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不都合な真実AN INCONVINIENT TRUTHを観てきた。
ゴアの宣教師のような大学のレクチュアのような話を聞きながらまずはあの選挙も結果が逆であったと考えざるを得なかった。そうであったらアメリカの今の苦悩は無かったと言うことが確信できる。ゴアだったらイラクではなく地球温暖化を敵にした事は間違いが無い。話の内容については様々な真実を裏付けるデータのボリュームに感心し、プレゼンテーションのうまさに感心することぐらいで、特に目新しいことはなかったが、アメリカ一国主義のローカルソサエティの中にいる人々にとっては眼の覚めるものかもしれないと考えた。アメリカの様々な都市が国家の判断とは別に京都議定書に賛意を示していることなど個人、コミュニティ、都市、が様々にその意思を表明するところがアメリカらしいところなのだろう。この映画の製作自身がそうした意思によるものであることは言うまでも無い。(野沢)

高校のわれわれの期は時折原稿を寄せ合い本を作っている。そうした作業はそれを率先して引き受ける人によって行われる。市役所のこと,山越さんのことなどあり,急ぎ入稿した。(野沢)

住宅特集の依頼で難波和彦さんの「箱の家」の本の書評を書く。正月にあらかた書きおいてあったのだがその後特に校正もせず、期日に送った。反応が恐ろしい。(野沢)

陶芸家川崎さんの息子さん、広平さんである。
今日昼飯時本屋の用事に託けて見た。会場京橋の南天子画廊の上、暗い会場に不思議な発光体が置かれていた。アクリル、水、LEDアルミなどを素材とする機械のパーツのような形の透過するオブジェ。
ムサビ主催の個展との表示がある。大学がキュレーターを用意し企画し若き卒業生の顕彰をするということのようである。こうしたことがこれから増えるといい。27日まで。(野沢)
αMプロジェクト2006 vol.6 生命の部屋Ⅵ・川崎広平展

芸大講義の終了後 美術館で開催中の野田哲也展に立ち寄る。初期のものから最近の物までの大規模な展観である。
野田さんとは直接の面識は無いのだが弟、野田泰宏が芸大で同期であったことから以前から作品に触れる機会があった。見覚えある作品に多く出会う。日記シリーズの優れた作品ががこうして一同に展示されている機会は何よりのものと思う。28日まで。是非。無料。

23日が後期の最後の日。数人の学生との応答というどちらにも贅沢な芸大らしいレクチュアも今日が最終。学生が少ないとこちらも不思議に自由に脱線する。また彼らからのレスポンスに反応することも自在である。大学院の講座はこんな形であることがいい。講座のテーマから始まりいつの間に周縁へ話題が飛んでいくこともあったが何とか環境計画をコアとしてそのときどきのトピックをヴィークルとして回遊しその何本かの軌跡が今日のこのテーマをなんとなくあぶりだしたのではないかと思う。本当のことは学生諸君の中にあるのだが。今日レポートを受け取り採点する。学生の提出した各自のレポートは、クリチーバ 廃棄されたものによる建築、バンハム アーキグラム セドリックプライスの三題話 ゴアの「不都合な真実」などを題材としたものであった。最終日にゼーバルトの著作アウステルリッツ 目眩まし 移民たち を推奨。講座との関連は無いが是非読むようにと伝えた。最後の脱線。(野沢)

昨夕、「足尾銅山小野崎一徳写真帖の出版記念会に出席。
足尾の歴史、産業遺産としての価値につき様々な人の話を聞く機会であった。負の歴史とともに様々な輝かしい技術、工夫がそこにあったことをそこに知る。注目すべきは一徳の孫である編著者、敏さんのこと、彼の鉱山についての知見、調査、収集これ等が記述されて始めて私たちは写真が写すものの意味を知る。本書はそれが何より優れている。引き込まれる。(野沢)

先日藤木さんからの飯箸邸移築のための基金依頼をブログに転載した。
数日後北田さんから解体中の飯箸邸床から床暖房のパイプ出現との電話があり見に行きたいと思いつつ叶わずいたところ、山腰研究会、神戸の梅宮さんから7日の見学会に出席現地を見た、とのメイル。床暖房の写真も添えられていた。ますます惜しい機会を逃したな、と思う。梅宮さんの写真を許可を得て転載する。(野沢)

東村山の販売が近づき多くの見学者でにぎわっている。週末は残念ながら曇天。
パッシブソーラーの威力は体験してもらえなかったがコンクリート土間蓄熱のおかげで補助暖房コイルの加温のみで全室の温度が快適に確保されていた。何より見学者の出入り、窓の開けたての頻度が高い中での室温確保はこの仕組みの威力を示している。家具や外構も仕上がり、見学者のも好評のようでほっとした。ここでは25棟の計画だが当初考えていたように今回開発した「木造ドミノ」が長く住み続けることの出来るフレキシブルなサステイナブル木造住宅の典型としてあちこちで展開していってくれたら、と思う。(野沢)


以前ナチの5キロにわたるホテルの廃墟についてこのブログで引いたことがある。その後もたまたま購入した本誌にコルビュジェの21の建物が一括世界遺産登録の申請をしたという記事があった。昨年最後の号はエコロジー特集であった。ここではジャンヌーベルのケ.ブランリー美術館の過激な壁面緑化がパトリック・ブランという植物学者によることが紹介され、ロンドン郊外のビルダンスターの ZED BEDの紹介ではこの計画に参画したNGOが世界各地に計画を展開中で2009年までに5つの計画が進行、リスボンの計画はすでに着手していることが掲載されていた。当然ながら建築メディアとは当然異なる視点での解説が興味を引く。こうして見ると、海外の通常メディアは建築や環境につき具体的で突っ込んだ記事を掲載することが比較的多いのかもしれない。
さて昨日出た最新号はメインはリトビネンコ関連でスパイの特集。あの佐藤優さんの巻頭コメントのサービス付き。サブに温泉特集、ここでズントールのテルメ・ヴァルスが掲載、川俣正とオランダの建築家が設計したホテル・カステル、グリムショウがバースの18世紀の施設の改修再生を行っていること、スペインではゲイリーの設計のスパがあることなどが紹介されている。リーダーズダイジェストと言うアメリカの雑誌が翻訳刊行されていたことがある。(レーモンドのリーダイビルが壊された跡に建つのが毎日新聞社ビル)今日版ニュース版のリーダイといったところか。様々な情報を紹介、NHKがBSでBBC,アルジャジーラなどワールドニュース、最近はアジアの各地のニュースも流して面白いが匹敵する面白さである。(野沢)


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17日、日大三年後期の講評会、野沢ユニット課題は目下戸建てを建設中の東村山を仮想の敷地とし、生活の行動単位の検討(第一課題)から300戸の町まで(第二課題)を考えると言うもの。
西沢(大)、桑原、今村の各ユニットの課題傾向と色合いの違う設定、横河ユニットは団地再生残して計画する案が面白く見えた。

以下当日全体講評の対象になった諸君へのコメント
樋口君、彼が最初から考えていた機能単位をボイドではさみ住戸を構成する平屋による集落。住戸のバリエーションも多様で集合の形と住戸で囲まれ現れるオープンスペースの形も多彩、ただ集合のタイプを周辺住宅地の密度によって規定することがすべてはうまくいってはいない。中間的密度のところはとてもいい、多分一番検討もされているのであろう。南の高層住戸よりのところがまずい。集積の密度を上げてもこのかんがえかたでは難しいのだ。考察を組み立てて手順を追って思索することが出来ている。思索が届かないところが薄いのは仕方が無い。よくやったと思う。

為末君は個室、寝室を最小の単位としてPCのユニットとして据え。それを取り込んで囲む木造の庇のある矩形のシェルターを様々に作る計画。子供の勉強などいわば個室に付属する機能はすべて大きなシェルターの側のほど良いところに配されている。庇のしたも機能ごとに意味を持ち好ましい。学生のプロジェクトでこんなに庇のあるものは診たことが無い。集合のルールも戸あたりの敷地面積を決めプロポーションの違う様々な矩形を置くところは同意できるが様々な用に応じた外部空間が出現するところまでは行かなかった。これも手順を踏む思索の途中であり この先に考える楽しみがあるということだ。よくやった。

河合君は生活単位を家具からおこしつつ最小行動単位を設定、それらがつながれることで住戸が立ち現れる計画。特に背中合わせにされた水周りの単位は手だてになりそうで面白いもの。一部重なったりすきまを置いたりしながら配置される。これを建築にするところが面白いし難しい。すきまは床で埋められていくし、重なりは一枚に。そうした思考は住戸の可変性につなげることを思いつかせるのだが、ここが難所。そう簡単に動くのか?ということになる。多彩な住戸をこの方式で用意し、コミュニテイの中での住み替えを考える、そうしたストーリーのほうが良かったのかと思った。配置計画はフリーハンドではじからこれ等の単位を配置する力技。こんなにフィジカルに手を使って考える学生がいることがうれしい。フリーハンドの大図面はさぞかし家族の生活を脅かしたのではないだろうか。

岩田君はまず戸建てをつなげ連続させる、そしてそれを様々に屈曲させるこの操作で内部とともに外部に様々な場を作る提案。連続はしても住戸は接地し各戸は地表に入り口を持つ,しかし住戸はつながることでそのおのおのの領域を判然とはさせていない。この辺が現状の戸建、集合どちらにも批評になっていると思う。できのいい模型でも図面でも二連の住棟の間のスペースだけが注目されその外側、次の住棟とにはさまれた部分が空白であったことが惜しい。といってもそのことに当然本人が気付いている。配置計画も昨週より洗練されているこの先を考える楽しみが残されている。

プロセスを自ら思考ししかし大胆にそれを組み替えることも厭わない思いつくのではなく考え続けることが答えと説得力を生むこと。それが自らの思索への説得にもつながること。このほかの学生にも、そうした時間を持った者が多くいた。(野沢)

実は15日は成良邸の取材であった。設計者の立会いは要らないとのことで松井晴子さんとカメラマンがお邪魔した。成良婦人はここ数日片付けにおおわらわであった。
三十数年前、私が大高事務所勤めの時に設計した。成良夫妻に二人めの子供が出来、僕は未だ独身、最終的には幾分増えたかとも思うが200万で住宅と仕事場を作った、と記憶する。(子供が大きくなった20年ほど前に増築している。このことは先回書いた。)数日前に訪問した折、このこともあって本当に久しぶりに、出てきた図面を見たり、当時の「ハウスプラン」と言う雑誌に高田秀三さん(住宅作家として活躍していた人だ)が住宅をたずねるシリーズがありそこに掲載された記事を見たり、時間のたったことを感慨とともに実感した。そういえば今回取材してくれた松井さんは当時「建築」編集部のスタッフだったはず。昨日電話で「家もいいけど、住む人がいい、楽しい取材だった」とのコメント。
本当にうれしいコメントと思う。家より人?!建築知識にそのうち掲載されるはず。(野沢)

庇の無い家はいろいろ問題がおおい。成良邸の増築の後の設計の自宅(14年経過、詳細は昨年秋の「住む。」に)もそのケースではある。修理を円建設に依頼作業を開始する段になり円に事件が発生し中断していた。ましな工務店がなくなってしまう事がとても困る。14年間ほぼ何もしていないのだからしょうがないが 木サッシ、特に滑り出しの障子の腐食や屋根の一部に不具合がある。もちろん塗装もとっくにしなくてはならない段階。これを機にあれこれいじって見たいこともある。特にOMの性能UPと室温をよりうまく維持することを目指す屋根の改修をもくろんでいる。幸いあの鈴木工務店が沿線にあり「家守り」を引き継いでくれることになった。本日初打ち合わせ。

自宅はいくつか変なことをしていた。ランバーコアの床、これは思いのほか傷まない。上足の床はネコがつめを立てなければOKということ、まあたたみのことを思えば当然だが。キャンバスの天井もなんとも無い。ベニア一枚の建具,快調、アスロックを水平に敷いた玄関土間問題なし、、と言った具合である。心配しながらの箇所は特に問題が大きいことが無い。それからここではグレーチングの固定のためやら,塀のブレースやらあちこと細かい金物の製作をしてもらったり、風呂場床と腰を現場研ぎテラゾ出仕上げたり、など当時でもなかなか手間のかかる仕事をしてもらっている。今日こんなことが出来るのだろか、何をやっても手間が金に換算され手が止まる。もとより使用した鉄骨のサイズの選定はとてもよかった。重量鉄骨ではなくその下、という感じ、中量鉄骨?が住宅にあっている。注文が来ないので残念だがもう一二度はやってみたいと思う。

再生後を楽しみに。(野沢)


足尾銅山の記録が出版される。
 小野崎一徳というひとが明治期から撮りためていた写真がその子孫によって整理され出版された。驚くべき膨大で貴重な資料である。
 田中正造の直訴事件、公害の原点としての足尾が見方によっては幾分異なる視点から見ることの出来るもの、としてここにある。沈殿地、集塵装置など当時最先端の予防技術がここには撮影されている。産業の規模も眼を見張るものである。当時としては最大規模の産業の現場で何が行われていたのか、資料は詳細なキャプションを伴うことでわれわれに伝える。技術とはいつも不完全なところを持つ。当時としては最先端の技術でありそれを導入し工夫する意識、認識はあった。しかしそれが負の大きな被害を未然にすることが出来ないものでもあった。
 足尾の教えることは、今まで以上に複雑に理解する必要があるのだろう。足尾の産業遺産としての意味はとても大きい物と思う。(野沢)


