴィクトリア時代の代表的なエンジニア、いわば好敵手、競争相手です。なかでもブルネルは巨人です。大西洋定期航路に就航する鋼鉄の蒸気船も作っていますし、たくさんの橋も設計しました。のちほど紹介する《パディントン駅》(一八五四)もそうです。それからグレート・ウエスタン・レイルウェイという鉄道システム全体も作っています。
ほんの少し前まで、長く《晩鐘》《落ち穂拾い》が表わす風景だったところに突然時速一〇〇キロを希えた鉄のかたまりが走る、そんなことが一八〇〇年代半ばのイギリスで起きたのです。驚いて欲しいのですが、その蒸気瑞閑革の平均速度は一〇〇キロに迫るものであったと言われます。西回りのブルネルのルートと東回りのルートと二つの鉄道会社が熱病に浮かされるように競争を始めます。フライング・スコッツマンなどという有名な列車によってスピードが競われたのです。もちろん、それにともないさまざまなテクノロジーの工夫も発生するわけです。
一八二〇年代にやっとロバート・ステイーブンソンの父、ジョージ・ステイーブンソンの鉄道がほんのちょっと走った。それから、三〇年もしないうちに、イギリスの富を背景にしてテクノロジーが熱病のようにフィーバーしたのです。このことがこの時代の技術、サイエンスへの圧倒的興味と集中を物語ります。

合理的なデザインの出現

《ロイヤル・アルバート・ブリッジ》は先日初めて見たのですが、大変興味深いものでした。こんなに橋の桁が高いのは当時は帆船だったからですね。この橋をどうやって作ったのか。このようなレンズ状の力学的構造物を製作、それを台船に乗せ現場へ運び、水圧を使ってリフトアップさせたようです。つまりこの形は、《アイアンブリッジ》とは異なり合理的なサイエンス/技術によって作られていると言えます。帆船の高さも設計の前提ですが、この川を閉鎖するルールは決まっており、現場で足場を組みながら作るやり方では期間が極めて長くかかる。そうしたなかで、スパンを二つに分けて、片方ずつ上げることで船の航行をディスターブすることを避けたのです。このようにいくつかの前提としての問題を解決した独創の答えとしてこの橋のデザインはある。僕がこの時代のものが面白いと思うのはそのためです。当然ながら参照すべき前例がないのです.前例がないからブルネルは自分で考えるわけです。船も作るし機関車も作るし、橋も架ける、その一つひとつに
面白さと説得力、そして独創が共存している。
この時代は、面白くて新しいサイエンスや技術を根拠とする実験が自信をもってできるようになってきたと考えていいのでしょう。例えば、さきほど言いましたが「時速一〇〇キロで走ってくれ」というような今までになかった要求も増えてきています。そういう問題を技術者としてあるいは建築家として提案してみたり、あるいは自分で答えを探してみた
りする時代に入っていったわけですね。ヴィクトリア時代というのは、いわゆる一五世紀中頃から一七世紀中頃までの大航海時代から徐々に培ってきた一種の知的な欲求が一斉に答えを見つけて走り出す時代という印象があります。

この橋は《フォース・ブリッジ》といいます。設計は、ジョン・ファウラーとべンジャミン・べイカー。一八〇〇年代の終わり、一八九〇年に完成しました。スコットランドの首都・エジンバラの北部、フオース湾に建てられました。海の上ですからなるべく脚を少なくしたい。写真の向こう側は島を利用していたと思いますけれど、海中にケーソンを据え、
そこを基礎として脚を建てて右と左に同じ分立だけ鉄骨を延ばしていく。そうして足場なしで海の上に延ばしていき、最後に小さなガーターでジョイントするというアイデアです。鉄はここではもうスチール(鋼になっています。これもやっぱり下を船が通るわけですから桁は非常に高いところを通っている。全長は二五〇〇メートルほど、大きな架構部は三スパンで計一八二二メートルです。一スパンが五三〇メートルほどだったと思います。この橋はトーマス・バタチ設計のテイ湾に架かる《テイ橋》の崩落により、バウチからファウラーらへその計画が移されることにより実現したものですが、そのためもあってまったく新しい着想でデザインされています。しかもそれは工事のプロセス、素材の条件に極めて適合したものであるのです。

テクノロジーを通して時代を把握する
                                                                                                      
一八五〇年に戻りますが、これはブルネルが作ったロンドンの《パディントン駅》(一八五四)です。先ほども言いましたが彼は機関車そのものを作り、駅を作り、橋も作りました。当時の英国の鉄道駅はどれも極めて規模の大きな施設ですが、これだけ壮大な駅が必要だったのでしょうか。もちろん蒸気機関車が大量の煙を出すから大きな高い屋根が必要だったのでしょう。非常に美しいです。
一五〇年前の駅が今日もまったくそのまま使えているということは、まさにこれこそサステイナブル・デザインということなのかもしれません。ぺデストリアンデッキ、エレベーター、エスカレーターを増設するなど少し直して利便を向上させ、内部に別の新しいサーヴィス機能を入れたりしながら使い続けられています。こういうものが当然のように生きているわけですね。

技術はもちろん地域ごとの違いを見せるものでもあります。これは《ストックホルム駅》(一九二七)です。一見アーチ型の鉄骨でできた駅舎のように見えますけれど実は木造です。いまから一〇〇年ぐらい前にスイスで集成材の特許が取得されます。《ストックホルム駅》のアーチを溝成する集成材はⅠ型断面のもので一つひとつ分節したユニットなんです。まったく石造と同じように下か順番に組み上げていき中央頂部にキー・ストーンを入れて留める、《アイアンブリツジ》とどこか通じるものといえるのかもしれません。初めての技術はこうして試みられるのでしょう。木造であるのは北ヨーロッパが木材が豊富だということだけではなくて、おそらく冬の工事期間に人間の手が部材に触れても作業に支障をきたさないためでしょう。たとえば、零下ニ○度とか三〇度で鉄を触ると皮膚がはがれでしまうのです。そういういろいろな条件のなかから選択されたものだと思います。
建設された時代を背景とする素材、工法、または時代の考え方、それら背景を憶測することは実に楽しい。鉄筋コンクリートもさほど長い歴史がないものだということはみなさんご存じだと思います。一八五〇年にフランスの庭園家J・モニエがスチールワイヤーを使ってコンクリートを補強した貯水槽を作ったことから始まります。憶測を可能とするためにさまざまな構築物が後世まで残されていることは重要です。それらを知りその根拠を想像してみることが、今デザインをするとき、私たちの思考の偏りを幾分かでも修正してくれるようにさえ思うのです。