出版社: 新樹社 (2006/12)  ISBN-13: 978-4787585592  ASIN: 4787585592

(ぐるぐるつくる大学セミナーハウス作成パンフレットより抜粋)
八王子の多摩丘陵に建つ、大学セミナー・ハウスは建築家、吉阪隆正の代表作で、DOCOMOMO 20選にも選ばれています。1965年に本館、宿泊施設など第一期の計画が完成してから八期にわたりいくつもの施設がつくられ、多くの学生、社会人が利用してきました。地形を生かした建築群が吉阪の設計理念を伝えています。
しかし、40周年を迎えた昨年は、ユニットハウスが一部を残して取り壊されて大きく姿を変えました。現在他の施設もメンテナンスが行き届かない危機的な状況にあり、利用者の減少など多くの課題を抱えています。
この度、有志が集まり「ぐるぐるつくる大学セミナー・ハウス」の活動を立ち上げました。周辺整備やメンテナンスなどをサポートするワークキャンプを行い、学生や社会人が作ることに参加しながら、シンポジウムやレクチャーを通じて、この建築群の設計思想に触れ、次の世代につなげる活動を進めていきます。
また、傷みの激しいユニットハウスの再生、遠来荘の維持、松下館の屋根の補修、茅橋や手摺の塗装、道の整備などメンテナンスをサポートするための募金を立ち上げました。
大学セミナー・ハウスの建築や設計思想を未来へつなぐ募金へのご支援、ご協力をお願いいたします。

ぐるぐるつくる大学セミナー・ハウス再生募金
振込口座 グルグルツクルダイガクセミナーハウス サイトウユウコ
     東京三菱UFJ銀行 東中野支店 普通預金 口座番号1557550

(「旧飯箸邸保存記録調査のための募金への協力のお願い」パンフレットより抜粋)
坂倉準三先生の最初期の作品であります旧飯箸邸(現今泉邸)が敷地の開発計画により取り壊しが決定され、事業が進められております。旧飯箸邸は第2次大戦中の昭和16年に完成したもので、コルビジェの系譜につながるモダニズム住宅としてはわが国では数少ない遺作であります.
保存移転先や移転費用などにつき関係者との折衝を重ね、坂倉竹之助氏のご尽力与子より、軽井沢の別荘地に保存移転することに決定されました。

ここで我々に課された課題は、いろいろの制約の中で、建物の保存という問題をどのように考え、実現してゆくかということです。
第1は現存する建物の現況を出来るだけ詳細に記録することです。
第2は移転再建によって保存を図ることで、現状の建物を解体し、移転先で元の部材を出来るだけ多く使って極力元の姿で再現することです。
これらの記録と保存再建を確実に実現するために坂倉建築研究所の現役とOBの有志を中心とした「旧飯箸邸 記録と保存の会」を構成しました。
調査期間は外部は12月初旬から、建物は12月23日からお正月を挟んで1月7日まで、その後の建物解体調査は1月8日から1月20日までということで極めて短期間で、しかも日程も差し迫っております。

以上の調査作業のためには映像やその他の部分で外部の専門家に依存しなければならない部分の支払いや、調査、記録用の資材の調達費用やその他の多くの費用が必要になります。
そこで、広く呼びかけて調査作業のための諸費用へのご協力をお願いすることに致しました。
ロ募金の概要
 1)金額 一口1万円で、最低一口とし何口でも結構です。目標総額は200万円です。
 2)期日 平成19年1月31日まで。(なるべく12月末までにお願いします)
 3)振込先 郵便振替 口座手号00130-0-686855
       口座名称 旧飯箸邸記録と保存の会(加入者払込・払出局 乃木坂郵便局)
※その他
1)見学会を開催いたします。今回の活動にご協力いただいた方々及び特にご関心のある方を対象にと考えています。
 調査中のことであり、多少の制約の中での見学になりますが、最後の機会ですので、ご希望の方はご参加ください。
  ・日時  2007年1月7日(日)12:00から1時間程度
2)レポートを差し上げます。会の目的が達成した時点で、どのようなものになるか未だ分かりませんが、募金をはじめとして今回の
 活動にご協力頂いた方達にレポートを差し上げたいと考えています。

7日は益子へ.学生時代からの友人成良氏宅。僕が30数年前に設計した家。
陶芸アトリエと住宅で200万だったと記憶する。ひさしのある片流れ屋根、瓦葺。
勾配にしたがって北側が二層のごく素直な構成。それでも今思うと建て替える前の大高さんの家に似ているようにも思う。その大高邸はなんとなく前川邸に似ていたと記憶する。
その後20年ほど以前に東側に、敷地の勾配に従う配置で長く高さを抑えた増築をしている。南の部分は床が下がり大きいボリュームを持つ居間になっている。ここは当時試みていたコンクリートブロックの床である。
まったくひさしの無い増築部があちこち不具合が出て手を入れてもらっている最中。ひさしのあるなしがこれほどの違いを持つ。その威力にあきれる。若いがあれこれ面倒な手入れを引き受けてくれる大工がいて助かる。東京にもこうした人が欲しい。(野沢)

6日、竣工を間近にして現場のチェック。
爆弾低気圧の接近で雨天。暖炉、レンジフードの取り付け、OM工事と塗装、外構を残し、ほぼ完成。仕事始めの前であったが薄井さん、電気屋さんも来てくれた。ほぼ予定のとおりに出来ていた。スイス漆喰の仕上がりも良い。
例によって架構の実現に薄井さんの実力が何よりの力になった。小ぶりの仕事だが稲山君の「めり込み理論」とのコラボレーションの結実。
終了後いわむら美術館に行き新年会。

7日午前はうって変わって晴天いわむら美術館で10周年イベントなどにつき相談。
もう10年にならんとするとは。(野沢)


皆様にとって良い一年になりますように。
本年もよろしくお願いいたします。

本研究は,建築家・山越邦彦(1900−80年、写真1−1,ト2,表1−1)のエコロジカルな住宅思想について,近代建築史学,建築環境工学,図書情報学,建築設計学の各面から検討し,その理念と今日的意義を明らかにしようとするものである。
 山越は近代建築史においては先鋭的なモダニズムの論客として,建築環境工学においては床暖房の推進者として,図書情報学においてはUDC(国際十進分類)普及の功労者として,建築設計学においては乾式構造(トロツケンバウ)の先駆者として一定程度知られてはいた。しかしそれらが,ひとりの人間の思想と実践の中に,どのように統合されているのかについては解明されていなかった。そうした中,1974年に発表された昭和初期住宅研究体「自然との循環系をもつ科学的実験住宅」注1)が,生前の山越に直接取材し,そのエコロジカルな思想に焦点化した意義は大きい。しかし,全体像の解明は残されたままであったと言わざるを得ない。
 筆者らは1990年代より山越に関する研究注2)を個別に発表してきたが,このたび山越が残した資料と自邸を詳細に調査する機会を得たので,これまでの知見をふまえ一次資料に基づいて多面的研究と全体的検討を試みる。
1.山越邦彦の活動背景としての1930年代
 山越がエコロジカルな思考を2軒の実験住宅に結実させた1930年代とはどのような時代だったのか。本章ではこの点を,山越の活動歴と当時の時代背景とを重ね合わせて確認する。
1−1.建築界における新しい科学的潮流
1922年に佐野利器は「尚科学は国是であらねばならない」と科学立国論を唱え,耐震設計の必要性とともに衛生学的配慮の重要性を説いた。昭和に入る頃,国家近代化の命題のもと,建築にも科学主義の風潮が定着していく。それまでも,建築の衛生的側面は設計の名のもとに建築家が担ってはいたが,学問的成立には至っておらず,それはもっぱら医学/衛生学の領域にあった。
1923年,京都帝大衛生学教室から『国民衛生』が創刊される。そこには建築衛生,特に熱・空気環境に関わる多くの論文が掲載された。従来の建築学にはなかった環境の科学的分析と実現を目指したものであった。
 同誌の第1巻(1923−24年)から第12巻(1934−35年)に掲載された熱・空気環境関係論文数は,第4巻(1926−27年)までは17→15→24→14と二桁で推移するが,第5巻(1927−28年)では4編に減少,以降一桁台前半に低迷する。これは昭和に入る頃の細菌学への傾倒によると思われる。一方,同種の論文を『建築雑誌』『衛生工業協会誌』にみると,1925年から34年までの10年間で論文6編,抄録14編。そのほとんどが1930年以降に集中している。すなわち,この頃から衛生学が担っていた研究や実務が,建築学者や建築家に引き継がれていったと考えられる注3)。
 その先駆者が藤井厚二である。1926年,藤井は『国民衛生』に「我国住宅建築の改善に関する研究」を発表,その成果を自邸聴竹居(1928年)で具体化した。同時にその内容は『日本の住宅』として出版され,若いモダニスト建築家たちにも影響を与えることになった。
1−2.近代建築運動終息後のモダニストの状況
 国家の近代化という至上命題のもとで推進されてきた建築の近代化をオーソライズされた近代建築とするならば,1920年代の建築運動が提示しようとしたのは,そのオルタナティブだった。争点は,前半では様式や造形意匠,後半では建築の社会性であった。20年代を通じて争点は変化したが方法は変わらず,主題を仮定して理想像を描くというものだった。現実性のなさはいかんともしがたいが,ほかに方法もなかった。
1930年後半に準備された新興建築家連盟は,こうした状況の打開を目指したものだった。その「一九三○年宣言」の冒頭にいう。「我々は,科学的な社会意識のもとに団結して,建築を理論的に技術的に獲得する」注4)。建築の現実性を技術に求めて,そこに立ち戻ろうとする方向はよかった。しかし,すでに「団結」が許される世の中ではなくなっていたのである。読売新聞の悪宣伝が契機となって連盟が解散した後,建築の理論的・技術的獲得という課題はどうなったのか。連盟に集った人びとそれぞれの1930年代が問われることになろう。
このように考えるとき,新興建築家連盟の中枢にいた幾人かが,1930年代初頭に相次いで自邸を建てたことが注目される。土浦亀城,市浦健,そして山越邦彦。すでにジャーナル上で活躍していたとはいえ未だ30歳前後,独立間もないかサラリーマン技術者という立場であった。家が持てるほどに恵まれていたともいえようが,逆に,建築の理論的・技術的獲得のための試みは自前で行うほかなかったということでもある。
 このときに彼らがよりどころにした技術が,乾式構造(トロツケンバウ)と環境工学であった。未熟だが可能性を秘めたこれらの技術によって,オーソライズされた近代建築に対抗しようとしたのである。

表1−1山越邦彦略年譜
1900(明治33)年 山越八郎、ひさの三男として東京で生まれる(6月22日)
1913(大正2)年 東京府立第一中学校入学(4月)同期に小池新二、柘植芳男
1918(大正7)年 同校卒業(3月)
1919(大正8)年 第一高等学校入学(9月)
         同期に村山知義、戸坂潤(卒業はともに大正10年)
1922(大正11)年 同校理科甲類卒業(8月)同期に柘植芳男(大正8年入学)
         東京帝国大学工学部建築科入学(9月)
1925(大正14)年 同大卒業(3月)、卒業設計「Kino」同期卒に渡辺要、武藤清ら
         戸田組入社(4月 設計部)この頃より小池新二と海外文献蒐集開始
         画家・玉村方久斗邸設計・竣工「ゲ・ギムlギガム・ブルルルーギムゲ
         ム編輯所」名で『新建築』(第6巻第11号)掲載
         朝日新聞紙上,筆名「プルルル生」で分離派建築会批判(8〜9月)
         1年志願兵として鉄道第一連隊入隊(12月)
1926〈大正15)年『ゲエーギムギガム・ブルルル・ギムゲム』(創刊は1924年6月)
         3年1号に「構築 構築Strukturismo」を執筆
1927(昭和2)年 三科形成芸術展覧会(6月3〜12日)に「硝子構成物体」出品
1929(昭和4)年 「構築−ルート、マイナス1建築一建築」発表(『建築世界』第23巻第
         7号)、同年大学卒業設計展の評論
1930(昭和5)年 『建築時潮』(構成社書房)を編集一創刊(6月)
         新興建築家連盟発足(7月、準備委員〜代表幹事)
1931(昭和6)年 耀堂ビル(横浜)竣工
1932(昭和7)年
1933(昭和8)年
第一書房設計・竣工
著作『耐構学』(建築学会パンフレット第5輯第6号)発行
小島基と結婚(4月25日)自邸‘‘domodinamika’’(三鷹)の
設計で床暖房、乾式構造を導入
この頃、山脇高等女学校の設計担当 大規模な床暖房を導入
1934(昭和9)年 共著書『高等建築学第18巻倉庫サイロ冷蔵庫一格納庫自動車庫』
         (常磐書房)発刊(「冷蔵庫・格納庫」執筆担当)
1936(昭和11)年 戸田組(設計部係長)依願退社(7月)自邸で設計事務所自営
        経済学者・林要邸‘‘domo multangla’’(久我山)竣工
         日本工作文化連盟設立(12月)、会員
1937(昭和12)年 臨時召集により鉄道第一連隊応召(8月30日)上海陸軍病院入院
1938(昭和13)年 腸チフスのため還送(3月15日)+入院 退院(5月)原隊復帰
1940(昭和15)年 召集解除(6月)設計事務所自営
1941(昭和16)年「友人の紹介」で柳瀬正夢の自邸設計を依頼される
         柳瀬邸竣工まで三鷹の留守宅に柳瀬一家が仮寓(7月)
         興亜院より派遣され北京大学工学院建築系教授(8月)
1942(昭和17)年 柳瀬正夢邸着工(3月 翌年3月竣工)休暇で一時帰国(8月)
1944(昭和19)年 長女・悠子誕生(8月7日)
1945(昭和20)年 終戦により北京大学教授自然解任(10月)
1946(昭和21)年 中華氏国立世界科学社留用、研究員(12月)
1948(昭和23)年 同上 留用解除(11月)引き揚げ(11月29日佐世保港着)
1949(昭和24)年 法政工業専門学校建築科教授 法政大学専任教授
1952(昭和27)年 日本学術会議国際十進法分類(U.D.C)法委員会委員
         日本建築学会図書委員 U.D.C分類『建築雑誌』掲載開始
1953(昭和28)年 法政大学退職 横浜国立大学工学部教授(8月1日付)
1954(昭和29)年 日本工業標準調査会(通産省)臨時委員
1956(昭和31)年ドキュメンテーション研究連絡委員会U.D.C小委員会建築学会分科会委員
1958(昭和33)年 日本建築学会建築設計計画基準委員会、建築辞典編集準備委員会委員
         横浜国立大学附属図書館工学部分館長(〜1962年3月、2期4年)
1961(昭和36)年 朝日新聞に「処置のない汚水」発表(10月18日朝刊9面)、中性洗
         剤害毒問題化のきっかけとなる
1962(昭和37)年 横浜国立大学工業教員養成所講師餅任
         衆議院科学技術振興対策特別委員会に参考人召致(中性洗剤の
         害毒に関して)
1963(昭和38)年 横浜国立大学工業教員養成所教授に配置換え 工学部教授併任
1965(昭和40)年『台所の恐怖−おそろしい洗剤の害毒』(柳沢文正・文徳と共著)
1967(昭和42)年 横浜国立大学辞職(3月31日付)
1968(昭和43)年 向中野学園(盛岡市)校長住宅・農場管理室新築に際して寒冷地向
         け床暖房設備と管理浄化槽装置を設計
1970(昭和45)年 小山自動車整備専門学校(現東京工科専門学校)校長
1971(昭和46)年 日本科学技術センター丹羽賞受賞
1974(昭和49)年ドーモ・セラカント(設計=象設計集団)の床暖房設計施工を担当
1980(昭和55)年 病気のため逝去(4月7日)


1−3.山越の環境工学への関心
 環境工学や建築設備に対する山越の関心が,以前から高かったというわけでもない。そもそも当時の東京帝大建築科には自前の設備の授業はなく,機械科の授業を受けていたという。山越が中村達太郎の「暖房・給湯・給水の本」を知り座右の書とするのは卒業後のことであった注5)。一方,戸田組在職時に小池新二と収集を始めた海外資料中には,建築設備関連情報が多数あったという。自邸の計画が始まるのは,そのようなときである。紆余曲折の末見つけた敷地は「何を好んで冬期北風の多い,夏期は又大陸的気候に近い暑さの土地を選んだか疑問視される」ような「東京駅から45分もかかる遠方」注6),東京市三鷹村下連雀だった。上水・下水ともになく,ガスのみが敷設されていたという。
 こうした環境条件下でいかに快適な住まいを実現するか。この課題に直面して,住まいをめぐる環境工学への関心もおのずと高まっていったと思われる。

2.住宅設計における山越邦彦のエコロジカルな思考
 山越が設計してエスペラントで命名した二つの住宅−
ドーモ・ディナミーカ(1933年,写真2−1,図2−1,図2−3),ドーモ・ムルタングラ(1936年,写真2−2,図2−2)−は,継続する実験住宅だった。本章ではこの実験を通して山越が検証しようとしたエコロジカルな思考の具体的内容を明らかにする。

2−1.基本的態度としてのエコロジー
 山越は1934年に次のように述べている。「生物工学は人間を物の尺度として技術的関心の中心に移し技術と有機体との調和を創造することを課題とする。而して人間を技術の危険より解放し,技術にその生物工学的変化に於て生活向上の可能性を与へやうとする。技術によつて生命を損耗することではなく,技術形態を生活体に奉仕するやう生活態の多様性に適応せしむることによつて生命を獲得する。之が生物工学の意味及び課題である」注7)。
文脈から判断すると,山越が用いた「生物工学」の意味は,今日の生態学=エコロジー,とりわけ生物と生息空間との間に成り立つ相互作用に着目する生態系の意味である。逆に今日,生物工学といえば主にバイオメカニクスを指すから,注意が必要だろう。
 山越は,住宅設計を「生物工学」的に行うには「気象学的の諸要素の大気の温度湿度風速及び柘射熱の正確な測定とともに之等の生物工学的意義が明らかにされて,その綜合的作用より考察」する必要があるので「Physiologische KlimatologieとKlimaphysiologeの協力の必要を感ずる」注8)(生理学的気候学,気候生理学とでも訳せるか。気象/気候の区別は厳密ではないようだ)と述べる。すなわち,住宅における住人の生命現象を明らかにするためには,人間一住宅の相関を問題にするだけでなく,さらに外側の気象=大気圏までを考慮する必要を説いている。以上から,1930年代初期において山越は,住宅設計を地球規模の生態系に位置づけていたことがわかる。

2−2.パッシブデザインの実践
 山越が実験住宅を通して試みたエコロジカルな工夫を表2−1にまとめた。これに基づいて要点を述べる。
設計においては,太陽光と生活との関わりをどのように設定するかが主要課題だった。その解決として,ふたつの実験住宅ではともに主要諸室に加え便所・浴室を南面一列に配し,壁面をガラス大開口としている。この開口は通風・換気・防湿防腐への配慮でもあり,ドーモ・ディナミーカでは「風が足をかすめて吹く程度」注9)まで窓台を下げるべきとしている。
 こうした工夫は,ドーモ・ムルタングラでさらに推し進められ,屋根をガラスにした「ヴォーン・ガルテン」(屋内の庭)が設けられた。屋根は太陽光の吸収面と位置づけられ,配管に水を通す太陽熱温水器が製作され風呂に用いられた。このとき,太陽熱でアンモニアを蒸発させて冷房に利用する試みが海外にあることを紹介し,太陽熱利用の可能性を強調している注10)。
 ドーモ・ディナミーカは乾式構造で,この構法に適した高い断熱性能を有する材料として,当時の新建材である石綿板(外壁材)とテックス(内装材)が用いられた。しかし,ガラス開口部の日射コントロールはカーテンとし,雨戸は開閉に要する労力と時間が不合理という理由で廃された。すなわち,採光の積極的工夫に比して保温に対する配慮は少なかった。生活実験によってこの欠点を意識した山越は,ドーモ・ムルタングラでは保温・蓄熱を積極的に考えるようになった注11)。かつて不合理な因習として廃された雨戸と畳は,ここではテックス製雨戸の設置や,畳の断熱・蓄熱性能再評価へと変化している。また,晴天の昼間に寝具に蓄熱する工夫として2階寝室南側にはテラスが設けられた。
 ドーモ・ムルタングラでは,住人が菰菜・果実の栽培,鶏・豚の飼育を行う自給自足的生活の実践が行われた。こうした生活への対応として,雨水槽,厨芥をメタンガス化して燃料とする装置が設置された。また,床レベルを下げて室内外の連続性・一体性が高められた。
 ドーモ・ムルタングラでのこうした経験によって,山越は自邸ドーモ・ディナミーカでも同様の試みを考えるようになった注12)。庭の目的は鑑賞から生産に変化し,屋外での生産活動の便宜のためピロティに壁を入れ「実験室」とした。また,浄化槽からの排水を「湊み込み槽」に導きその脇にイチョウの雌木を植える「いちょうの木浄化槽」注13)を考案した。これは,浄化槽から出た排水と未浄化物をイチョウに吸収させ,惨み込み槽内壁の目詰まりを防ぐとともにイチョウの養分とし,成長したイチョウは防風・防火に役立て,さらに銀杏を採取,食用の結果の排泄物は浄化槽を介してイチョウに戻す,という循環システムである。筆者らが実地調査した2005年時点で,このイチョウは高さ10mを超える大木であった。

2−3.循環と成長への志向
 山越は,ドーモ・ディナミーカでの生活経験から,生活形態として,都市分散か都市集中かの是非を検討した。「農村に住み乍ら都会の機械的科学的な生活を行へる方                                                                      方策を思ひ廻らせ」さらに「郊外,若しくは農村で,都会で得られない幸福を味わいつつ然も便利で文化的生活が出来ることを示してみたい」注14)と考えた。
 ここで山越に示唆を与えたのがフアーブルの『蜘蛛の生活』注15)であった。同書では,フアーブルがある種のクモが幼虫期に外界から一切栄養摂取をしないにもかかわらず成長するのを観察して,太陽光から栄養を得ていると考察したことが紹介されている。山越はここに生態系における人間存在の本質をみて次にように述べる。「太陽エネルギーは又地球の森羅万象を生ぜしめる始源である。(中略)太陽エネルギーの転移とその過程は,合作者たる地球上の土や水や空気や有機物等の種類の大きさに比例して幾通りもあつて,宇宙の循環する諸要素の基である。宇宙の万象にして渦を巻き又環を描いて循環しないものは無いと云つてもよい程である。この自然の理を人間の世界に応用する事は出来ないだらうか。循環の鎖は少しでも多い程エネルギーは有効に利用される訳である」注16)。さらに窒素循環図(図2−4)も示している。「循環の鎖」は多いほどよい。これがドーモ・ムルタングラの主題でありムルタングラ=多角的という命名の由来だった。山越はさらに述べる。「〈外界を遮断して外部の脅威的現象を閉め出し,保護された環境を形成する〉といふ住宅の消極的な機能を充分に克服しながら,一方,さらに消極的方向に目を向けて放置すれば,威嚇である現象を手馴づけて,人生に役立てるやうな住宅建築を実際にいろいろ創ってみたいと考へたのである」注17)。その結果ドーモ・ムルタングラでは,ドーモ・ディナミーカで試みられていたパッシブデザインに加えて,住宅内に循環を形成するための建築的工夫が多く採り入れられることになった。(表2−1参照)。この思想は,単なるエコハウスを超えて,すべてのエネルギーや物質をひとつの住宅内部で完結させて外部にインパクトを与えないオートノーマスハウスにきわめて近い。
 山越にとってドーモ・ムルタングラでの試みは1戸の住宅にとどまるものではなかった。「同じ様な生活様式と生活条件の数単位の家族が協力し或は社会的に実施出来れば遙に効果を挙げ得ると思ふ」注18)。と述べている。また,ドーモ・ディナミーカの竣工前には「Dinamikeの構築論」と題する文章で「Dinamike」の本質は「量の質への移行」であるとして「家+家+家+家+‥‥‥もう単なる家の集合ではない」注19)と述べていた。ここに顕著なように,山越のエコロジカルな思想の基盤には,唯物論的弁証法の哲学がある。

2−4.山越における床暖房のエコロジカルな性格 
 山越は,ドーモ・ディナミーカでパネルヒーティングを採用したことについて「権威柳町政之助氏が自邸に我が国最初の実験的採用をされたのが有力な動因」注20)と述べている。ドーモ・ディナミーカの床暖房は,この柳町の設計になる。当時の業界・学界では,低温輻射による暖房を「パネルヒーチング」と呼んでいた。しかし日本の場合,低温輻射を射出する建築部位はほとんどは床か天井であった。山越はそれを「床暖房」と呼ぶことを柳町に提唱し,以後この呼び名が定着する。山越は建築家として最初に床暖房を採用し,その名付け親でもある。
 山越が1934年に書いた「床暖房の生物工学的実験」は竣工後−冬を経過したドーモ・ディナミーカの床暖房に関する実験報告である。実験において,山越は床暖房の快適性と有効性を理論づけるために,体理学(生理学)的解析を行おうとしている。
 暖房の熱的設計条件は人体と環境との間の熱平衡に基づくものである。そのため,特に輻射(熱放射)が果たす役割の重要性を,人体からの放射による放熱・受熱理論に基づいて説明している注21)。そこでは,フランスのミスナールの論文を翻訳し,気温と壁温(放射温度)と人間の活動レベル(代謝)との関係を明らかにし,低気温でも輻射面があることで快適さを保てることを説明した。さらに,気温と壁温の関係の概念図(図215)を付
していわゆる合成温度25℃理解と合成温度測定の必要性を示した上で,それを可能とする合成温度計と日本で開発されたばかりのラフレコメーターを紹介している。
 山越の卓見は,ミスナールの研究を参照している点に現れている。暖冷房の最適条件は,1923年にヤグローらが開発した有効温度Effective Temperature(ET)によって設定されているものが当時の日本での主流であった。有効温度は気温・湿度・風速の影響を取り扱っているが,輻射の影響は組み入れられていない。ミスナールはそこに着目し,ヤグローの有効温度への熱放射の不足を指摘,熱収支に基づき輻射の影響を組み入れた合成温度Temperature Resultaneを開発した注22)。この提唱はウインズローやギャギらの作用温度よりも早いが,日本では参照されることが少ない指標である。
 ドーモ・ディナミーカ以後,山越は柳町とともに水澤邸(土岐・水澤),金杉邸(戸田組設計部),山脇高等女学校(戸田組設計部,担当山越)へと床暖房の実施を重ねてゆく。山越にとって床暖房は「室内の空気を暖めることではなく,空気温を適度に保ち,対流による体温放射を輻射熱によって体理学的に適当に調節し,人間に直接自然の快感を与える」注23)技術だった。それは「人間を物の尺度として技術的関心の中心に移し技術と有機体
との調和を創造」注24)するという山越のエコロジカルな設計思想に合致するものであった。