先を急ぎましょう。これはミース・ファン・デル・ローエの《ベルリン国立美術館》(一九六八)です。さっきのブルネルの橋と同じように、この建築はまさにスラブを上げただけというのがよくわかります。つまりプロセスが形になって、それが合理的な場所、サービス、機能を作る。この説得カがこの建築の大事なところなのでしょう。特にミースの建築
は、極端なまでに技術を組み上げ部材の断面を精査しディテールを磨き合理的なプロセスを経て作られています。

このスラブを引き上げるときを見たかったですね。もちろんブルネルの橋を上げたときも見たかったですし、あるいは《フォース・ブリッジ》が徐々に延びていって繋がったときも見たかったです。デザインした彼等は立ち会ったそのとき充実の只中にあったでしょう。私はこれらを見ながらそれを想像するのです。今これを見るときに、当時、技術を根拠とし最適のプログラムを構想し合理を追求した彼等の充実、その気分を僕らは頭のなかで想像しているのでしょう。
ミースの有名なテーゼ「Less is more」は、「より少ないものの豊かさ」ということから「より少なく、しかもより豊かなものを」と解釈を演繹できるのではないでしょうか。そうであればこれはまさにサステイナデル・デザインの求めるものそのものといえるはずです。

意図的な貧しさが生み出す新たなクオリティ

現代、膨大な技術と膨大なテクノロジーと膨大な力を僕らは持ってしまっています。そのうえ、非常に消費的な社会で僕らは生活しています。そのなかでサステイナブル・デザインということを考えると、僕らがやれる次なる問題解決というのは意図的に貧しさを作ってみるというところなのかなという感じがするのです。太陽エネルギー利用などのいわゆるパッシヴ・デザインいうのはアクティブ・デザインに比べて、ある意味では貧しい解決方法であると言えます。ある種の豊かさを忌避し、別の豊かさを求めていく宿題のヒントがそうした「意図的な貧しさ」を構想することだったりするのではないかと思うのです。その思考を進めていくことで、そこに出現するクオリティは石油を大量に使うアクティヴ・デザインとまったく違うものが生まれる可能性がある、そんな気がしています。

この建築はブラジル・サンパウロの《セスキ・ポンペイア・ファクトリー》です。これは貧しさが作った建築だと言っていいと思います。ブラジルのひとり当たりのエネルギー使用量は日本の一〇分の一以下で、日本が今日もODA援助している国、その郊外の住宅地にこの建築はあるのです。ドラム缶の工場を公民館に切り替えています。改修は最小限で、
建物のシルエットも通路も既存のままだと思います。もちろん多少の整備はしています。しかし基本的には既存のままでギャラリーになっていたり、工房になっていたり、図書館になっていたり、食堂になっていたりします。そこにはプリミティヴではあるが適宜・適切な最小限のディテールが付け加えられているのです。この改修を計画したリナ・ボバルディは実にうまくこの仕事をしたてています。
ブラジルは日本のように公共施設がなんでもあるという国ではなく、地域にこれだけしかないという感じです。学校にも学びの機能のほかの機能はいっさいない、ですから放課後、子供たちは皆ここに来る。もちろん大人もです。ここでは地域、世代の分断がまったくないように見えるのです.結果としてのそういう合理というのは面白いなあと思うのです。彼らはそれを意図してやっているというより、貧しいから、たくさん作れないからそうしているわけです.もちろんプログラムも運用も優れているのだと思います。そして建築家の判断も優れています.リナ・ボバルディはイタリア人でありブラジルに移り住んだ女性建築家ですが、彼女のデリケートで適切なアーキテクトとしての判断がとても素敵です。こうしたコンバージョンは実に物語豊かな建築をつくる。われわれも学びたいものです。

これはもう有名な同じブラジルのクリティーバ市です。一○年ぐらい前、『日経サイエンス』にこの町のことが出ていまして大変驚いて数年を経て見に行ったことがあります。今のUIA(世界建築家連盟)のジャイメ・レーネル会長は当時この街の市長でした。先ほどのサンパウロと同様、この街も金がないわけです。街は混沌として交通はむちゃくちゃだったようです。そこでレーネルがバスを使うことで問題解決しようと考えました。三つに分節した一七○人乗りのバスを走らせて、「駅」を整備して電車のように迅速に乗り降りする。バスのドアが開くと駅のほうのドアも開く。既存の道路使い、交通網を整理する。小さな投資で、自分の財布にあった問題解決をしています。この問題解決の結果として出現したシステムの独特さというのは、世界中にどこにもなかったわけです。自分の問題を、たとえば金が無いことも含めその問題の独特さ、デザインの条件として逃げずに考え、独自のやり方で片づけている。そういう意味では僕らがやっているデザインを超えているのではないでしょうか。「意図的な貧しさ」が力になるかもしれないと言ったのがそういうことなんです。ある覚悟をしてみて、僕らはこれを真似する。真似というのはデザインを真似するのではなく、この考え方ですね。そう考えたくなるくらいクリティーバの試みは問題に対するポジティヴで独特な答えの探し方だったのではないかと思います。

これはライネフェルデという東ドイツの街です。一九八九年にベルリンの壁が崩壊して、東ドイツの居住者が減った団地で、徹底して町の作り変えを試みている例です。既存住棟を減築しています。これは一○○メートルか一五○メートルくらいの長い住棟でした。五階建てでしたが、上一階を取って四階建てにし、そのうえ階段を共有する二つの住戸によるユニットを一ユニットおきに撤去する、要は床面積を半減させているわけですね。上の一層も取っていますから半分以上に減っています。こんなことをやって新しい定住人口に合わせた新たなマスタープランに沿って街作りをしている。もちろん住戸は外断熱化して、新しい性能を確保、負荷を減らしながらクオリティを上げている。最小限の投資で、と言いながらここは建築実験場みたいになっていますから、かなりのお金が投入されていることは間違いないのですが、それでも連続性を確保しながらサステイナブルな都市計画をやろうということでEUの都市計画賞をもらっています。
次は有名な建物で、第二次大戦直後、ロンドンといえども貧しかった時代にできた《ロイヤル・フェスティバル・ホール》(一九五一)です。ここも今日に至るまで何度か大改修をしています。ごく最近二年間にわたる大改修が終わったばかりだということです。これはオーディトリウムの下ホワイエのところです。いつ行ってもここに人がいて、誰かが音楽を演奏しています。《東京文化会館》の一階のロビーみたいなところにいつでもたくさんの人がいるんですね。ずっと座って本を読んでいる人もいれば、ビールを飲んでる人もいる。日本の公共空間とだいぶ違うなという印象があって、要求を発見しそれに対する的確なサーヴィスが建築でもまだまだできるかもしれないと考えさせられます。つまり標準的なサーヴィスのレヴェル、クオリティのレヴェル、あるいはアイデアのレヴェルみたいなものをもう一歩も二歩も超えてですね、こういう場所をわれわれも作っていきたいし、そういう余計なお節介に近いもの、広い意味でのこちら側からの提案、アイデアを入れていきたいと思います。サステイナブルな建築とは市民に親しまれ、時代の要求に合わせ大胆、繊細に改修され使い続けられることです。そのための工夫とサービスが何より求められることをこの事例は教えています。