3.山越邦彦のエコロジカルな思想の周辺と相関
 山越は住宅設計と並行して,批評や海外建築情報の紹介など,旺盛な言論活動を展開した。本草ではこれらが相互にどのように関連していたのかを明らかにする。

3−1.山越邦彦の近代建築像と「構築」概念の性格
 生田勉は,1930年前後に「構築派」を標樗して近代建築運動を実践した「少数」の面々がいたことを示唆している注25)。この「構築派」の急先鋒が,山越邦彦だった。
 山越は,1925年に分離派への批判にともない「時はすでに構成派,ネオダダも過ぎ 〈構築派〉 の世に入っている」注26)と説き,1930年には「構築」と把握された近代建築像の確立をめざして月刊誌『建築時潮』の企画,編集,執筆に携わっている注27)。
 以下では①分離派との論争,②『建築時潮』の誌面を手がかりに,「構築」概念の性格について考察する。そのうえで③国際的な影響関係について検討したい。

3−1−1.分離派建築会批判における「構築」概念
 山田守による東京中央電信局(1925年)は,1920年に設立された分離派建築会の近代建築像を明快に示した建物だが,竣工直後にその意匠が内包する芸術至上性についての議論が生じた。ペンネーム「プルルル生」の朝日新聞鉄箒欄への投稿記事を発端に,①8月7日:プルルル生「中央電信局」②8月12日:M・Y「中央電信局礼賛」③8月16日:プルルル生「建築弁」④9月1日:瀧澤眞弓「工場荘厳」⑤9月9日:プルルル生「再び建築弁」と,分離派同人を巻き込んだ論争が闘わされる注28)。このプルルル生の正体が山越邦彦だった。
 中央電信局の意匠を特徴づけるパラボラアーチの造形を芸術至上主義の所産と断じたことから,近代建築の意匠上の要請に対する議論が展開される。山越が山田守と解釈する「M・Y」と瀧澤真弓は,目的としての芸術性を肯定する。だが,一連の議論を通じて山越は,芸術性を追求するためにもたらされるいかなる無駄も批判し,合目的性や客観的妥当性を根拠に「最小労価で最大効果をあげるもの」を目標に据えて,無駄のないところに美
を求める視点,つまり結果として体現される美のあり方の確立を求めている。芸術と把握される伝統的な建築像に転換を迫っているのである。その鍵とされたのが「構築(派)」という概念であった。

3−1−2.『建築時潮』で主張された「構築」概念
「構築」という概念を具体的に喧伝する場となったのが,山越が責任編集の任に当たった『建築時潮』(1930年7月〜31年6月)だった。創刊の辞は次のように書き出されている。「建築の時代は今や過ぎ去らうとして居る。我々は構築時代の暁を体験しつつある」注29)。既成の「建築」は「不合理な計算されない,感覚的な,非物象(ウンザハリヒ)趣味的な,暗い,個人的な,非生物学的,非社会学的な,製図板的建築計画が行われている」ものと捉えられ,その代替として「生物学的,社会学的,健康的,ザッハリッヒカイト,機能的,材料的,構造的,合目的的の研究」に基づいた「構築」という建築像の探求が目指された。個人性,感性,趣味性などに依拠した主観的な芸術としての建築像を,自然科学的・社会科学的合理性,機能性,即物性,合目的性などに根ざした客観的な科学としての建築像へと捉え直すことが企図されていたのである。

3−1−3.「構築」概念の国際的影響関係
 山越の提唱する「構築」概念は,1926年に出版された‘‘Der moderne Zweckbau’’でベーネが描き出した近代建築像に近似している。だが山越が「構築」を用い始めた
時期はベーネの書に先んじている。しかし,ドイツ語圏諸国におけるNeues Bauenの動向と併走するものであったことは確認できる。このドイツ語は一般に「新興・建築」と訳されたきたが,山越の場合「新・構築」という訳語を当てている注30)。とくに1923年から26年にドイツで発行された雑誌‘‘G’’でミース・ファン・デル・ローエや,1924年から28年にスイスで発行された雑誌‘‘ABC:Beiyraege zum Bauen’’でスタムが提唱したBauenという近代建築像との顕著な類似を確認できる注31)。山越の「構築」概念は,Bauenという即物的に「建てること」を要請した建築運動と足並みを揃える同時代的な性格をもつものだったといえる。
 山越の「構築」概念の性格を考える別個の手がかりが,1929年に実施予定だった講演の「建築→ルート・マイナス1建築→構築」という演題である注32)。建築が構築
に置換される結節点に「√−1(建築)」という数学の虚数の概念が据えられている。当時,虚数の概念を鍵に据えて,科学と芸術を等価におくという図式を提出し,目
標としていた人物にリシツキーがいる注33)。リシツキーは雑誌‘‘G’や‘‘ABC’’でも重要な役目を果たしてる。リシツキーは,機械的な合理論ではなく,自然の生成のシステムがもつ有機的な合理論への着目を示している。作品を哲学や自然認識の体系を再現するものではなく,自然の一部分となることを表現するものとも捉えている。つまりそこには,総体的な環境という観点から全体と部分との相互的連関を充たす有機的な関係が問われており,エコロジカルな発想につながる道筋が内包されてもいる注34)。

3−2.山越邦彦における「成長する家」受容
 山越はドーモ・ディナミーカの雑誌掲載に際して「成長する条件を充分に与えて居る」注35)「〈成長する家〉としての条件も考慮した」注36)と記している。それ以上
の記述はないものの,この「成長」という概念が,マルティン・ワグナーが1931年に提唱した「成長する家Wachsende Haus」を念頭に置いたものであることは明白である。それは1930年代前半の日本において,モダニスト建築家の関心を集めた。そして山越は,ワグナーの同名の小冊子の最初の翻訳者であった。

3−2−1.マルティン・ワグナーの「成長する家」
 ワグナーが1931年にまとめた小冊子『成長する家』は,1934年から35年にかけて,山越の翻訳で『建築世界』に掲載された。この訳文によって,その理念の全容を知
ることができる。内容は次のとおりである。1:序章,2:需要と供給,3:新しい住居,4:費用と生産,5:技術設備と管理,6:家と庭,7:家屋の拡張,8:形態,9:敷地の調達と開発費,10:都市計画に於ける成長する家,11:成長する家の金融,12:結語。そして最後の第13章として図版が掲載され,付録として先進的建築家による「成長する家」の設計図,説明書,実施建築物の写真24枚が掲載されている。
 ワグナーが想定していた生活像は,CIAMの最小限住宅の考えを継承したものであり,生物学的要素として衛生学に基づいた健康的生活が中心的課題として挙げられ
ている。また,女中のいない,それでいて家事労働ができるだけ負担にならない生活,つまり居住者が能率的に家事労働を行える生活が想定され,生活設備面での充実,特に暖房設備に関する考えなども述べられている。
 興味深いのは,ワグナーが,具体的な「成長する家」の増築方法として,平屋建てにおける水平方向の増築が望ましいとしている点である。理由は動線経済上の観点と,主眼とする健康的な生活は,何よりも庭という大地との密接な関係において成立すると捉えていたからである。もうひとつ,技術的な理由として,垂直方向に増築することの構造上の不利を挙げているが,ピロティの採用による増築方法については一言も触れられていない。
一方で,材料については,当時の技術的水準を踏まえ,木材およびベニヤなどの木質系材料が適しているとしている。「成長する家」の理念は,1931年にベルリンのバウメッセ主催で開催された「全ての人に太陽と空気と家をsonne luft und haus fur alle」と題する展覧会において具体的に実践された。

3−2−2.日本における「成長する家」受容と山越
「成長する家」は,住宅の設計過程において,あらかじめ増改築を考慮に入れる考えであり,「最小限住宅」を支える考えとして注目されていた。日本において,海外の新建築情報のひとつとして「成長する家」がジャーナリズムにおいて紹介されたのは1932年8月の『新建築』誌上においてである。そこではウィーンで行われた設計競技の応募案5点が紹介されている。また,『国際建築』1933年5月及び7月,8月号においては,ワグナーの小冊子『成長する家』の牧野正巳による抄訳が掲載されている。抄訳ではなく全訳を行なったのが山越で,『建築世界』の1934年3月から35年1月号まで掲載された。
 内容的には紹介に留まる記事が多い中,蔵田周忠の「WACHSENDE HAUSについて」注37)は一歩踏み込んだ論考を試みている。蔵田は,日本への紹介記事の多くが,「成長する家」「伸びゆく家」という訳語を用いていることに反対し,「可合成住宅」という訳語を使うべきとしている。それは,計画段階から増築されることを想定した平面計画を行い,最初に建てられる最小限規模の住居と,後から増築される住居部分とが共通した規格による建築部材で建てられる,という認識に基づくものである。
だからこそ,最初に完結した状態で建設された住居に増築される「建て増し住居」(蔵田)と区別するために「可合成住宅」という訳語を提案している。また,蔵田は,「建て増し住宅」が初めから居住者の生活に必要な室を完結した状態で建設しているため,増築部分が僅かな規模となるのに対し,「可合成住宅」では初めの住居は最小限の面積で構成され,増築部は初めの部分とほぼ同じ面積で増築されることが特徴であるとしている。そのことに
より,共通した建築部材の規格統一が適用できると解釈しているのである。
 ドイツでの展覧会が開催された1931年には,日本においても市浦健と土浦亀城の自邸において石綿板を木骨架構に貼り付けた乾式組立構法の住宅が実現されている。日本においては,増改築工事の容易さという側面で乾式組立構法が認識されていたが,これらの住宅には,積極的に「成長する家」の考えを採用した形跡はない。1930年から1942年の間の日本において実践されたモダニズム住宅中で,「成長する家」の考えを適用したものとしては,山越邦彦のドーモ・ディナミーカ(1933年),安田清の自邸(1935年),そして福中駒吉のH邸(1937年)と自邸(1938年)の3例のみである注38)。
 最も早い事例である山越のドーモ・ディナミーカは,構造は木造で外壁に1尺5寸×3尺を単位とした石綿板を貼り付けた乾式構造の住宅である。居間,食堂,寝室は2階に配され,1階には玄関と書庫のブロック,ボイラー室と浴室のブロックのふたつがあり,その間はピロティとして吹き放しの状態とされていた(図2−1参照)。このスペースが「成長する家」の増築部分として考慮された部分であり,後に,ここには実験室が設けられた(図2−3参照)。山越がピロティ形式を採用したのは,主として,自然対流式床暖房の実験を行うにあたりボイラーを低い位置に設置する必要があったほか,床下部分の湿気対策と衛生設備(浄化槽)設置のためである。
 ドーモ・ディナミーカが竣工した1933年は「成長する家」が山越によって完訳される前年である。モダニズムの海外動向として着目し,その翻訳を進めながら,理念の検証と建築的実践とを同時期に試みていたことになる。ドーモ・ディナミーカは,木造乾式構造でピロティという形式を用いて限られた敷地内における「成長」のあり方を示した世界的にも希少な実験住宅であった。

3−3.山越邦彦のドキュメンテーション活動とその理念
 ドキュメンテーションは,情報の選択・収集・加工・蓄積・検索・利用という情報管理の理論と方法の体系である。山越はこれに精力的に取り組んだ。情報化社会が訪れる前,コンピュータの普及以前,それは膨大な労力と時間を要する手作業であった。その作業に山越を突き動かしたものは何だったのか。本節では,山越のドキュメンテーションに対する取り組みをたどったうえで,この活動とエコロジカルな思想との関連を検討する。

3−3−1.山越のドキュメンテーションへの取り組み
1960年代前半における山越の回顧注39)に基づいてドキュメンテーション活動を概観する。
1930〜31年に『建築時潮』に連載した海外雑誌記事紹介欄,続く『建築世界』での外国図書の「批評と紹介」欄が,山越のドキュメンテーションの芽生えとなる。文献収集は,海外の著者や出版社に直接寄贈依頼するものだったが,反応は上々で「数年たらずで数千部」が集まったという。その分類整理に悩んでいたときに出会ったのが,「UDCドイツ簡略版」だった。山越のUDC(国際十進分類)に関する学習と探求は,この時に始まる。
 戦後1949年より,法政大学教授を務めるかたわら,海外建築情報収集とドキュメンテーションに取り組む。『建築文化』で「建築家の図書室」欄を担当していたとき,資料の中に‘‘Proceedings of the Conference onBuilding Documentation’’を見出す。そこには戦後住宅復興策の一環として。建築技術情報の収集・蓄積・提供のシステムが,建築家たちの国境を越えた協力と各国におけるBuildingCenter設立によって実現しつつあることが報じられていた。山越は日本にもこのような機構が必要と考え,そこで採用されるシステムは世界標準のUDCであるべきとして学習を再開する。
 同じ頃,日本建築学会では戦後日本の復興と,そこでの学会の役割が課題であった。そのためには図書館機能の充実が必須と,学会図書委員の武藤清は山越に図書委
員を委嘱,職員に原田(所)正七を採用して態勢を整えた。図書委員会はさっそく分類法の審議に入り,山越はUDCの有効性を説明して「UDC英国簡略版」の採用
が決まった注40)。この時期,山越は設立されたばかりのUDC協会(1958年に日本ドクメンテーション協会,86年より情報科学技術協会)でも建築部門を担当している。
1951年,日本建築学会はUDCによる図書整理と同時に,内外雑誌から採録した題目にUDC標数を付して『建築雑誌』巻末「文献目録」に掲載,会員からの文献請求に対応するサービスを開始。これにより,かつて山越が期待した日本版BuildingCenterが実現したといえよう。
1952年には日本学術会議国際十進分類委員会委員にも就任している。
1958年に科学技術庁所管で設立された日本科学技術情報センターは,科学技術振興の一環として欧米の約3,000誌から主要記事を抄録,これをUDCで分類・速報する事業を開始した。その建築領域については日本建築学会が協力することになり,もっばら山越が担当した。
 山越が日本建築学会を拠点として推進したUDCによるドキュメンテーションの効用は次第に認められるところとなり,大学の建築学科図書館や大手建設会社研究所などでも採用されていった。こうした山越の活動に対して,1971年,「建築分野における情報管理一国際十進分類法の普及一」という功績により日本科学技術情報センター丹羽賞が贈られている。

3−3−2.山越におけるドキュメンテーションと生態系の論理
 山越のドキュメンテーションに対する尽力はもっぱら基盤整備に向けられたようにみえる。しかし,彼がドキュメンテーションに期待していたのは,当然のことながらその効用であった。山越は,システムの構築者ではなく利用者でいたかったはずである。ただ,先駆者の常として,自分が使いたいものは自分でつくるしかなかった。1920年代半ばに始まる山越のドキュメンテーション活動は,その連続だったように思われる。
 ドキュメンテーションの効用について,山越は講演注41)で,次のようなエピソードを紹介している。
 山越は戦後,独自の浄化槽に続いて厨芥処理槽を考案し「溶芥槽」と名付けた。自然界に存在するバクテリアの分解作用を利用して厨芥を土に戻すシステムである。ある時,これを導入した施主からクレームがつく。残飯が腐らない,キャベツの葉が1カ月も青いままだ,という。考案者の信用に関わるので原因究明にかかると,厨芥と一緒に台所洗剤が溶芥槽に流れ込んでいることがわかった。洗剤の主成分である界面活性剤ABS(アルキル・
ベンゼン・スルフォン酸)が,バクテリアの分解作用を妨げていることが原因と思われた。
 そこで,これまでに蓄積していたドキュメンテーション・カードでABSを検索すると,ヨーロッパやアメリカで発表されたABSによる水質汚染に関する論文が多数見つかった。海外ではすでに規制に動いているという。反面,国内論文は1本もない。それどころか,当時の日本は中性洗剤の急速な普及期で,河川の水が泡立つなどの異常が話題になり始めていた。山越は,これを放置するとABSが井戸水や水道水までをも汚染すると危惧し,一刻も早い問題提起を考えた。
 こうして新聞に掲載されたのが,山越の記名記事「処置のない汚水」注42)である。ここで山越は,ABSによる環境汚染を告発し,中性洗剤対策を訴えた。この行動の動機を「水の問題は直接には私の研究範囲ではないが,国民全体の衛生の上から,世界的には純粋なわが国土の水の質をまもる上からも,緊急な重大事と感じて」注43)と述べる。それは,かつて1930年代に実験住宅を設計したときの,生物工学=生態学に基礎を置いた理念,す
なわち「技術によつて生命を損耗することではなく,技術形態を生活体に奉仕するやう生活態の多様性に適応せしむることによつて生命を獲得する」の実践であった。
 そもそもは小さな溶芥槽の中で起こっている現象の解明から始まったことであり,とりあえずは施主と自分の問題であった。しかし調べてみると,それは地球環境と人類全体の問題につながっていた。山越は蓄積された科学技術情報の網目をたどって,そこにたどり着いたのである。その導き手こそがドキュメンテーションであった。ドキュメンテーションによって構築される世界は,山越にとって,情報空間に再現された生態系にほかならない。

4.山越邦彦の今日的意義
 高度経済成長期以来エネルギー依存を強める一方にあった建築は,1970年代の石油危機,80年代の地球環境問題の顕在化によって,認識の転換を迫られることに
なった。そうした中で始まる環境建築への模索の経験をふまえて,本草では建築設計学の観点から山越邦彦の今日的意義を検討する。

4−1.今日の視点からみた山越の実験住宅
 環境時代の建築がとるべき方向性は,ひとつはパッシブデザイン,いまひとつは環境技術の高度化であろう。1970年代以降に,一部の建築家たちが西欧の情報などを元に興味を持ち展開することになるこうした考え方と,山越が1930年代に実験住宅で模索し導入しようとしていた思想と要素技術は酷似している。温水床暖房による輻射型の室温制御,集熱パイプによる太陽熱の採取,サンルームの活用などのパッシブデザイン,燃料用メタ
ンガスと肥料用中水の両方を採取可能な浄化槽にみられるバイオマスエネルギー・テクノロジーへの注目などがそれであり,その思想は当時言葉としては存在しなかったはずのエコロジー・デザインそのものであり,ここに至ってみれば,今日のサステイナブル・デザインに直接つながるものである。
 山越の自邸遺構や残された資料に窺うことのできる彼の関心や態度には,独創的なアイデアとそれを実現するための技術的工夫があふれている。ドーモ・ディナミーカの「いちょうの木浄化槽」では,上澄水はパイプを経由しイチョウの幹を回り銀杏を実らせる。そしてそれはこの家の家族の胃袋に収まり再び浄化槽へと下るのであり,家族は浄化槽から発生したメタンにより台所でその銀杏を炒るのである。ドーモ・ムルタングラにおける集
熱面としての屋根の積極的利用。冬季豊かな花を咲かせるヴォーンガルテン屋根面のパイプは,温められた水を風呂へ運ぶ。サンルームの花は居間を彩る。
 こうしたエンジニア的創意と日常の豊かさや楽しみとの緊結のアイデアは,その成果を超えて微笑ましい。ここには試みの予感の正しさに対する確信があり,その確信はその後,70年代に環境建築に向かった建築家たちが同じように予感し確信し獲得したものときわめて近い,あるいはまったく同じものであったように思う。山越の思考はきわめて早いのである。そして,その裏づけたるモダンな近代的市民像,いわばシチズンシップへの自信が覗くのである。
 建物は乾式構造,工業化を予想する外皮をまとい,生活はまったくの椅子式,そこには自らデザインしたステイールパイプの椅子とベッドが置かれている。今日からすれば,そのたたずまいはスタイル優先と受け取られがちかもしれないが,実態は,山越自身が住宅を「エビキュールの園」注44)と表現するとおり,住まい手に健康と快適性をもたらせることこそが第一義であった。解体調査で外皮を取り除いてみると,往事の姿がそのまま
残っていた(写真 4−1,4−2)。石綿板とブリキ板のオープンジョイントの後ろ,窓周りなどのフラッシングは正当にも銅版によっていた。目に触れるところよりその裏に手間とコストがかけられている。戦前のこの時期,北欧,ドイツを中心に,生活を根拠に家政学という科学を生む,衛生,家族を主題とするモダニズムがあったが,ここにそれと同根の事例を見るのである。この国にも開かれた思想への共感と実践があったのであろう。

4−2.エコロジカル・デザインの戦前の成果と戦時下の断絶
 山越の実験住宅ドーモ・ディナミーカの竣工に先立つこと5年。藤井厚二の『日本の住宅』(1928年)は,彼の実験住宅聴竹居竣工にあわせ,それ以前の実験住宅に触れながら気候と住宅について記した,わが国における環境と建築についての考察のごく初期の成果である。藤井厚二は,言わずもがなではあるが,今日のサステイナブル・デザインがその先達とする建築家である。そしていま仔細に聴竹居をみると,彼の成果はきわめて京都的
でもある。洗練された大工技術と一流の素材は京都の「だんな」の趣味のよさと,いわば「うるささ」をもの語ってもいる。そこで考えられた手法も,換気を旨とするきわめてまっとうなものである。「夏をもって旨とする」パッシブ住居,いわばこの国の伝統的底力の科学による論理付けと再デザインとでも言うべきものである。では藤井の「冬」は果たしてどのように科学により再考され解決されたのか。それは「電力への期待」に全面的に依
拠するもの,つまり極めてアクティブな技術信仰によっているらしいことが窺えるという注45)。私たちは発見された電気ストーブ,当時としてはきわめて珍しい各室のコンセントにその証拠を見る。
 ドーモ・ディナミーカの調査過程で確認した2階床下の床暖房用温水パイプは太く,実用のほどはなんともいえないものであった。しかし先駆的テクノロジーとしてそれを実践した山越の意思を見た思いがした。
 テクノロジーは,それが未熟でしかもそれにより希望に満ちて見えるとき,それへの過度の期待,予測を纏う。技術とはそうして発展するものであろう。聴竹居,ドーモ・ディナミーカに,これは共通のことでもある。これらふたつは西と東の気風までもあらわにする今日の建築環境技術の二様の先駆といえそうである。
 同時期のこの二つの実験住宅が見せる対比は興味深い。日本の近代建築史において,四分の三世紀も以前にこうした試みが存在することを喜びたい。そして,伝統の上にあり,新しいテクノロジー電力に万来の期待をおく聴竹居の試みと同時に,太陽熱,バイオなど自然の資源に注目するドーモ・ディナミーカの存在があったことを思うとき,歴史の事実がみせるそのバランス,均衡に驚き,改めてその重要性に気づくのである。
 このようにたどってくると,この国の1930年代の思想の豊かさが,その後の15年の愚かしい歴史によっていかに蹂躙されたかを思い知らされる。そしてその後遺症は,その後いかに長期に及んだかを。彼らの試みを,1970年代以降の建築における環境指向が結果として引き継ぐまでには,40年に及ぶ空白があったのである。歴史に仮には存在しないが,1930年以降が平和な15年であったらどのような今日があったのだろうか。断絶の理不尽を感じないわけにいかない。

4−3.エコロジカルな思想的統合体としての山越邦彦
 山越の戦後の歩みは,教育者として,床暖房のエンジニアとして,環境問題の告発者としてとさまざまであり,その評価もさまざまである。横浜国立大学で山越から教えを受け,建築家として長くパリで活躍され2005年にレジオン・ド・ヌールを受けられた早間玲子氏の追想からは,リベラルな教育者像が浮かぶ。床暖房トライアルのよき協同者であった象設計集団の丸山欣也氏,富田玲子氏の証言からは,老いてなお試行錯誤を厭わない不屈
のエンジニア像が浮かぶ。中性洗剤の毒性に気づきこれを告発する山越には,この国のレイチェル・カーソンを思う。この告発により彼自身が受けた仕打ち,それによる彼および彼の家族の具体的被害も当時のさまざまな類似の事実から想像されよう。
 自らの空間的美意識を完結した作品にまとめ上げる,いま仮にそんな建築家像を想定するならば,山越はそのような建築家であることに拘泥しなかった。いやむしろ否定していた。それは,従来的な建築概念に対して「構築」概念を対置し,みずから「構築家」であることを志した1930年から戦後の晩年に至るまで一貫していた。
 さまざまな興味とそこから現れる多くの問題,それらに対して,時代のその時どきにひとりの「構築家」として解決へ向けて傾注する姿は,われわれを勇気づける。
そしてその信念が,心身の健康と快適に対する願いから発していることを知るとき,安堵を覚えるのである。
 乾式構造を通して目指したプレフアプリケーション,床暖房による「小」エネルギー輻射暖房注46)とパッシブデザイン,UDCとエスペラントを用いたドキュメンテーションによる国際的ナレッジベース構築。山越が傾注した仕事は一見多様だが,これまでにみてきたとおり,山越邦彦というひとりの人間の中にエコロジカルな思想的統合体を形成していたのである。
 近代化にともなう建築生産の発展は建築諸分野の産業化と学術研究の専門分化を促した。その過程には,建築をめぐる思索と営為が媛小化される側面があったことも否めない。しかし建築と環境とのエコロジカルな関係を回復して,人間が全的で複雑な生態系に寄り添おうとするとき,部分的な思索と営為は,新たな理念のもとに再統合される必要があるだろう。山越邦彦は,そのモデルとしての可能性を体現しているように思われる。