日本におけるサステイナブル・デザインの可能性

これからは私の作品《長池ネイチャーセンター》(ニ〇〇一)です。日本でのサステイナブル・デザインの可能性というと僕はひとつは木造にあると思います。僕は稲山正弘という構造家と木造の建物をいくつかやっています。彼は、木構造をめり込みとか変形を計算し解析します。日本の木造というもの持続可能性のすごさを僕らはなんとか追究できないかと考えています。今まで筋交、壁でしか解析できなかったものが、めり込み計算などによりさまざまな解析できるようになり木造の考え方そのものが変わりつつあると考えています。昔の技術、伝統技術をそのままやるのではなくて、そうした伝統技術をも巻き込みながら、明日何ができるかというのを考えてみたいと思っているのです。

《いわむらかずお絵本の丘美術館》(一九九八)これも僕の設計した建物です。これもめり込みを計算を根拠にした構造計算をしているんですが、こうした架構は大工が非常に飲み込みがいい。そういうことで大工の頭の中にある合理と僕らがここでやっていることはとてもうまくつながっているという確信がこのときはありました。つまり大工は僕らが提案していることをすごく喜んでいるはずで、大工たちが長い間考えていた合理の延長線上に発展するかたちがありうるということを彼らは理解したのではないかと考えています。ここでは地元の樹齢八○年ぐらいの杉材で作っています。そうすると、二酸化炭素の発生量はとても少ないです。アメリカ産材料を持ってくるとか北欧産材料を持ってくるとかウッドマイレージといいますが、輸送にかかる二酸化炭素発生量がありますから。先ほどの話とつなげると「意図的な貧しさ」というのは皮肉にも金がかかります。プレカットや外材は、貨幣で比較すると驚くほど廉価です。大工を使い、地元の木材を使うことはとても金のかかることとなってしまっています。しかし、大工のテクノロジーの伝承は存亡の危機に来ているものの、それをうまく活かすことができれば間違いなく日本独特の新しい木造ができる。大工の総合的な腕力、合理的な思考回路みたいなもの、それを使える国は日本だけですね。しかも新しい貨幣/負の貨幣とでもいいましょうか、二酸化炭素をコストとして計ればこのほうが圧倒的に合理的でもあるのです。

最後に「デュラブル(DURABLE)とサステイナブル(SUSTAINABLE9)についてちょっと触れたいと考えます。福田晴虔さんの著作にある話の受け売りです。デュラブルというのはジュラルミンのもとになった、永久不滅であるという単語です。サステイナブルとは相当違う概念です。つまりサステイナブルは、ちょっと言い過ぎかも知れませんがふらふらでよたよたなもの、ずっとペンキを塗りつづけないと腐っちゃうようなものを使い続けるという持続です。要は「貧しいもの」の「意図的」な持続です。本当にそんなものがあるかどうかは別として、黙っていても持続していくもの、そうした永久不変なものがサステイナブル・ソサエティ、サステイナブル・デザインの求めるものではなく、手を入れたり直したり支えたり、場合によってはもう一度考え直したりしながらずっとサステインしていくもの、そういうあり方こそサステイナブル・ソサエティなのだいうということです。考えてみればあたりまえですね。その一見面倒くさそうな宿題を面白そうに解く。その楽しさはサイエンス/技術がここニ〇〇年にわたり楽しんできたものでもある。われわれの宿題もその延長のなかで楽しみと独創を秘めている。サステイナブルな思考はそうした思考そのものと考えていいのではないか。社会はそうした思考、独創にきっと共感と拍手をしてくれるはずで、その辺はポジティヴに思っていいと思います。


▼質疑応答
難波和彦──僕はこれまでに野沢さんの話を断片的には聞いていましたが、まとめて聞いたのは今回が初めてで、ようやく全体がつながった気がします。みなさんは野沢さんのフットワークの軽さに翻弄されたかもしれないけれど、あちこち細かな話題を散りばめながら、最後には全体でサステイナブルというテーマに収斂していくという、とてもわかりやすい話で、僕は感動しました。
松村秀一──野沢さんとブルネルの組み合わせはまったく意外でした。ブルネルという
のはなんか僕のなかでは大立て者ですよね。もうちょっと違う話をされるのかなと思っ
ていたので非常に面白くお聞きしました。たぶん、野沢さんがおっしゃっているサステイナビリティとは、結局は社会全体の考え方ですよね。個々の人がどうこうという問題ではなくて、社会全体の受け止め方とか仕組みの問題とか。僕はなかなか楽観的に考えられないタイプなのですが、明るい未来を感じさせるものがあるという確信を持っていらっしゃる。そういう僕のために例えばこういうところに出てるよというのがあれば教えていただきたい。
野沢──一番影響を受けたのは、例のレイナー・バンハムの「環境としての建築(The
Architecture of the Welltempered Environment)」(鹿島出版会、1981)です。あれは必読書です。原著が出版されたのは一九六九年ですから、三五年以上も前の本ですね。新しいものですと、齋藤晃「蒸気機関車の興亡」(NTT出版/一九九六年)とか「蒸気機関車の挑戦」(NTT出版/一九九八年)、杉浦昭典『蒸気船の世紀』(NTT出版/一九九九年)和辻春樹『随筆──船』、(NTT出版/一九九六年)などを思い出します。技術屋さんのモチベーションというのはみんな善意なんですよね。橋が落ちちゃったりしますから後で反省したりするんですが。技術屋がストイックになったってしょうがないだろうと思います。
難波──ブルネルの話で僕がひとつ印象深く覚えているエピソードがあります。松村さんが言うように、当時の彼は王立建築家協会の重鎮で、一八五一年のロンドン万国博覧会の企画者でもあったので、立場上、会場の最初の案を設計しました。しかしこれが工期も費用も無視した重厚な案で、結局若い温室技術者のジョセフ・パクストンの《クリスタルパレス》をつくったわけで、それが結果的にどういう空間になるのか、まったく予想もしていなかったと思います。できたあとに、自分のやったことの凄さに自分で驚いてしまう。それを自覚し次のプロジェクトに意図的に適用しようとした途端、どこかにブレーキかかかるというか、同じパターンをくり返すことになってしまうのではないかと思うのです.ブルネルもそうだったし、パクストンもそうだった。
今日の野沢さんの話に通底しているのは、やはり技術の重要性ですね。ブルネルやパク
ストンのようなエンジニアたちか生み出してきた技術が巨大化して、近代文明、近代文化
近代建築が生まれた。それが肥大化して今や地球環境を壊しているわけだけど、だから技術を捨てましょうということでは絶対に解決できない。むしろ技術をもっと繊細に、もっと細やかに、もっと高性能にコントロールしていかなくてはいけない。そこでかつてのブルネルたちが考えたような知恵が、もう一度必要とされている。鉄骨造そのものは確かにサステイナブルじゃないイメージがあるけれど、それを支えてきた技術や人間の知恵は、−九世紀以来洗練され蓄積されているので、それを否定してはいけない。そういう意味で、今日の野沢さんの話は鉄骨の話題から始まったと理解すると、とても話が通りやすいのではないでしょうか。
野沢──そのとおりですね。あと僕が建築の勉強をして良かったと思うのは、建築には歴史の先生がいらっしゃるということです。
難波──東大工学部の図書館問題というのがあって、工学部のなかで図書館をすべて統括してしまおうという話あります。そういう動きに、建築学科だけが反対してる。なぜかというと、ほかの学科は純粋にエンジニアリングだけで、歴史なんかに興味はないのです。エンジニアは最新の技術にしか興味がない。しかし建築は文化的な側面が重要で、新しさだけが価値ではない。
野沢──ミュンヘンのドイツ博物館に行かれるといいですよ。大英博物館のように植民地から持って来たものはあまりない。だけどドイツ博物館には汽車、飛行機、鉄橋の模型や、ダムや河川管理の土木技術の書籍などがなんでこんなに並べるんだというくらいあります。そうした振り返る方法というの持っていない、過去になにを考えたのか分からないということは困るよね。
難波──僕の考えでは、そういうカルチュラルな面、歴史的な面があることが、その学問の成熟度を示していると思うんですが、工学部のなかでそういうことを主張しているのは建築学科だけです。
野沢──土木学会が出版した日本中の土木的ヘリテージを、登呂遺跡から始まって近代までずっと並べたすごくきれいな本があります。旅行に行くときに持っていくといい本です。建築であれランドスケープとか風景とか、文化財とかいろんなことを考えるのは僕たちの仕事に入っていると思います。あれは日本の土木系の歴史が作った見事な成果だったと思います。だから歴史を体系化していこうという動きはほかの分野でも始まってはいる。


                              (建築とまちづくり2007年8月号掲載)

建築が探す回答は問題を発見するときに既に用意されていると考えることができるのではないか。様々な課題が様々な形で回答を得る。それを喜びそれの拠る何らかの利便、充実、快適を享受する、建築に限らず近代以降の技術革新とは技術革新それ自身を裏の主題とし独創を求める様々な分野の成果となる。醍醐味と快楽はそこにあった。
テクノロジーの分野では解決が叶わない問題は当面問題として浮上しないのだ。言い換えれば解決可能でしかし未だ発見されることがない問題の発見こそが近代を作って来たと考えることができる。それには見事な答えが存在するからである。そして18世紀以降の技術的問題の発見とその答えは素材、工法、構造、生産それらの進化、精密化、標準化に寄り添って行われたといえるのではないかと思う。鋳鉄が鋼に至る間、どれほどの大きな進化があったか。アイアンブリッジの径間は60メートル、明石大橋のそれは2000メートルである。そしてこれら進化が往々新たな問題を内包していることも当然のこととしてあり、進化が見せる新たな世界はまだ見ぬ難問を抱える世界として現れる。こうした進化、そしてそれによる問題の発見解決を繰り返しながらここにいたる。解決の見えない問題は霧のような不安と予測を抱かせる。それを気にしながらもそれを直接の問題とすることができない、温暖化についての様々な予測を正面から受け入れることができないのもそれに起因する。不安と予測と伴走しながら技術は解決を求めていくのだろう。横道のそれるが放射性廃棄物の処理をめぐる問題ははそうしたものの最大のものであると考えるべきではないか。

もちろん、ここ100年、建築の設備の分野での進化が建築そのものを変化させてきた事実も公平に評価されるべきものである。しかしいわゆる「設備」的主題を深化させそれを環境についての問題と答えに重ね合わせる事はかなり厄介な様相を呈する。設備技術というフィールドが環境にかかわる今日的諸問題とその回答とを積極的に応答させ利便、充実、快適を掌の上で楽しげに試みることはなかなか難しい宿題であったといっていいのではないか。アクティブな技術としての設備にとって、後に回さざるを得ない問題であったのだろう。日々変わる気候、ささやかなものでしかない自然エネルギーこれ等を取り扱うこと、そして五感にかかる温熱、これらは人それぞれの体験にも拠る実に不確定なものと考えることができる。重力を扱うほど簡単ではないことは想像に易い、そのため設備は長期それに触れずにいた。大まかで荒っぽい幾分大きめの回答を是とせざるを得ないものであったと考えていいのではないかと思う。
ただそうは言ってもこの分野の進化が建築を大きく変化させてきたことはいうまでもない。20世紀後半の建築の進化は設備の進展によっていることは改めていうまでもないだろう。鉄とガラスが20世紀建築を作ったとの口吻を借りればむしろキャリア等による冷凍機の発明と開発の歴史こそが現代の建築の姿の何よりの根拠であるということができよう。
冷凍機、ボイラーによる空気調和技術が建築の姿を規定した後の今日において、サステイナブルデザインが言われエネルギー使用量の削減が求められる。そんな中、建築は再度その姿を劇的に変える可能性を持っていると考えていいだろう。ほぼ20年ほど以前、パーソナルコンピュータが身近になったころ、不安と予測と伴走しながら、新しい環境技術の萌芽は確実に表れ、成長の度合いを急にしながら今日に至っている。特にこれに敏感な北ヨーロッパを旅すると太陽電池や風力発電風車が訪れるたびごとに数を増し以前とまったく異なる景観を見せる。われわれの周辺においても住宅の断熱気密性能の向上など性能についての前提の変化は著しい。技術は様々に試みられる。しかし不安と予測を無いものとしたいという欲求は静かにそこに沈殿しているようにも見える。未だ胸を張って問題を問題とするための答えは社会の側にも技術の側にも用意できていないのだろう。この問題をもっと精妙に解く新しい独創のエンジニア、独創の思想の登場が待たれる。
またここには問題を問題として合意する社会または制度の参加が必須であることも当然ある。社会、制度、産業は昨日とのつながりに縛りを受ける、このままでいいのではないか、そう考え勝ちなのだ。技術は問題解決を誘導する社会的合意の生成を待っているのかもしれない。新しい思考の登場こそが求められるのかもしれない。