まとめ
 本研究では次のことを明らかにした。
1)山越邦彦のエコロジカルな思想は、建築学の近代化=科学主義化を大きな背景としながら、精神的には1920年代の建築運動が備えていたアヴァンギャルデイズムを引き継ぐことで、オーソライズされた近代化よりもさらに先進的な方法を探求する中から生まれた。その際に核となったのは、乾式構造と生態学的デザインで、折しも家庭をもつ年代と重なったため、自邸はこうした技術や方法を試みるための実験住宅の様相を呈することになった。
 2)山越は1930年代に二つの住宅において、実験的な設計を試みた。ドーモ・ディナミーカ(1933年)における主要テーマは、乾式構造と床暖房の採用であった。前者は、将来の生活変化への空間的対応を考慮しようというもの。後者は、ミスナールの合成温度概念を援用して、床暖房による比較的低温の輻射熱によって快適な室内環境を実現しようというものである。ドーモ・ムルタングラ(1936年)では、生物・環境間の継続的関係という生態系の概念に基づき、エネルギーや物質をひとつの住宅内部で完結的に循環させることを試みた。これは、外部にインパクトを与えないオートノマスハウスの考え方に近いものである。
 3)山越は、実験住宅で実践した合目的性や客観的妥当性に基づく設計態度を、従来の建築という語に変えて「構築」と称し、批評や執筆活動を通してその理念を喧伝した。この理念は、1920年代後半のヨーロッパにおける前衛的傾向と共通していた。
 ドーモ・ディナミーカにみられる空間の拡張可能性を残した設計方法は、1931年にドイツで発表された「成長する家」の理念に則ったものであった。そこでは接地性を重視した健康的住生活が標揺されており、ドーモ・ディナミーカでもこの理念に沿って増築が実施された。
 山越のドキュメンテーション活動は,1920年代半ばから終生継続的に行われた。それは山越のエコロジカルな設計思想を支える科学技術情報を獲得し,さらにまた,それを国際的に共有しようというものであった。
 4)山越のエコロジカルな設計思想は,1970年代から試みられる環境志向建築の先駆といえるもので,オルタナティブな近代建築像を示そうとした山越邦彦という存在は,建築と環境とのエコロジカルな関係を回復するために専門分化した諸領域と活動とを再統合しようとするときのモデルとして,今日的な意義をもつ。

〈謝辞〉
 本研究にあたって次の各位,団体にご支援ご協力をいただいた。記して謝意を表します。仙波照雄,大河原保次,大塚茂仁,阪口清子,瀬能誠之,清水褒,宝木富士
夫,瀧浦秀雄,田所辰之助,田村糸己光,戸塚隆哉,富田玲子,濱寄良実,樋口裕康,古川健太郎,松成和夫,真鍋弘,丸山欣也,矢野和之,OM研究所,日本建築学会図書室。また,調査過程でお世話になりながら,ご意向により記名を控えた方々にも感謝申し上げます。



〈注〉
1)『建築文化』1974年10月号
2)小玉祐一郎・難波和彦・野沢正光「再考:近代日本の建築デザインと環境技術」
 (『GA』1998年夏号),堀越哲美「日本の床暖房のパイオニアたち」(『soLAR CAT』
 1998年秋号),矢代眞己・大川三雄・川嶋勝「雑誌『建築時潮』の概要と性格に
 ついて」1998年度日本建築学会大会学術講演梗概集F,矢代眞己「山越邦彦:”
 建築一ルート・マイナス1建築一構築”という冒険」(『建築文化』2000年1月
 号),堀越哲美・堀越英嗣・小竹暢隆「戦前の日本における先端設備としての床
 暖房・パネルヒーティングの住宅への導入」(『日本建築学会計画系論文集』第
 534号,2000年8月)梅宮弘光「思想としての乾式構造」(『建築史論衆』思文聞
 出版,2004年,所収)
3)堀越哲美・堀越英嗣「建築環境工学の研究潮流の進展と時代区分の考察」(『日
  本建築学会東海支部研究報告集』第42号,2004年2月)
4)『建築時潮』第4号,1930年10月,PP.44…45
5)山越邦彦「私の受けた設備教育」『空気調和・衛生工学』第52巻第11号(1978年11月)
6)山越邦彦「DOMO DINAMIKA」『国際建築』第9巻第5号(1933年5月)p.172
7)山越邦彦「床暖房の生物工学的実験」『新建築』第10巻第5号(1934年5月)p.93
8)同前,p.96
9)(6)に同じ,p.173
10)山越邦彦「‘‘Domo Multangla’ ’多角生活の住宅」『住宅』第25巻第285号(1940年7月)p.5
11)同前
12)山越邦彦「実験住宅Domo Dinamikaの報告」『住宅』第25巻第279号(1940年7月)p.11
13)山越邦彦「<床>暖房と<いちょうの木>浄化槽について」(1970年代に発行されたと思われるリーフレット,山越旧蔵資料)
14)(10)に同じ,p.1
15)ジーアンリーファブル(英義雄訳)『蜘蛛の生活』洛陽堂,1919年
16)(10)に同じ,p.3
17)同前
18)同前,p.4
19)山越邦彦「Dinamikeの構築論へ」『新建築』第8巻第11号(1932年11月)p.360
20)(12)に同じ,p.12
21)山越邦彦「床暖房の体理学」『新建築』第12巻第4号(1936年4月)
22)Missenard,A:Temperature effective d’une,atomosphere.Temperature resultant d’un milieu,Chauffage et Industrie XII(137/138),PP.491-498/552-557,1931
23)(21)に同じ,PP.148-153
24)(7)に同じ
25)生田勉・磯崎新対談(磯崎『建築の一九三○年代系譜と脈絡』,鹿島出版会,1978年)
26)ぷるるる生「建築弁」『朝日新聞』(東京),1925年8月16日
27)構成社書房,1930年7月創刊,1931年6月第12号をもって終刊
28)詳細については,矢代・梅宮「東京中央電信局(1925)の意匠を巡る論争につい
て 山越邦彦研究・その2」『2006年度大会(関東)学術講演梗概集F−2』参照
29)『建築時潮』第1号(1930年7月)
30)同前,第7号(1931年1月)
31)’’G.Material zur elementaren Gestaltung’’,1923−26’’ABC:Beitraege zum BauenMaterial ’’,1924-28
32)創宇社建築会主催第1回新建築思潮講演会(1929年10月4日)で講演予定だっ
たが山越の講演は当日キャンセルされた
33)El Lissitzky, ‘K.und Pangeometrie’ , ‘’Europe Almanach’’,Gutav Kiepenheuer Verlag,1925 El Lissitzky, ‘NACI’, ‘‘Merz’ ’,8/9 April ,1924
34)山越はLissitzkyの著作を2冊所蔵しており,山越が購読していた“βeぷ′打J”に
も著述を発表しているのでLissitzkyの存在を知見していたことは間違いない。
Lissitzkyについては矢代「エル・リシツキー」『作家たちのモダニズム』学芸出版社2000年,PP97−104所収を参照されたい
35)(6)に同じ,P.174
36)『新建築』第9巻第10号,1933年10月,P.194
37)『国際建築』第9巻第7号,1933年7月
38)斉藤健「昭和戦前期における[モダニズム住宅]の理念と手法に関する研究」
平成12年度日本大学大学院修士論文
39)山越邦彦「建築学のドクメンテーションと学会の図書室」『建築雑誌』第79巻
第940号,1964年5月。山越邦彦講演「ドキュメンテーションの効用」(科学
技術情報センター「5周年記念情報活動講演会」録音テープ(山越旧蔵資料)




40)日本建築学会図書委員会議事録,1951−71年
41)(39)山越講演録音テープ
42)『朝日新聞』1961年10月18日朝刊,第9面
43)(39)山越「建築学のドクメンテーションと学会の図書室」,P.305
44)山越直筆原稿「ドモ・ディナミカ」(山越旧蔵資料)
45)高橋功『モダニストの夢 聴竹居に住む』日本工業新聞社,2004年
46)山越直撃原稿「小エネルギーで温かい床暖房」1978年頃(山越旧蔵資料)

補章 山越邦彦旧自邸と残存資料の調査
1.調査・研究に至る経緯
 2004年7月,唯一の法定相続人であった山越邦彦息女・悠子氏の逝去にともない,自邸と旧蔵資料の滅失が危惧される事態となったため,筆者らは建物調査と資料保全を願い出た。幸いご親族に支援いただき,管財人および所轄家庭裁判所に許可されたので,建物の実測調査および部材採取,資料調査,保全作業を行うことができた。
2.調査開始時の資料残存状況
 山越邦彦旧宅(東京都三鷹市下連雀)敷地内全部を調査対象とした。家屋は,山越逝去後の1981年1月の漏電に起因する火災のためその後の改変が著しいものの,矩躰は原型を留めていた。家財は火災後に遺族によって移動・整理され,存命中の配置とは異なるが,長期にわたる資料堆積が窺えた。火災により失われた資料の内容や規模については見当がつかないとはいえ、残存物には相当の資料的価値が認められると判断でき,それらを可能な限り温存することを調査方針とした。しかしながら,類焼と水濡れにより損傷の激しい資料も多く,腐食,炭化,固着したものは廃棄せざるを得なかった。

3.調査内容
 家財調査(2005年6〜9月)の後,家屋の実測(同年9〜12月)を行った。並行して関係者へのインタビュー調査を行った。紙媒体資料については,①図書,②原稿・メモ・写真類,③書簡類,④図面類の四種に分類・整理し,データベース化を進めた。家屋については実測調査を行い,現況を記録した上で,大工職を雇い上げて天井・壁体・床下を順次部分解体しながら基礎や痕跡を確認し,竣工当初の状態を復元的に明らかにした。この過程で,写真撮影と当初の家具,軸組,部材のサンプル採取を行った。

4.調査成果と保全状況
 ①図書,②原稿・メモ・写真類については現物の分類・整理とデータベース化が完了した。③書簡類は彩しい数のため,消印による時系列整序までにとどまった。④図面類については,戦前のものについては量が少なく物件も特定できるため②原稿・メモ・写真類とともに整理,データベース化した。家屋については,基本図面のCADデータを作成した。また,火災後に補修された外被を可能な範囲で取り除き写真撮影を行った(写真4−2
参照)。以上の資料は,所轄家裁の承認を得て,現在のところ筆者ら山越邦彦研究会が所蔵・保管している。
 なお,山越家財産は国庫収容のため,建物の取り壊しがあらかじめ決定していた。火災による損傷とその後の改変は著しく,残念ながら文化財的価値を見出すことは
できなかった。2006年5月,同建物は管財人管理下において取り壊された。ドーモ・ディナミーカの戦後の象徴でもあったイチョウと,前面道路名称の所以であったスズカケの大木は伐採され,敷地は売却された。