今日の社会の様々な活動分野はそのすべてにわたりその劇的で決定的な負荷の軽減が求められている。建築はそのエネルギー使用量、負荷を建設時、使用時、解体時にわたり削減したい、との要請にいま確実に答える技術分野での方法を持つのだろうか。建築が資源多消費なものであることから劇的に脱することはないだろう。建築は重たいものであることを条件付けられているのではないか。少しでも資源量を減らしたい、これはわれわれの工夫の分野、工学的テーマへの要請である。と同時にむしろ制度的社会的テーマへの要請としての側面が極めて大きく社会的合意が求められる主題であることはすぐにわかるだろう。
建築は制度習慣の中その姿を現す。そこに着目すれば新築時および解体時の資源使用量を減ずることは可能である。建てない、壊さない、これが最善の処方ということになる。50年で破壊を100年、150年とする、これが何よりの答えとなる。これにより資源使用は二分の一、三分の一に削減する。大幅に直しながら補強しながら使う。以前からオランダのハブラーケン等により提唱されている「オープンビルディング」の思想、実線がこれに沿う。サポートとインフィルを分離、サポートを長寿命のものと認識するのだ。
この方策が作り出す景観、建築の姿はすでに存在する。ドイツ、ライネフェルデでの団地の再生は減築を伴うマスタープランにより住棟を削減、再設計し、新たな環境を創出している。ここでは既存のパネル住宅団地の存在を前提としながら勇気のある新しいコミュニテイのイメージを社会学的根拠を持って提示している。ここでの様々な試みは新築でないが故の新しい再生技術を生み出し、専門家に拠る技術的分野としての独創も極めて興味深いものがある。もちろんここでの再生設計の中で住棟,住戸レベルの維持管理の負荷軽減と快適性の確保もたくみに計画されている。
国内でも近角さんの80年を経た武田五一設計のドミトリーをコーポラティブハウスに改修し躯体のライフを150年ほどに延ばした求道学舎の改修プロジェクト、圓山さんの40年ほど経ち,少子化により不要となった中学校を補強改修一部新築し単科大学に甦らせた改修プロジェクトなど、社会、習慣、制度と格闘しながらの合意も現れつつある。
環境の時代 サステイナブルデザインは少しずつ社会に現れ、人々がそれを快適なものと知り、引き受ける度量を持ち、進んで選択することが普通のことになる、それはまもなくのことかもしれない。技術はその時代と併走しつつ進化することとなる。

昨年来、東村山の旧都営住宅敷地において「東村山市本町地区プロジェクト」という 都が企画した戸建て住宅団地の建設が進んでいる。都有地を75年の定期借地として貸し出し戸建ての町を作る計画である。この企画は当初から公募プロポーザル方式で行われ、そのうち建設総数の一部100戸が「実証実験」という括りで「高品質と低コストの両立」を計画の骨子とするプロジェクトとして公募された。私は友人の建築家、地域工務店と組み、このプロポーザルへ参加し、坪当たり50万、戸あたりの延べ床面積40坪の条件を前提に、今日求められる性能をいかに計画に盛り込むか激論を交わしながら計画をまとめた。もちろん得意とする自然エネルギーによる暖房換気システムの搭載されたものとしてである。結果としてここでは通常われわれの前にすべてが明らかにされることのない部分、原価にも踏み込むことになった。それとの格闘が最大の懸案であったからである。様々な工夫は価格の合理に向かう工夫であった。
われわれはこの試みの中で巧まずして様々な過去の努力に触れることになった。徹底した性能追及は結果、先ほどのハブラーケンの提唱するオープンハウジングに接近したのだ。軸組みの検証は室内にまったく構造壁ない架構を思いつかせた。中央に一本の柱があるのみの軸組みである。プランの単純化は結果として基礎の単純化、床などの工事の能率化を呼び寄せ、サポートとしての躯体は断熱気密などシェルターとしての性能を問題なく作り出す。風呂、台所、便所の配置もまったく自由でありその他インフィルは床、外壁の整ったのちの施工となる。しかもこれらインフィルの改変更新はまったく自由である。長寿命な躯体は様々な生活の変化に自在に対応するインフィルの仕組み、その可変性によって使い続けられるであろう。われわれはこの応募案を「木造ドミノ」と名づけ応募し採用された。
建設の現場では既に三期にわたり8棟が竣工、または竣工を控えている。一年後には当初予定の25棟のソーラービレッジが現れるはずだ。期ごとに少しずつの改良を検討し現場にそれを反映させ工事は行われているが、様々に初期の構想を越えた成果が現れている。ここに来て大工自身の工夫もあり人工が一般に言われるものの約半分、約70人工ですべての大工の仕事、家具までもができている。建て方までの人工も通常の二分の一である。間仕切壁がないことがいかに施工効率を上げるか、この結果は関係した人々の正直な驚きをもって迎えられている。工期ごとに様々な工夫がそれを支えて、確実な技術としてここにオープンビルディングシステムが存在することが確認されている。決して品質を下げず自然エネルギー利用をも搭載しこの価格と品質、そして将来の可変性までを視野に入れた「木造ドミノ」の更なる展開をこれからも考えて行きたいと思う。
テクノロジーの話に戻ろう。通常の前提の中で、既存の通念としてわれわれの中にあるもの、それについて意図的に考えることが実はとても難しい。われわれの頭の中では在来木造はコストを含め、いつまでも在来木造としてある。前提をさかのぼることをわれわれはなかなかしないのだ。しかしそれ無しには新しい答えは現れないのではないか。「木造ドミノ」はそれに踏み込んだと感じている。

先日、新聞にマグナス効果を応用の風力発電風車の開発者が紹介されていた。マグナス効果とは辞書によると
「球形の弾丸が飛翔中に曲がる現象に対しての説明として、1852年にドイツの科学者ハインリッヒ・グスタフ・マグヌスによってはじめて認識された。」もので「円柱または球が回転しながら,粘性を有する流体中を一定速度で移動または一様流中に置かれた場合、円柱または球表 面に接する流体が粘性によって回転運動に引きずられ、回転速度及び粘性に相応する循環Γ が周りに発生し、移動方向または一様流に対して垂直の力(揚力)が発生する。今、2次元ポテンシャル流れを考えると、一定速度または一様流速度をU,流体の密度をρ とすれば、発生する力L は次式で得られる。L = ρUΓ上式は2次元ポテンシャルにおいて、循環 Γ を有する翼に生ずる揚力の式と一致する。この式はクッタ・ジューコフスキーの定理と呼ばれる。」
とのことであった。少し難しいが、野球のボールがカーブする理屈だという。19世紀半ばという時代にはそうした発明、開発、独創が実に多彩に存在する。この時代のこれ等知的興味の目覚しい展開については、以前からいろいろと驚かされるがマグナス効果もそのひとつということだ。この風車の開発者のように、こうした原理、つまり一から考えること、思考を源流までさかのぼることが新しい知の鉱脈の発見につながるのかも知れないと思う。
いうまでも無いが、今後のエネルギーを支えるといわれる燃料電池も19世紀半ばの発明が今日になって再発見されたものだ。辞書は「燃料電池の歴史は古く、1839年にはイギリス のグローブが白金を電極、希硫酸を電解質としたグローブ電池により、水素と酸素から電気を取り出す燃料電池の原理を発明している。その後、長らく忘れられた技術であったが、」としている。決して考えることをあきらめなかったカナダ人バラード兄弟はこれの実用に火をつけたのである。
地球環境を再度19世紀以前の健全なものに再生すること、これはただならない努力が必要だろう。COP3、京都議定書の言う温暖化ガスの2010年の6パーセント削減というわが国の約束は今日までの上昇分8パーセントを加えると14パーセント、一週間のうち一日をまったく活動するな、という削減量である。このことを社会が重く考え受け入れることそして行動すること、技術が様々にそれに向けた開発を促進し期待にこたえること、それだけがわれわれのできることであり、そこに市民として、職能人としての充実もあるのではないかと考えるのだ。



当時(一九六〇年頃)、大高建築設計事務所は代々木の山手通りに面するガード沿いにあり、毎週末に大澤三郎さん(昭和十一年卒)が来てわれわれの図面を見てくれる、ということがあった。大高正人が前川囲男事務所の時代の大番頭である先輩を、われわれ稚拙で見ていられないスタッフの後見役として依頼した結果であったのだろう。そのわれわれがこの好機を上手に利用したかはとてもおぼつかないのだが…。ただ私は得をした。土曜は大澤さんが来てくれる日であり、そして時折掃除の人の来る日でもあった。それが重なると仕事場を追い出される、そんな折、私は芸大先輩のお守りをする役目をおおせつかることになる。芸大出はたしか私一人であった。喫茶店でいろいろな話を開いた。薀蓄話がなにより面白かった。むかしコーキングは鉛であったこと、映画『ノートルダムのせむし男』で教会の守りをするせむし男が溶けた鉛を追手に浴びせるシーンの信憑性の話など、ナルホドと思いながら聞いた。埼玉県立博物館の打ち込みタイルがきれいにでき、富士窯業の松嶋さん(この人も伝説の人だが)と大沢さんが喜んだのだが、前川御大が「綺麗過ぎる」と不満であったことなど。大澤さんは幾つかしか年の違わないボスを尊重し彼との応答を楽しそうに話していた。後年、大澤さんにゆっくり話を聞こうと、ある編集者と一緒に企画をして申し入れたが「息子の設計による自宅の改築がすんだらその自宅でやりましょう」と言う。その日を楽しみに待った。大渾さんは引越しのあわただしい作業の中、亡くなられた。ご存知であろうが念のため、大澤さんは美術学校教授大津三之助さんの三男であり、確か大澤家は福沢諭吉との血縁であったはず。お悔やみに奥様輝子さんを訪ねた折に、棚上に論書が洋行の土産としたブリキの汽車があったと記憶する。著名な画家である次男の昌助さんの話を楽しげにされ、僕にも毎回個展の案内を下さった。昌助さんの絵はすばらしかった。大渾さんは昌助さんと同様に長寿であるはず、と信じていたことを悔やんだ。もっとたくさんの話を開きたかった。
牧野清さん(昭和一五年卒)は吉村事務所の番頭格であったはずである。うろ覚えであるが国際文化会館の木造住宅は彼の担当ではなかったか。残念ながら以前の改修時に取り壊されてしまったから実物を見てはいないが、僕の好きな吉村作品である。二〇〇五年に開催された「書村順三建築展」にも模型が展示されていた。彼は私の父と府立七中で同期であった。七中の同期には南方で戦病死した小林忠雄(昭和一六年卒)もいて、美術学枚建築科の人気がしのばれる。牧野は長年勤めた吉村事務所を辞し自分の事務所を開設してから数年を経ずに病没している。実は彼の同期には私の父だけでなく叔父もいる。私の母が叔父の妹である。父は同級生の妹と結婚したということになる。その兄弟に粟冠(難しいがサッカと読む)康勝(昭和二三年卒)がいる。おそらく彼が美校を受験したことと牧野清の存在は関係がある。粟冠康勝は卒業後、吉村順三先生の最初のひとりだけのスタッフになる。このことは『新建築別冊日本現代建築家シリーズ7吉村順三』(新建築社/一九八三年)の中で吉村さんが話してもいる。僕には残念ながら叔父についての記憶がない。子供の頃の写真に、叔父が作ってくれたこいのぼりを持っているものがあるだけだ。古い『新建築』誌に掲載されている彼の卒業設計は「放送局」であった。吉村さんが結核(肋膜かもしれない)を患い佐倉のサナトリウムに入院した折に見舞ったことがある、と聞いたがこれも記憶があると記すべきだろう。彼が描いたどくだみの絵が祖母の家にあった。彼自身も昭和二五年結核を患い没している。幼かった私は東大病院の病室の窓の向こう、不忍池の先に上野動物園の緑を見た記憶を持つ。私の芸大受験もこの環境によっていることになる。合格を喜んでくれた牧野さんのことを思い出す。わが祖母は叔父の没後も、時折吉村宅を訪れることがあったと聞く。
粟冠の同期には森康二(昭和二三年卒)がいて、今もお元気なのではないか。わが国の動画界の先駆者である。建築が作りにくい戦後、勢いのある映画に目を向ける人も少なくなかったようだ。
以下、思い出すままに記す。大澤さん同様、長期にわたり著名な建築家のアソシエーツとして仕事をされた美術学枚・芸大の先輩たちがおられるが、それらの方々のひとりに原田順さん(昭和二五年卒)がおられる。村野藤吾事務所に長年勤められ、村野さんの例のスケッチ〜ナプキンに書いたりホテルの便箋、新聞の余白に描いたりしたあれだ〜の解読ができる数少ないスタッフだったと開いたことを思い出す。退職後、息子さんとともに新宿の「トップス」というコーヒショップとバーの入った建物をご自身に案内していただいたことがある。歯のない口を大きく開け、笑いながら快活に楽しげに村野事務所時代の話をされていた。
吉村さんと同様にレーモンド事務所に参加された方々もいらっしやる。よく知られる通り、レーモンド事務所には、前川さんがコルビュジエの元から帰国した後すぐに勤めている。当時、最も優れた仕事のできる場所であったのであろう。ここには天野正治さん(昭和七年卒)、石川恒雄さん(昭和八年卒)がおられる。もちろん私はこれらの方々との面識をもたない。レーモンド事務所が一九三八年に出版したデイテール集『Antonin Raymond Architectural Details』の扉にお名前を見る。
坂倉準三さんの事務所には多くの芸大卒の人々がいる。長大作さん(昭和二〇年卒)はその中で特に私の知る人である。坂倉時代から椅子のデザインは長さんにゆだねられていたのであろう。ビエンナーレの出品に端を発する数々のデザインは今も少しずつ更新されながら多くの人々に愛されている。八〇歳代半ばの今も現役である。