2.対談:野沢正光×松隈洋
 「前川建築を通して弘前のまちづくりを語る」
(野 沢)
去年、春に清家清さんという建築家の展覧会があったんですね。ある意味、清家清さん身長180センチくらいあったと思うんですが、背の大きな建築家で、僕らは東京芸術大学東京工業大学と2つの大学を出た先生だったものですから、多少存じ上げる建築家だったんですけれども、亡くなられたんですね。亡くなられた直後に、タイミング良くと言えば怒られますが、清家先生の展覧会もありました。それから前川さんとレーモンドさんの事務所で籍を、たぶん十緒にしていた吉村順三さん、これはもう全く僕が学校の頃に世話になったんですが、迷惑をかけた先生ですけれども、その吉村順三さんの展覧会も去年の暮れにあったんです。どちらの展覧会も、今回の前川さんの展覧会もそうですけれども、たくさんの市民の方々と言いますか.今まではっきり言いますと建築家の展覧会というのは、なんか面倒くさそうで、あまりそんなにお客が入るものではないという風に言われていたんですが、松隈さんの努力などもあって「ドコモモ」の展覧会辺りから、たくさんの方が来てくださるようになりました。特に吉村さんの展覧会は、「新日曜美術館」というNHKの番組で紹介されたりしたこともあって、押すな、押すなという状況になったりしました。ということは、やっぱり我々が、いつの間にか親しんでいて、いつの間にかどうして、どこが、どうなのかわからないけれど、なんらかの影響というと変ですけれども、そこにそれがあることを知っているものが、実は大事なものとして、少しずつ我々の中に自覚というと変ですけれど、少し「どうなのかな」という風になりつつあるという状況なんじゃないかなという風に勝手に楽しみ、そうであってほしいという風に思いますし、きっとそうなんだろうという風に思っています。つまり建築が、前川先生というのは、たぶん僕が思うぐらいですから、たぶんすごい偉い人という感じがあったんでも大高さんでも僕は偉い人と思っていましたから・‥。偉い人と思ってしまうと、偉い人に対して参加するとか、提案するとかちょっとビクビクしまして、偉い人の方に、うんと責任がいってしまうんですね。だから偉い人はとかく、ものを造る偉い人は、とかく孤独になってしまったりするんではないかと思うんです。徐々にみんなで考えられるような社会になってきた時の前川國男さん、次の前川國男さん。それは少し、もっと楽な前川國男さんになっていくという感じもして、それは、僕はそういうことを期待する、期待したいなと思うんです。それは先程も申し上げたんですけれど、前川さんの建物をどう使い込んでいくかということも、そのこと何だろうと思うんですね。前川さんが「ああ、こう使ってくれているの。びっくりしたな。」というと変ですけど、非常に大事に使って頂きながら、思いのほか、おもしろい展開をしてくださるような、怯えない使い方というと変ですけれど、ということが現代建築というのは、たぶんできるんじゃないかと思うんです。現代建築というのは、先程言ったみたいに、ほとんど、まあ言ってみれば骨と皮しか造っていない、みたいところが、一方ではあるんですね。いくらしっかりと言いますか、造形的に大きな要素を占める壁やら、大きな柱などが仮にあったとしても、それは基本的には無駄のない最小限のものを造ろうとする努力の中でのことですから、僕は弘前での前川さんの建築をみなさんが、先程も申し上げたことの繰り返しですけれど、どう使っていって頂くのか。どう楽しんでいって頂けるのかがすごくおもしろそうだし、今回の巡回する展覧会、弘前に巡回する展覧会は、みなさんのアイディアで可能であればここでしかできない「前川展」になれる、することが可能なんではないか。それができたら、それを見る、第一歩なんじゃないかという風になんとなく思っています。
(松 隈)
 展覧会の宣伝になってしまうんですが、東京で一つだけやれたことがあります。東京駅のすぐ目の前、皇居の堀端に「東京海上ビルディング」という前川國男が建てた超高層ビルがあるんですね。東京駅でやることが決まった時に「東京海上」が見える場所に「東京海上」を展示しようと考えました。普段は窓を閉じて壁になっているんです。東京ステーションギャラリーは、この展示が終わると一回閉めて、国の重要文化財になり、戦争前の竣工時の状態に復元させる工事が始まるものですから、ギャラリーを閉鎖するんですね。そこで、最後の展覧会なので、また窓を開けようということになり、「東京海上」が見えるところに「東京海上」が何だったのか、という展示をしたんです。これは、僕もちゃんと知らなかったんですけれど、「東京海上」のタイルの色が赤い色をしているんです。いろんな色を試したようですが、最終的には東京駅の赤煉瓦に対して、建物としてつながりを持とうと、赤にしたそうです。元々は、丸の内地区に三菱地所が造った「一丁ロンドン」と呼ばれた煉瓦の建物が、たくさん並んだきれいな通りがあったわけです。それが全部なくなってしまって、東京駅だけが乱立していた中に、超高層ではありますが、東京駅とちゃんと呼応したビルを造ろうよということで、あの色を選んで造った。そのことも知ったので、余計そうしたくなって展示してみました。ただ残念なことに、目の前に建つ「新
丸ビル」という建物が、展覧会が終わるまでは、穴を掘っているから、たぶん見えるだろうと思っていたら、ことのほか、今の建築って造るのが早くて、鉄骨がどんどん上がって、肝心な窓から「東京海上」があんまり見えなくなっちゃったんです。やっぱり難しいなと思ったんです。本当に東京でやれることって、それくらいのことしかなくて・・・。だから弘前での「前川國男展」は、「本当の前川さんのことを知るためには、弘前の巡回展を見ないといけないよ」という展覧会にしたらいいなと思います。そのための協力は何でもします。それこそ人的にも、みなさん協力してくださいます。先ほども申し上げましたが、野沢さんも今回、前川建築が見られるということで、はじめて弘前に来て頂いただいたんです。知り合いの建築家の方々が、みんな弘前に来たいという風に言っていて、こっそり来るのはやめてくれと言っているんです(笑)。いくらでも応援団を作りますので、良い形で展覧会やっていただけたらと本当に思うんです。野沢さんが話された「ロイヤルフェスティバルホール」の使い方というか、「レスポンス」という言い方、「レスポンシビリティ」の話をされていましたけれど、前川さんは、実は、そこまで見据えていたんだろうと思います。例えば、「東京文化会館」の大ホールのロビーの外側に大きなテラスがあるんですけれども、それは前川さんが、実はオペラとか、コンサートがある時に休憩の時間に、人々がそのテラスに出てゆったりと音楽を楽しんだり、先程の野沢さんは「フェスティバルホール」で美しい女性の写真を見せて頂きましたけれど、ああいう情景が、そういう楽しみ方が、そういう文化の楽しみ方が、あそこで実現できるという風にすごく期待して造ったんですね。ところが、残念なことに、野沢さんの悪口じゃないですけれど、東京芸大の学生さんが、開館した当時、あそこのテラスの前にある、お堀の水を乗り越えて不法侵入をしてテラスに入り込んでしまったことがあった。これも伝聞ですから正確なところはわからないんですけれど、それで管理の方が、もうテラスに一切出さないということになりました。前川さんがご存命中には、結局、テラスに人が出るシステムを作れなかったんですね。亡くなった後に東京都の方が「文化会館をもっと開こう」ということで、テラスの開放もようやく実現して、なおかつ、今は、「国立西洋美術館」との間にある広場から直接入れるようになりました。ちょっと無粋な鉄骨の階段もつきまして、本当にあのテラスがピアガーデンみたいな感じですかね。何かこう夏場の居心地の良い場所になっていて、ああ前川さんが望んだことが、やっとできたんだ、という印象が、僕にはありました。そして、前川國男は、建築を造る時に、そこまで良い目で建築を見てたんじゃないかなと思いました。

〈野 沢〉
 あのたぶんそうですよね。戦後50年、60年と時間が経って、どこも日本の都市というのは、もちろん散漫なところがあったり、いろいろこれから造らなきゃならないこともいっぱいあるんですけれど、公共施設やら、何やら相当、充実してきちんとできてきている。これからそれをどうやって使うのかな、というところでの知恵の出しどころと言いますか。それは僕もそこから先は、やっと地域ごとの独自の匂いっていうのが、現れてくることになってくるんだと思いますね。あの何て言うのかな、もう一歩素敵にするということが先程の観光、人がどう見てくれているかということを、相手に対してどのくらいの、まあ言ってみれば、サービスがきちんとできているかなという感じが、とても大事みたいな気が、僕はちょっとしているんですね。
 レーネルという建築家というか、都市計画家がいまして、すごい貧しいブラジル、すごい貧しいなんて言ったら怒られますけれど、ブラジルのクリティーバという街の市長さんだったんですけれど、今は、国際建築家連合の会長さんなんです。彼が出した本が、日本語になって出ていて、とってもおもしろいんです。彼が、まちづくりで大事だと言っているのは「一生懸命働く、ニューヨークの韓国人の人」とか、「24時間働いて、街を明るくしてくれている人」とか「日本の飲み屋のカウンター」か、あるいは「街の中にある大学」だとかですね。そういうソフトな話をいっぱいしているんですね。やっぱりものが豊か、大きな箱が出来たから良い建築、良い街になるんじゃなくて、それをどんな風におもしろそうに使っている人々がいて、その吸引カが次の人々を寄せて来て、その次の人々がもっとおもしろく、その施設を使い続けていくみたいな人が、人を連続して生んでいくみたいな、能力を生んでいくみたいな仕組みというのが、これから「街の個性」ということになるんじゃないかなと思うんです。時々思い出すんですけれども、僕はニューヨークに一回しか行ったことがないんですけれど、「セントラルパーク」にですね。みなさんご存じかどうか知りませんけれど、しょんぼりした池がありまして、井の頭公園、みなさんに井の頭公園と言ってもあれなんですけれど、要は小さな、色の悪い池です。そこにボートが浮かんでいるような、ボートが浮かびますから、そこに木のテラスがあって、ボートが繋留できるようになっているんですね。夕方、そこを通りかかりましたら、昼間は、子供のボート乗り場のテラスが、とても素敵な白いクロスのかかったテーブルが、ちゃんと並んでいまして、ろうそくが、一本ずつちゃんと立っています。ちょっとお洒落しないといけないような格好で、アウトドアのレストランになっているんですね。こんなところでこんな設えをするか、という感じを僕はちょっとしたんです。それは僕のスタンダードだと、そういう場所はサントリーと背中に書いたプラスチックのイスをバラバラと並べて、サントリーじゃなくてもいいんですけれど、ちょうちんをもらってきて、ぱあ一っとぶら下げて、こんなもんだよと言って、乾いたおつまみなんかを、ぱんと出して、ビールでも売るというぐらいアイディアは出るんですけれど。あんなにきちんとした場所、つまりお客は、このぐらいを望むかもしれないみたいな、お互いの競争ですね。サービスする側とされる側の何ていうのかな、このぐらいやれば満足するだろうみたいな、そういうサービスというものが、つまり、みんなでそれをつくっていくということが、ひょっとするとよその人を呼んでくる可能性もあるし、自分たちが「それじゃあ、あそこで当事者になってサービス側にまわってやろう」ということになるかもしれない、という段階なのかなという風に思うんですね。そうすると、建物を「こう直そうよ」ということについても、あるいは、「こうした方がもっと便利になる」とか、今まで空き家みたいになっていた、どっか公共施設も、食堂なりレストランが、何かそういう場所が、とても賑やかな人を呼ぶ場所になるとか、それを場合によっては、自らそれを市民が担う。そういう社会、そういうことが、その時に建築家は、そのためにどうそれを、例えが建築物の一部を直すとか、先程の「ロイヤルフェスティバルホール」もそうなんですけれど、また1、2年休んで大改修をやるわけですね。そういうことも、「なるほど、それじゃあやろう」という風に決断が、語彙をしゃべるみたいなことが起きてくるのかなという風に思うんですね.そんな風に思います。


(松 隈)
 実は僕が、たまたま京都にいるものですから前川國男の「ドコモモ」の建物の100選に選ばれた「京都会館」という1960年に出来た音楽ホールと、劇場がある建物が、平安神宮のすぐ近くにありまして、去年45周年になったんですね。50周年を迎える2010年に向けて、改修をしていこうという動きがありまして、その改修の検討委員会に入ってくれ、というようなことで、今それに参加しているんです。一方で京都というのはちょっとプライドがあって生意気な街なんですが(笑)、せっかくその「京都会館」が良い場所にあるものですから、ある文化人の方なんですけれど、「もう京都会館は、そろそろくたびれたし、もういいんじゃないかと。ぶっ壊して3,000人のホールを造ったら、素晴らしいホールができるし、世界からまた人が来てくれる」というようなことを、バブル時期ならまだしもやっぱり言われる方がいらっしゃるんです。何かそういうのがすごくシャクで、僕は実は「京都会館」を見慣れていたものですから、前川國男のところに行きたいと思った人間だったので、もうこれはなんか楽しむしかないなと思って。そしたら、その「京都会館」の館の職員の方々が、そういうことを、すごくやっぱり建物自体を、建物の主として、ずっと親しみを持ってくださって、45周年、何かイベントをやりましょうよということになったんです。それで、去年の10月10日に、見学会とシンポジウムをやりました.学生たちが全部手伝ってくれて、今日、本当は持ってくればよかったんですが、『京都会館見どころマップ』というのを作って、建物の、この場所が見てほしい場所ですよ、というのを作成して、普段上がれない舞台とか、楽屋とか、実は「京都会館」で、今一番素晴らしいと思っているのが屋上なんです。屋上からは、東山の景観は全部、清水寺とかみんな見えて、ものすごく京都に建っている風景がよく見えるんですが、その屋上にも上げてもらって、見学会をやったんです。危機感もあったので、人が来ないとえらいことになると思っていたら、蓋を開けたら500人くらいの人が来てくれました。「京都会館」の屋上に500人近くの人が乗っている状態、というのは、なかなか壮観で、建物を楽しむというか、そんな感じでしたね。それはもちろん、そういう風に会館に対して愛着を持っている方が、中にいらっしゃるということが、すごく大事だったと思うんです。ー方で検討委員会やっているんだから、市の職員が、そういうことをやるのはいかがなものか、といって、館の方がちょっと引いてしまったりしたこともありました。でも、そういう形で協賛金を募ってくださったりして、何かやれることをみんながやってくださって、良い形で会ができたんですね。だから、例えば、集客率が落ちているから新しい建物を造ればいいという発想を、短絡的にされる方がいるんですけれども、じゃあ賑わいを取り戻すために、そういう仕掛けを、毎年、例えば屋上に上がると京都の送り火が、全部五山のうち、4つくらい見えるんですね。じゃあ、「五山の送り火を京都会館の屋上で見る会」を来年はやろうとか、そういう風に、常に、何か建築を使っていく楽しさみたいなものを、いろんなレベルで仕掛けて、例えば、中庭で何か映画鑑賞会やってもいいし、そういう風に考えた時に建物が変わって見えてくるんですね。たぶん、そういうことを前川國男は、どっか上の方で見ていて、僕たちが試されている感じがします。建物を見ている側が試されている感じが、すごくしていて、前川國男の建築だけじゃないと思うんですけれど、これからの建築なり、街を考える時には、そういうようなことが少しずつ楽しみ方として出てきて、みんながそれぞれ気がついてくれるような、そのことが今大事になってきているんだろうと僕は思うんです。野沢さんに、またオランダの話をお願いしてもいいですか。