週末17日高等学校同期会があった。高校15期、われわれの同期は文集の発行を不定期だが行っている。面倒を見てくれるコアがあり彼らの力である。今回第三冊目が会場で手渡された。そこに寄せた文章を少し長いがブログに再録する。     

僕の父方のルーツは栃木県真岡である。僕自身そこがどこであるか判然としていないのだが、幼児のころ一度だけ父と行った記憶がある。たぶん遠い親族との用事があったのであろう。本籍も大分以前 煩雑を避けるため育った国分寺に移した。
関東圏は明治期から人々の移住が急速に始まったのだろう。父のそう遠くない祖先もそのころ東京にでたようだ。多分相続することの無い次男三男であったのではないか。
気がついてみると僕の仕事が一部その栃木に偏在する。老人ホーム、デイサービスセンター、アトリエ、幼稚園、美術館、医院、住宅、別荘など。もちろん一度縁が出来るとそれを手がかりに、と言うことではあるのだが、そうはいかないこともよくあるのだから、何かの縁を感じないことも無いのである。広く明るい関東平野の風景はどこかなじみのいいものとして僕の中にある。
栃木の仕事はそのほとんどが木造である。木造の仕事は大工がきちんと技術を持っていてくれているか、が問われる。栃木ではその大工に恵まれて面白い仕事が出来ている。いわむらかずおという絵本作家の個人美術館もそうした事例だが、それの建つ馬頭は八溝山系の豊かな森林の恵まれてもいた。用材はここから供給されたのである。

少年期を過ごした多摩地域にはこうした縁はあまり無かったのだが、・・・とは言いながら高校同期の友人の家を数件設計させていただいてもいるのだが・・・ここに来て様子があれこれとかかわりつつある。
東村山でまとまった住宅団地の計画が進んでいる。東京都営住宅建て替えによって余剰となった土地利用の計画である。「実証実験」と称し、ローコストで性能のいい住まいの供給、をスローガンに都がコンペティションを行ったが、そこで選ばれ目下建設が進んでいる。坪あたり50万での計画で太陽熱利用の換気と暖房の仕組みのついた間取りの改変が自由な住まいが一年半ほどの間に25棟建設される。ここでも東京都の多摩地域の木材が使われている。工務店の強い意向にも拠るのだが地域の材で作ることが地域の森を活性化するばかりか石油を使い運ばれる外材に比しCO2発生の大幅な削減にもなる。選ばれた4チームの中に僕が最初に勤務した事務所の先輩の事務所もあり、良き競合となっている。
目下最大のプロジェクトは立川市庁舎である。立川市庁舎の計画者に選定されたのは一昨年の暮れである。目下実施設計の最中だが、6ヶ月近くをかけたコンペティションで200近い応募案から市民を交えた公開の審査で選定された。同期で山下設計社長の横山君との協同である。これはまさに母校立川高校のお膝元のプロジェクトであり、現市長は大先輩ということもあり、選定されたときの驚きはなんともいえないものがあった。市民の意識も高く回を重ねるワークショップ、運営の会議の中で、立川市の様々な姿の感じながら地域を知ることと設計の作業を応答させている。設計の前段の構想の策定に始まり、コンペ、設計、施工者選定、などすべてのプロセスが参加、公開で行われる画期的なプロジェクトであり、立川の市民の自治への参加意識の高さの結果である。工事を含めるとまだまだ数年を要する計画だが、縁のある地で機会を得たことを喜びながら仕事を進めている。アトリエと呼ばれる小さな設計事務所を営みながらここまで来たが一方で大事務所の責任者となった高校の同輩との協同が良き成果となることを信じている。

僕はいつの間にか環境について興味を持つ建築家、と言うことになっている。そうした建築について調べたり見学したりする機会もある。山越邦彦という建築家の名前も70年以上前に建った環境実験住宅である彼の自邸ドーモディナミカについても30年以上以前から知っていたと思う。
住む人が不在となったことによりそれが取り壊されることとなり、昨年春、調査のメンバーに誘われた時に僕は資料に拠る以外それが三鷹にあることすら知らなかった。訪れて踏み入れたそこで見覚えのあるアルバムに出会った。高校15期、僕の家にあるのと同じ濃緑の表紙。持ち主の悠子さんが亡くなられたのはその先年の夏と聞いた。偶然に驚愕した。三年間学び舎を共にしながらクラスが異なることなどから面識が無かったのだが、何かの偶然があったとしたら、と考えたりした。ドーモディナミカは予想通りの先駆的住宅であった。
悠子さんは、遠い親族の方により新たにしつらえられた墓地にご両親と共に眠っておられる。納骨のおりには僕も参列した。冥福を祈りながらこの偶然について考えた。
山越邦彦研究会と称する会は昨秋第一回の研究成果をまとめた。今後出版、展覧会、シンポジウムを企画している。
最後にあらためて悠子さんのご冥福を祈りたい。

「箱の家」はここ十年の間に120を越える建設がなされたという。建築家が年間10以上の住宅を設計し続けそれが10年を越えて継続していることは今日の住宅設計の世界での奇跡ではないかと思う。その住宅シリーズについて建築家自身によるの二冊目のアンソロジー=第一冊は40棟を越えたころに出版されたそうだ=が出版された。ここでは作者自身により冷静にこれらの一つ一つについてのコメントがあり、またそれらが時期に応じてどのような意図を持って設計されたかの説明がなされ、この住宅シリーズの意図が丁寧に解説され、箱の家への作者自身の思いと自身による歴史と未来が簡明に冷静に語られている。奇跡には根拠があったのである。
そして何より本書はその冒頭にあるように「箱の家」から「エコハウス」へという宣言の書である。「箱の家」はこれを機に「エコハウス」に進化する、著者が述べることはここに集約しているとさえいえるのだろう。
著者は第一作「箱の家1」はシリーズを意図しスタートしたわけではない、計画が極めて厳しい予算であり結果「ローコストハウス」を真剣に考えることになった、それが箱の家シリーズの始まりであると著者は証言している。私はこのことが箱の家を特徴付ける何よりの出発点であるのだろうと思う。そしてローコストハウスへの冷静で確実な思考が1950年代のモダニズム建築テーマと寄り添うことになる事とつながるのではないかと考えるのである。戦後のモダニズム住宅はいうまでもなくローコストハウスを考えることに精力を傾注したのであり、私はこの共通する出自をとても面白く思う。
シリーズとして設計を続けていく中で箱の家がエコハウス、サステイナブルデザインへと進化していくこのことも大きくこのことと関係しているのだろう。そしてこの過程にもっとも共感する。私たちの時代がたどった道を箱の家は凝縮して示す教科書、または物差しの役目を果たすものとしてあるのではないか思う。

著者により箱の家の考え方は本書の中で以下の順に説明される。その展開、なぜ一室空間なのか、クライアントと建築家の関係は如何に考えるか、サステイナブルデザインへの道、その実現のための構法と設備、最も過激なケーススタディとしてのアルミエコハウス、そして箱の家の今後、こうした構成により過不足なく説得力をもって箱の家を説得するのである。そしてそれのどれもが極めてまともな見解であることに私は納得しながらしかし驚く。これほどけれんのない言説に出会う新鮮さに。
たぶんそれによって箱の家そのものもそれが毎回驚きを伴うものとして現れることがないのであろう」。静かに少しずつさまざまな素材、構法が試みられ奇によることなく試みられ、今日に至る。
収められた三つの対談はどれもが興味深いがここでもモダニズムの正当で禁欲的ともいえる継承者の側面を著者に見るのだ。フラットルーフから逸脱しない新奇を目指すことのない箱の家の造形は「かわらを載せるだけで犯罪を犯したような気がする」という言葉が説明する。箱の家は「あきらめることのないモダニズム」なのである。そう考えるとこのシリーズは池辺陽をいかに学び批評し継承するかの結果でもあると考えられるのではないかとすら思う。池辺も生涯100近くの住宅を作った建築家であった。本書とともにぜひ併読することをお勧めしたいのが、池辺についての著者による著作「戦後モダニズム建築の極北、池辺陽試論」であり、思索の定点として池辺の存在がいかに大きいものであることを正確に示していると思う。池辺のよる「立体最小限住宅」、箱の家1のコンセプトの第一にそのまま立体最小限住宅との記載がある、池辺によるナンバーシリーズと箱の家はこの事だけを見てもきわめて深い連続性を持つものと考えていい。「試論」には池辺が集合住宅に手を染めることをしない理由を説明するくだりがあった。同時代の建築家が集合住宅の建設に走ったとき、モジュールに興味を示し、工業化を目指した池辺は技術がいまだその精度に届かないことを理由に集合住宅に興味を示すことがなかったと記載されていたと記憶する。いま著者は箱の家の未来が集合化を目指しサステイナブルデザインを指向すると表明する。私自身ここに大きい期待がある。しかしこうした思考プロセスの上に当然あるはずのモジュール、標準化について彼はこの本の中で触れることがなく、またモダニズムが合理的帰結とすると考えていいオープンビルディングシステムについても親近を見せないように見える。箱の家のすべての室内にシナ合板によるしつらえがある。それが架構と分離されたインフィルに見えようともである。エコロジーについても深夜電力に寄り添うことで本当に足りるとする説明が今後も可能なのであろうかとも思う。この先の箱の家はこれらをいかに解いていくのだろうか。
本書、冒頭にある4層構造という解説、モノとして、エネルギーの装置として、機能として、意味、記号としてという諸相は材料、構法、構造(第一層)環境(第二層)計画(第三層)歴史意匠(第四層)と対応している。箱の家は良きにつけ悪しきにつけモダニズムの歴史意匠としての第四層に大きくよっているのではないかと思う。それを突き抜けるための材料、構法、構造、そして環境技術、計画学各層に独自で革新的な科学の出現が箱の家を大きく変えるのではないかと思うのである。それの始まりをこの本は期待させるし、科学が根拠として立ち居振舞うことを信じる著者の作為はここを基点にすることで大きな展開を果たすはずである。テクノロジーの進化が待たれる。
理解しやすく、著者の考え方を知る良書としてだけでなく、構法、ディテールの書としても広く多くの人々に薦めたい。

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