 〈野 沢〉
 あの、そうですよね。要は一方で参加型、市民参加の社会とか、いわゆるパートナーシップとか、要は行政と市民が、先程、僕は極端に申し上げましたけれど、よく考えると行政と市民の協働というよりも、市というのは、市民のモノなわけですよね。行政のみなさんというのは、良い建築家を選んで、良い建物を造ってもらう時の建築家にあたる人って、その市民の、皆さんに日々のサービスを提供する人ですから、いろいろな専門家として、なるべく有能で上質のサービスを提供する係という感じなんだと思いますね。そうすると、市民の皆さんは、主人として、何ていうのかな、こういう風に、例えば、今のルールをこういう風に変えたいとか、こういう風に、今までこういう使い方はできない。例えば、5時になるとダメですとか、そういうことに対して、主人としてそうじゃないんじゃないか、ということを少しずつやっていけるチャンスと言いますか。協働社会というのは、たぶんそこから何か扉が開いていく。そうすると行政の方も、むしろ責任が全部、行政に押しつけられないという安心感みたいなものが出てくると、どうぞ皆さんの責任で、皆さんの使いたいように、ロビーの下でビール飲んでください、という風に、たぶん、なるんだろうなという風にぼんやり思うんですね。そういうことは、もうすでに、あちこちで実は始まっていて、その感じが何か、僕はすごく期待できるなというと変ですけれど、僕らにとっても気持ちがいいなという風に思っているんですね。今のオランダの話というのは、「アルヴァ・アアルト」というフィンランドの超有名建築家という感じでいまして、彼がドイツに造った建物を見に行ったんです。そうしたら、有名な40年ぐらい前の建物なんですけれど、いろんなところに看板が立っているんですねそれで小さな写真が付いていて、プランが、平面図なんかが付いていて、この部屋は何だって書いてあるんです。もう建物は日々使っている、こういう建物なんですけれど、こういう建物の入り口のところなんかに、こういう看板が立っていて、要は展示物扱いみたいな。建築を見に行った人は、建築を、つまりガイドがいるようにそれを読みながら、その建築が説明付きで見ることができる、みたいなことがあるんですね。もしも、ああいうことが、今度の展覧会を機会に弘前の8つの建物に用意されるようなことがあったり、あるいは、展覧会の会期中ホールが使われていない時には、ホールがちゃんと見に来た外来者、あるいは、市民の方に説明付きで覗くことが可能なような状況がつくれたら、それは主人である、所有者である市民の皆さんにとっても再確認することになるし、それからよそから来た、例えば展覧会を契機に、ここの建物を見に来た外来の人々に対しても、大変丁寧なサービスになるという風に思うんですね。そういうことが少しずつ、何か次の思いつきを探すというか、次の思いつきのヒントを与えてくれるみたいな格好になってくるんじゃないかなという風に思います。あるいは今の、例えば前川さんが設計した建物でも、どこかに、例えば運営上問題があるとか、あるいは性能上問題があることは、当然あると思うんですね。それは古い建物、特に古ければ古いほど、その当時、片づけられる宿題が小さかったわけですから、それについてももっとしょうがないな、しょうがないな、とずっと言い続けて、そのままにしておくよりは、やっぱりそれは今の技術で、先程、松隈さんがおっしゃられましたけれど、今の技術でどう解決できるのか。そうだったら大きな建物を一つ新たに造るよりは、それを「快適なものに少し直していこうよ」みたいな行為を「ロイヤルフェスティバルホール」ほどではなくても、手を入れていく、変えていく、それもなるべく公開で。それからたくさんの知恵を使って。そういうことができれば、どんどん、どんどん今のストックが、もっと活き活きしてくる環境というのは、特にこの街では、何かすごく想像できるというか。そういう気がして、基本的にはすごくうらやましいと思いながら、東京の郊外のスクロール地帯に住んでいる者としては、本当にうらやましいと思いながら今いるわけです。

〈松 限〉
 先ほど「京都会館」のお話をしたんですけれど、京都というのは、結局、神社と仏閣さえ残れば、あとの建物はなくなってもいい、みたいなところが、ちょっと観光都市としてあるんですよ。ですから、町家が、どんどん無くなっている現象に歯止めを、行政としてかけられていない。ようやく、最近気がついて、特別な法律を作って、木造の建築が生き残れるシステムを作って、考え始めたみたいです。条例でもっと厳しく規制を戻そうという気が、ようやく出てきているんですね。ですから、例えば、戦前の建物、洋式的な建築物は、あきらかに今の時代と違う価値を持っているという風に、みんながわかりやすいものですから、守ろうという動きが出てきているんです。でも、「京都会館」みたいに、戦後の建物が、そういう対象として見ることからは、まだ距離がありまして、先ほどの暴論が出てくるような状況なんですね。もしかすると、それはなんかうれしかったんですけれど「京都会館」の館長さんが、「いや京都こそ、京都会館をそういう神社、仏閣と繋げる文化財として発信できるじゃないか。そういう風にして見られるような形で丁寧に直していったらいいんじゃないか」ということを、館長さん自身が、館長さんがたまたま、その前に二条城にいたというせいもあるのかもしれないけれど、でもやっぱりそれを、館長さんにそう思わせるものが、もしかして、前川國男の名前なんか、館長さん知らなかったと思うんですが、前川國男の建築の中に入っている。それは弘前が、前川國男を育てたように、京都の街が、前川にとってみれば、空襲を受けなかった、千年を越える伝統を持っている街に対して、コンクリートとか、鉄とか、ガラスという実は、非常に何ていうんですかね。時間に対しては、そんなにうまく対応できないかもしれないという脆弱な部分を持っている建築の造り方で、伝統や街や自然を破壊しないような建築を、どうしたら造れるんだろうと、ある意味途方に暮れた・‥.その中で、「京都会館」が出てきて、そこではじめて外壁にタイルを使い出すんです。何か、そういう前川國男がもっている建築のタイムスパンの長さと、あともう一つ、前川國男のことで『住宅建築』にも書いたんですけれど、うれしかったことがあって、展覧会の準備をする前の話なんですが、京都の「国際日本文化研究センター」というところで、モダニズムの研究会で、たまたま僕が前川國男のことを話す機会があったんです。前川國男のことをしゃべるということを聞きつけて、コロンビア大学のご高齢の先生が聴きに来てくださった。後で声をかけてこられて、彼が昔、日本で研究するために滞在していたのが、麻布の「国際文化会館」で、調べものに通っていたのが「国立国会図書館」、音楽を聞きに行っていたのが「東京文化会館」だったそうです。前川國男の名前を知らなかったけれど、自分が日本で滞在して、心地よい経験をした場所が全部、前川國男の建築だと知って、ものすごく感銘を受けて、前川國男のことが聴けるということで来たんだ、と声をかけてくださったんですね。それから、一昨年になってしまいましたけれど、「ドコモモ」の世界大会が、ニューヨークのコロンビア大学でありまして、前川國男のことをしゃべった時に、アメリカの古い建築雑誌で『PA(プログレッシプ・アーキテクチャー)』という雑誌があったんですが、その編集者が近寄って来て、1965年、ニューヨークの世界博という博覧会があって、そこで「日本館」を、前川國男が造ったんですけれども、「あの建物は、日本の石垣のデザインと鉄骨の吊り構造という最新の技術を組み合わせたデザインが素晴らしい建物だった。一部がどうも移築されたと聞いたんだけれど、おまえ知っているか」と言って話しかけて来たんです。だから、前川國男の建築が持っているポテンシャルというか、それが国を超えていろんな人が、どこかで経験している。実は、東京ステーションギャラリーで展覧会を始める時に、ステーションギャラリーの館長さんは、東京駅の駅長さんなんですね。内覧会の前に、駅長さんにちょっとだけ説明してくれっていって、お話して会場をご案内したんですけれど、前川國男も知らないだろうなと思って話していたら、前川國男の後期の作品ですけれど、「埼玉会館」という建物があるんですが、そこに来た時に「埼玉会館が前川さんなんだ」と言って、「僕はこの近くに住んでいて、よく見ていて知っているよ」と、そこで急に話がつながりました。幸せなことに、前川さんの建築というのは、やっぱり公共建築が多いですし、どこかでみんなが目にしている。どこかで気になっている。そういう建築が多いですね。そうやって一つひとつ、みんなどこかで気になっている建築が、これほど50年にわたって、時代時代のものが全部揃っているのは、弘前だけですし、弘前のずっと長い歴史の中で、前川國男が一つの、また一つの、この弘前自身から発信できるすごく良い」誇りのものだっていう印象が、来る
度に、僕の確信に近くなってきているんです。

(野 沢〉
 たぶん、東京展が終わってホっとしている実行委員長ですけども…。たぶん何でも弘前展の準備もまた、かってでると思いますので、皆さんで知恵をつけて差し上げて、酷使して頂くのがいいんじゃないかと。上手な展覧会ができた頃に、また私は、桜を見ながら、もう一度現れたいという風に思っています。本当に実物をツアーしながら、徒歩圏で見て、それについて模型なり、図面なりで、もう一度確認ができるというすごく立体的な建築展というのは、建築の展覧会としては、本当に理想的だと思うんですね。たぶん日本でそれができるとしたら、初めてのことになると思いますし、この展覧会の企画と運営そのものが、大変な手柄になるという気が…。「何かしなさい」と言っているみたいで申し訳ないですけれども。本当にそうなると思いますし、ひょっとすると、年末に朝日新聞社の今年の美術展ベスト3というアンケートで、堂々第1位にノミネートされる可能性だってなくはないと思うんですね。そんな気がします。前川展」のプレイペントみたいな感じになってしまって、景観フォーラムでなくなりそうですけれども。是非そんな展覧会になることを期待しています。松隈さん、頑張ってください。


(松 隈)
 景観フォーラムと離れた、というお話があったんですけれど、そうではないと思っていて、最後に少しそのお話をして、おしまいにします。前川さんの建築って、人に手を差し出している建築だと思うんです。今の建築って、ありがちな建築というのは、建物を閉じてしまって、用のない人が来られなかったり、そこの中に来た人だけが、利益を享受するような建築が多いんですが、前川さんの最終的に求めたことは、都市の中に用もないのに佇んだり、そこで何かをしてもいいよ、という場所を丁寧に造り込んでいく。その時にどういう素材と、どういう佇まいと、どういうスケールで建ち、開いたらいいかということを、一生懸命考えた建築家だと思うんです。だから、それは写真になかなか写りにくい。撮り下ろしをして下さった写真家の吉村行雄さんが、すごく苦労されていたんですけれども、たぶんそこに行って、佇んで、使って、初めてしみじみと良さがわかってくような建築だし、もしかすると、前川國男の建築を見ることによって、都市とか、景観という言葉が違った響きで見えて来たり、みんなが、前川國男の目を持つことによって、あるいは、前川國男が造ろうとしたことに眼差しを重ねることによって、まちづくりが変わってきてほしいというか、変わるんじゃないという風に、僕は思っているんです。学生さんたちが造った模型を、ずっと見ていっても、いかに手を広げて、誰でもおいでよ、という建築を造っていることがわかります。大きな庇が人を招き寄せたり、小さな広場があったり、建物の中にも休める場所があったり、そういう仕掛けを、実は前川さんは楽しんで仕掛けていて、気がついてくれよ、という感じで見ている気が、僕にはしているんですね。だから、たまたま今年、生誕100年ですし、展覧会もありますけれども、それ以上に、弘前という場所で、この景観フォーラムもそうですけれど、「前川國男展」を通して、弘前のまちづくりが、前川國男という一つの大きな財産を味方につけることによって、全国のまちづくりの新しい一つの先駆け、近代建築を味方につけたまちづくりというのは、たぶん、まだ全然、どこの町でもやっていないんじゃないかと思うんです。倉敷とか、もう少し古い時代のものはありますが、近代建築、モダニズムの建築が、まちづくりの一つの大きな要素になっていける街というのはなかなかない。だから、それが弘前から始まれば素晴らしいことだと思います。僕はちょっと疲れているので、どこまでお役立てるかわからないんですけれども、まだ使える(笑)と思うので、是非、協力させていただければ、私にとってありがたいですね。よろしくお願いします。何となく、キャッチボールになりにくいお話でしたけれども、一応、対談の形をこれで終わらせていただきたいと思います。どうもありがとうございました。

(司 会)  、
 どうもありがとうございました。松隈さまからは、詳細な前川建築というものの見方、それから考えた方ですね、そういったお話を伺いました。ちょっと、また親近感がわいてきたような感じもしないでもない。また対談の方からは、逆に私たちに宿題を与えられたという感じがいたします。これから前川建築を、どうやって活かしていくのか、といったことをみんなで一緒に考えていければという風に感じております。さて、せっかくの機会でございますので、ご質疑、ご質問ございましたら、一つお願いしたいと思います。前川建築のこういったところが、気になっているとか、そういったところで結構ですので、何かございませんか?

 はい。ないようですので、皆さん満足だ、ということで理解させていただきたいと思います。それでは、本日の講師のお二方に、もう一度、盛大なる拍手をお願いいたします。
 それでは、最後になりましたけれども、今、松隈さまからもお話がございました。皆様のお手元にもですね、現在行われている東京ステーションギャラリーの生誕100年、前川國男建築展のチラシを配布してございます。この展覧会は、先程からも何回もお話しありました。この春の弘前市立博物館の企画展の中で、開催する予定となっておりますので、またご案内いたします。多数ご覧いただきたいと思います。
 それから、もうひとつでございます。皆さまに今日、お手元に配布している資料、アーハウス=『Ahaus』という青森の方の雑誌からとらせていただきました。ご協力をいただきましてありがとうございました。このアーハウスの創刊号の中で、2005年の1月に出たも
のでございますけども、こちらの方で「前川國男と弘前」を特集してございます。こちらの方をご覧になって、また知識の方を深めていただければと思います.
 それでは、どうも長時間ありがとうございました。また、来年お会いしたいと思います。本日はどうもありがとうございました。

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